第4話 隔たり
翌朝は興奮であまり寝付けず、現実と夢の境を歩くように登校した。まだ誰もいない時間帯の学校、通学路、商店街。いつもは熱気があるのに、人がいないだけでずいぶん涼し気に思えた。
東洋の学校で言うなら教室になるまだ誰もいない部屋。そこにいつものように入り、荷物を下ろす。
かばんには一応教科書なんかも入っているけど、退屈な授業に見る気も起きない。
いつものようにここで時間をつぶして、夕方からきっとまた空に昇るんだろう。そう思いながら、リンクスの席を見たとき予想もしていない声が聞こえた。
「よぅ……。昨日は……すごかったな」
僕は声の主を確かめるべく振り返る。
カンがそこにはいた。
カンは僕を認めると伏し目がちな視線をさらに落とし、僕から視線を外した。
「カン……」
カンは気まずそうにして、すぐに教室を出て行ってしまった。
今まで僕に対してやって来た行いに少しは罪悪感を感じているんだろう。無理に追いかける必要もない。今はそっとしておこう。
静かな朝だ。
昨日の出来事から妙な胸の高鳴りが収まらず、早起きしてしまって今こうして学校に来ている。岩で出来た校舎も、日中の強烈な日差しがない今はひんやりと冷たい。
あと少しでみんなやってくる。それまでの間、冷静になって昨日のことを思い出してみるつもりだったのに、近づいてくる足音でそれを断念せざる得ないことを悟る。
「ちょっと聞いたわよフロント君! 前年度のチャンピオンに勝ったそうじゃない! おめでとう!! ……ってそうじゃないわ! どうしてお兄さんの遺志を継いだことを私に言わなかったの? もっと早く言ってくれれば色々サポートも出来たのに! 見て! もう町中あなたの話題で持ちきりよ! ラウさんが新聞記者呼んで例の場所を観光名所にしようって話まであるのよ!」
僕の家は新聞を取るような余裕がない。だからそんなに昨日の出来事が大きなことになっているとは知らなかった。マチルダ先生が広げた新聞の一面に、僕の機体が沈みゆく太陽を背景に映っていた。あの直後エンジントラブルに見舞われてしまって、仕方なくラウ爺さんに頼んでしばらくの間置かせてもらうことにしていた。
涼しい朝のはずなのに、マチルダ先生は額に汗を浮かべながら僕に一気にそう漏らす。
「あのぅ……とにかく。おめでとう。私に出来ることがあったら何でも言ってね? 場合によっちゃ校長先生にだって頼み込んでみるから」
「ありがとうございます。でも、航空レースにはまだ……」
「もう! あと数年早くこの時が来てくれれば私だってもっとスレンダーになって応援でもなんでもしてあげたのに……。あ、機体は何? お兄さんと同じ【陽炎】かしら?」
「いえ、つぎはぎで作られているので……。あの、ですから航空レースにはまだ……」
「あぁ……。待ち遠しいわ航空レース……。あの灼熱の空に銀の翼が無数に舞うのよ! そこに私の生徒が加わるなんて教師生命をかけて……、いえ、私の人生かけてでも応援しなきゃ……! そのためにもまずは……」
どうやら僕の声は先生には届かないらしく、先生はぶつぶつと独り言を言いながら教室を後にしてしまう。
航空レース、どうしよ。
僕はまだその肝心なところを決めかねていた。
航空レースに出るということは父さんを説得しないとならないということ。
父さん、反対するだろうな。
新聞に載った昨日の出来事は、今日の授業にも影響することになってしまった。
「奇しくも航空レースの歴史はこの地から始まりました」
マチルダ先生の奇しくもはたぶん昨日のことを言っているんだろう。
「今から約三十年前、あのもう干上がってしまって川床が見えてしまっているランド川の向こうに見える国、サンドランドに三機の戦闘機が向かいました」
マチルダ先生が指さす遠くの方向からは風が砂を運んできて、蜃気楼もあってか景色が霞んで見える。
本日最後の授業は予定を変えて課外授業ということになった。こんな砂漠で課外授業なんて自殺行為だ。適度に日陰にでも避難しないと物の数分で脱水状態になってしまう。唯一幸いなことは荒れた大地を焼き尽くそうと燃え盛っていた太陽が、今ではもう西に姿を消そうとしているということぐらいだ。
「機体は敵国に囲まれてしまった盟友に危険を顧みず物資を運ぼうとしたの。誰にも見つからないよう、捕まることのないよう高速で。それがみんなが大好きな航空レースの始まり。みんなはこの国の英雄とも呼べるこの三人の軍人さんの子孫なわけで、今こうして平和に授業を受けていられるのも陰で尽力してくれた人のおかげ」
先生の背後には僕が昨日搭乗していた練習機がある。西日を受けて影がどこまでも伸びている。先生はすでに何かを言いたくてうずうずしているようでさっきから僕の機体のほうをちらちらと視線を移しては国境のほうを見ては忙しい。
「そのうちの二人がこの学校に関係する人だなんて、先生もうここに赴任してきてから言葉に出来なくて……」
先生の一言で当然のようにみんなの視線が一人に集まる。
「アーイシャ……あなたの父さんは何か話したりはしてないの?」
集まる視線の先の女の子に僕は見覚えがあった。
「いえ、父とは仕事の話しかしないもので……」
昨日のあの子、そんなすごい子なのか……、とぽかんと彼女を見つめていただけなのに、なぜか隣のリンクスに小突かれる。
「もう、そんな冷たいこと言わないでこっちに来て。歴史の礎を築いた人なのよ?」
アーイシャはなれた様子で集団を抜けていく。きっと何度もこの景色を誰かから感想を求められたのだろう。少しだけ照れているのはきっとこのクラスでは初めてのことだからに違いない。
「どう? この感慨深さみたいなものは、ない?」
この授業は完全に先生の趣味の時間になっている。みんながみんなフライトに興味があるわけじゃあるまい。中にはあくびをする子もいた。
「そうですね……、昔はやむを得ず多くの血を流してしまいました。きっとそれも今日のこの平和につながっていることなんでしょう。多くの犠牲の先に得るものがあるのだとすれば必要な悪もあるのだと思います。人を傷つけることは悪です。父も悪です。でもこのかけがえのない平和を築いてくれた私のヒーローです」
その目は僕を捉えていた。
きっと昨日のことを言っていて、僕が誰かを殴りつけたことを気にかけてくれている。
「この戦闘機もそうです。今ではこうして誰かを運ぶために平和利用をされていますが、もとは兵器。私はこの力に敬意を表します」
アーリアは知ってか知らずか僕の機体に頬ずりをした。
「あ!」と声が出てしまった。僕の機体だ。彼女のじゃない。
「ごめんなさい。そういえばこれはフロント君のものでしたね。前に出てきてはどう? 出来たらみんなの前で腕前を見せてもらえるとみんなも喜ぶと思うんだけど。先生もそのほうが本当はうれしいんですよね?」
どこからともなく拍手が沸き起こり、僕の前の人だかりはモーセの十戒の海のように割れた。
「じゅ、授業の一環で別にフロント君を特別扱いとかそういうことじゃないんですよ? でも、みんながどうしてもっていうなら仕方ない……。フロント君、これるかしら?」
マチルダ先生が割れた人波の向こうで手招きしていた。
「別に行かなくてもいいんじゃない? こんな授業さっさと終わらせて二人でまた練習しようよ」
「じゃあ、さっさと終わらせてくるよ」
「ちょっ……フロント!」
リンクスが僕の腕をつかみかける。どういうわけかよくわからないけど。
「大丈夫。少し話をしてくるだけだから」
人波を通過するたびに僕に求まられるハイタッチ。
みんな僕がジンに勝ったことを知っている。
ジンは……あいつは、強いけど、そのせいで誰からも距離を置かれている。
僕はどうだろうか。あいつほど強くないけど、ジンには勝った。
「ねぇ、後でサイン頂戴」
「握手してくれよ。もしかしたら伝説の始まりかもしれないんだからよ」
「昔一緒に遊んでやったの覚えてるよな?」
みんな口々に僕とのつながりを要求してきた。これがきっと本来の姿なんだ。
「あとでね。あんまり待たせると怒られるから」
いつの間にか僕はスキップさえ踏んでいた。
「いいのよ? もう少し位自分に酔っても」アイーダが笑う。
「夢を見せるのは僕のほうだろ?」
「いいえあなたは夢を見せるのではなく、夢を見る側よ。あなたは勝つの。これからも。昨日はありがと」
「昨日? 何の話?」
同じクラスにはカンがいる。カンはいつもジンと組んでいてカンから昨日の話を漏れるのを防ぎたかった。
「とぼけないでよ。そうだ! ねぇ先生! フロント君実はフライトよりもすごい特技持ってて、いつもクラスの隅で本読んでるけどけっこう動けるのよ? 昨日強盗から私を守ってくれたんです」言いながらアーイシャはどういうわけか褐色な肌を僕に押し付けるように、肩を寄せてきた。
「まぁ! 運動も出来たの? じゃあどうして授業ではいつも見学ばかりなの? 体育の先生にも言えないことなのかしら?」
「あ、いえ……その、彼女の言う動けるっていうのはそういうことじゃなくて……」
「彼女!?」
マチルダ先生はしょっちゅう早とちりをする。急に大きな声を張り上げると大体そうだ。
「フロント君……先生の知らないうちにガールフレンドまで出来るなんて! いつも頼りない感じだったから……。フロイト、あなたの弟はこの私が責任もって立派に育て上げて見せます」
なぜか先生は空のほうへ向かって祈りを捧げ、涙を流していた。
「私が許可します。フロント君。いえ、フロント。アーイシャさんと……。彼女と一緒に飛んできなさい。授業はもう終わりよ! ここからは私の個人的な管轄でクラブ活動を行います」
「名前でもあるんですか?」
人垣からそんなことが聞こえた。
「そうね……。クラブフロイトっていうのはどう?」
「フロントの話なのに兄貴の名前かよ」
「いえこれは大陸を超えた遥か先の国の偉人の名言から今とったの。
非常に強い悲しみというのは、時間が経つと薄らぐだろう。
しかし、失われた者の代わりというのは、絶対に有り得ない。
どんなに心の中にあいた穴を埋めようとしても、また埋められたと思っても、絶対に、それは最初のものの代わりにはなり得ない。
空に会いに行きなさいフロント。少なくとも空にはお兄さんはいるから」
僕は促されるまま搭乗した。西日はまだ照り付けていて、油断したら目を焼かれそうなほどまぶしい。流れてくる雲も赤みを帯びていて、まるで本当にむこうで太陽に焼かれているみたいだった。
空に兄さんに会いに行く。
そんな発想したこともなかった。
僕としては一人でよかったんだけど、どうしてもアーイシャも一緒じゃないとみんなが納得しないらしい。
「ねぇ、早く手を貸してくださらない? 一人じゃ登れないのよ」
「わかったよ」
手を差し出すと、アーイシャはそのまま僕を引っ張った。
唇に柔らかいものが触れる。この感触を僕は前に一度経験している。
歓声が上がり、沸き立つ人波。マチルダ先生は顔を真っ赤にしているけど、視線はそらさなかった。
「なんで?」
「だって……あなたは私のヒーローだから」
高揚感と失望感が急に押し寄せた。
視線を泳がせて僕は一人の女の子を探した。
気が強くて、強引で、でもそばにいてくれて。
夢は踊り子で、今年はそれに選ばれたはずで。
僕はそんな彼女と月齢祭を楽しむはずで……。
リンクスはいなかった。
どこにもいなかった。
探しても、視線を泳がせてもどこにも見当たらない。
「早くエンジンに火を点けないとみんな帰っちゃうわよ?」
後ろでアイーシャがそんなことを言っている気がした。
僕の家には電話というものがない。
もっと裕福な家ならばきっとあるんだろうけど、基本的に言いたいことや伝えたいことは面と向かって話す以外の方法がない。手紙という手段も考えたけど、さすがの僕だってどういう事情でリンクスが急にいなくなったのかくらいは安易に想像がついた。だから手紙や文章なんかよりこうして面と向かって話をするべきだ。
リンクスの家は昔から立派な作りだった。
おじさんはこの周辺地域のまとめ役で、みんなから慕われていたし、何より国営放送のラジオで番組を持っていた。
おじさんは俗にいうタレントだ。今日はどうやらいないらしい。というのもおじさん専用の真っ赤な機体が家と道を遮る門越しには見えなかったから。きっと仕事だろう。
平日の学校終わりだともしかしたら踊りの練習に行っている可能性もあるから、こうして休み返上でリンクスの家に来ていた。
本人に見られる前に練習を小さくしてみる。
「やぁ、元気? あ、あの……この間のことなんだけど」
普段「やぁ」なんて言わない。というかこんな言葉を使っている人を見かけたことがないということは、きっと不自然な話しかけ方なんだろう。
もう一度人目を気にしながら独り言を漏らす。
「リンクス。この間はごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
だめだな。何を言っても所詮いいわけだ。
素直に謝って許しを請う。それ以外ない気がした。
三回扉をノックする。
しばらくペンキを塗り替えていない色褪せた緑の扉は、見た目は乾燥しきった木でできるのに、なんだかやたらと重たく感じた。
返事はなかった。
そりゃそうだろう。近くにいない限りはこんな小さな音で気が付くはずがない。
僕は試されているんだ。本当にリンクスに謝る気があるのかどうか。
「リンクス! いる?」
返事はなかった。
そればかりか、中から人の気配というものがない。
留守なのか……。公衆電話なんてものがこの町にあればもしかしたらもっと効率的にリンクスに会うことができたかもしれないけど、そんなものは小説の中にしかない。
この国はあるものとないものの差が激しい。
謝るのは次の機会にする以外はなさそうだった。もし仮に無理にでもリンクスの家に上がり込んだらそれこそ自警団に捕まりかねない。リンクスも僕を擁護するような発言はしないかもしれない。
僕は、意思とは関係なく踵を返した。
見渡す限り茶色い世界。リンクスの家があるあたりは、僕の家の周囲と違って割と人だかりがある。生鮮品なんかを扱う出店、雑貨を扱う店、今はそのどれもが色味を感じさせないモノトーンで占められているように思える。僕の心境が反映しているからそう思うのかもしれない。はっきりとしないあいまいな色。リンクスに会いたい半面、彼女がどういう表情で出てくるのかわからない以上僕にはどうすることもできない。
リンクスの屋敷を出て、角を曲がる。途端に直射日光が僕を突き刺すかのように煌煌と熱を放つ。まるで僕自身が太陽に触れることで消えてなくなるほどの熱だった。でもそれは実は僕のただの想像で、実際には長く伸びる影が僕を覆うように近づいてきた。
「リンクスを探しているの?」
「どうして?」
「さっきか大きな声で騒いでいるでしょ? そんなんじゃ近所の人から変な目で見られるわよ」
買い物の途中らしい。アイーシャが左腕に麻で編んだ手提げ袋をひっかけて立っていた。
「……会えなかったよ。いないみたいだ」
そんな日もあるさ。リンクスだってずっと僕と一緒な訳がないのだから。肩をすくめるなんて日々日常の会話で使ったことはないけど、きっと今の僕のような人に使うのだろう。
「買い物?」
当たり障りのないことを聞いてみる。
「えぇ。ちょうど今次の月齢祭に着るドレスを取りに来たの。オーダーメイドよ? すごいでしょ」
へぇ、そりゃすごい。という言葉が、頭の中に現れて消えて、次の瞬間には何か大事なことを忘れているような疑いを自分に向けることになる。
「どうしたの? 眉間にしわなんて寄せて……。もしかしてこの間のこと怒ってる? ……だったらお礼もかねてこの先のレストランに行きましょ? 私はまだ行ったことないけど、父さんが言うには有名らしいの」
ポツ。と頬に何かが当たる。冷たく流れる雫は向けた視線の先の砂で丸く小さな黒い点を無数に作り出す。
雨だ。
「あら? まだ国営放送では雨季の話をしてなかったのに……」
アーイシャは差していた白い日傘を今度は雨具にするようで、中に僕を誘う。
「風邪を引いてしまっては悩み事も悩めなくなるわ?」
レストランというにはきっと大衆すぎる店だった。
少なくとも僕が読んできた小説の中に出てくるレストランというものは、高い建物のてっぺんに店を構えていて、そこからは町が一望できる。店内のテーブルには白いテーブルクロス。服装だって余所行きのきちんとした礼装じゃないと入れないし、そこにはきちんとしたマナーもある。ナイフとフォークで肉を切り分けて淡々と食事をする人もいれば、傍らでは頼んでいたシャンパンに秘密の指輪を沈めて彼女にサプライズをする人もいる。
今、僕の目の前の光景とは真逆だ。
僕の住む家よりは多少マシだけど、似たような砂の上に建てられた木製の店。ペンキはもう色褪せて名前すら読むことができなかった。礼儀もルールも曖昧で、素手で食事をとる人もいる。僕は基本的に家ではそうなので驚くことはなかったけど、アーイシャは青天の霹靂とでも言いたげな表情で口を開いたまま閉じられない。あるテーブルの上には山賊を想像させるほどの料理すらある。
「……レストラン?」
入口に突っ立ったままの僕らが入店して最初に言った言葉だ。
「話が……ちょっと、違うようね。でも、食事は取れるんでしょう?」
何かに憑かれたように空いている席に歩いていくアイーダ。止める間もなく座ってしまうので僕もそれに倣う。
アイーダの肌は目立つほど白い。日焼けした屈強な男たちしかいない店内ならなおのこと。
「ねぇ……場所変えない? ちょっと目立ちすぎるって」
「いえ、せっかくだもの。メニュー表はどれかしら?」
どう見ても目の前の四角いテーブルの上には砂ぼこりが少しあるくらいで何もない。
「多分、言えばある程度なんでも出てくるんだよ。とりあえずなんか飲まない?」
のどが渇いていたわけじゃない。何か頼まないとアーイシャが目立ちすぎると思ったからだ。こういう場所が珍しく思うのか、あたりをきょろきょろしては目を輝かせている。周囲とは違い、肌が白いものだから余計に目立つ。
「すいません」近くを通りかかった精悍な男に声をかける。
「ミントティーを二つ」
男は眉間にしわを寄せて、僕を凝視する。
「お客さん、ここ初めて?」
「そう……、ですけど?」
「ここは昼間から酒が飲めることを売りにしてる居酒屋さ。要はクズが集まるんだよ。そんなとこに子供だけで?」というとフッと笑い出す店員。
「子供じゃない。酒くらい飲める」
「私も、お父様と一緒に飲んだことがあります」
「へぇ……。ならどうする? 初めてのビールでも頼んでみる?」
「だからミントティーを二つ」と言いかけた僕をアーイシャが制す。
「じゃあそのビールを二つ。私には氷を入れて下さる?」
僕らがお酒を頼まないと思っていたのだろう。溶けるようなだるだるの顔をしていた店員が、急に表情を変えた。
「氷はない……、けど……。ビールですね。しょ、少々お待ちください」
慌てて木製のカウンターの向こうに消えていく様は滑稽で、胸の中の黒いものが少しだけふっと消えた気がした。
「でも大丈夫? 君のとこの父さん厳しいんじゃない?」
確か町長だとか言ってたっけ。僕の家は集会や会合にはあまり参加しないような浮世離れした生活をしているから町長の名前すら知らない。兄さんが生きている頃は母さんが父さんに変わって顔を出したりしてたんだけどなぁ。
「あの人が気になるのは私じゃないわ。権力とお金よ。頼まれごとさえやれば浮浪者と一緒に食事をしようとお酒を飲もうと関係ないの」といって僕の顔色をうかがうアーイシャは、目を泳がせて謝ってきた。
彼女の家からすれば僕は浮浪者とそう変わらないのだろう。
「別に気にしてない。それよりほら、頼んでたビール来たよ」
ガラスのジョッキに注がれる黒い液体の上には雲のような白い泡が。
父さんがいつも飲んでいる茶色い飲み物のそうだけど、お酒というものはあまり体に優しそうな色をしていない。
「あれが、ビール……?」
「黒ビールってやつだろうね。実際見るのは初めてだけど」
僕らの目の前にドンッと置かれる。その瞬間、泡がはじけてテーブルに散る。
まだ成人にもなっていない子供にこんなものが飲めるのか?
さっきの店員はそう僕らに目で伝えてくる。口元がわずかに緩くなっているのは笑いをこらえている証拠か。視線をカウンターの向こうに送ると店主らしき頭の禿げた男が僕らをじっと見ていた。
「ごゆっくりどうぞ」店員は笑っていた。きっと奥のカウンターで店主と何か相談でもしてあえてこの色のビールを出してきたんだろう。
「馬鹿にして……」言いながら一口飲んでみた。僕の知っているビールよりはるかに苦みがあるけど、飲めないわけじゃない。
燃えるような太陽の下、一時間近くかけてリンクスの家がある地区まで歩いてきたせいかのどが渇いていたようで、口に少し含んだ後は水のように飲みほしてしまった。
機体は件の場所に置いてきた。いい観光名所になる、レースのことは親父さんには黙っといてやるから機体はしばらくここに置いて行ってくれ。課外授業のあと様子を見に来たラウじいさんに頼まれてしまった。
「……やっぱりミントティーにしたほうがいいんじゃない? そのビールなら僕が飲むよ」
じっとグラスを見つめたまま固まってしまっていたアーイシャを気遣って言ったつもりがなんだか彼女を少し不機嫌にさせてしまったらしい。
「いいえ。私が飲みます。あまり見慣れない飲み物なので少し魅入ってしまっただけのこと。お気遣いありがとうございます」
言うと同時にジョッキをあおり、するすると胃の中に収めてしまった。そんなアーイシャに周囲の浮浪者も見とれてしまっていた。
「あら、意外とおいしいのね。もう一杯いただこうかしら」
「もっと度数の低いものを頼もう。この調子で飲んでいたら歩いて帰れなくなってしまう」
手を挙げて追加を頼もうとカウンターのほうへ視線を送ると、店主が驚嘆の顔をしていた。飲めると思わなかったのだろう。そして何やらかがんでテーブルの下から何かを取り出そうとしているのがわかった。
「何かしら?」
「さぁ? またなんか嫌がらせじゃない?」
こんな苦いものをおいしく感じるんだ。何が来たっておいしく飲める自身があった。……財布のことは少しだけ気がかりだけど。最悪頭を下げて皿洗いでもして帰るさ。
追加で頼んだビールを口に含み、ずいぶんと気分が上気していた。天井で回るシーリングファンでさえ眺めているだけでなんだか楽しい気分になってしまう。
どうやら知らないうちにアイーダも追加で注文をしたらしく、目の前で小さな物音をたててグラスが置かれる。
「なんだ、あんなに怪訝な顔してた割には意外と飲むんだね」
「言ったでしょう? 飲むって。ここの勘定のことは気にしないでいいから好きなだけ飲んで」
ありがとう。と口にしようとしたとき、何か違和感に襲われた。
なんだか視線が一点に集まるような、子供のころうっかり迷い込んだ路地裏で野犬の群れに囲まれた時のような感覚に近い。酔いが少し冷めてきて冷静に周りを見られる気がしてくる。
「……ねぇ。さっきからあなたのことをみんなが見てるわ」
「どうやらそうらしいね。別になにしたわけでもないのに……どうしたんだろ」
あんた、あのフロイトの弟なんだって?
声がするほうへ視線を向けると、少し油汚れで黄ばんだ白い前掛けが目の前に来ていたことに気付く。そしてそのまま視線を上にするとさっき厨房のほうで僕らを見ていた店主らしき男が僕らを見下ろしていた。
「そうだけど……?」
「どおりで見たようなツラだと思ったよ。さっきは悪かった。これはその詫びだ。食ってくれ」
出された皿には湯気の立つ大きな串焼きケバブが。僕の家でこれを食べることはめったにない。何か祝い事があったときに無理して食べる。
「よくお前の兄貴がここに通っていてな。レースで勝つと必ずこいつを食ってた。お前さんも勝ったんだろ? 本選のほうも期待してるぞ」
これで周囲の視線の意味が分かった。
「そんなに話って独り歩きしてるの?」
「あぁ。ここいらじゃ知らない奴のほうが珍しい」
店主の一言で店中のならず者たちが僕のほうへ押し寄せてくる。
「おいサインくれよ! あとでプレミアつくかもしれない」
「俺にもくれよ! 娘がお前の兄貴のファンでなぁ」
「押すなって! 先に頼んだのは俺だぞ?」
「俺、実はフロイトと話したことがあって……」
もみくちゃになってもはや目の前のアイーダの姿が見えないほどだった。
「お前ら! 客人が飯食ってるんだ少しは静かにできねぇのか!」
「おやっさん、いくら何でもそりゃないぜ。俺らは客じゃないってのかよ」
「お前ら常連は客じゃねえ。家族だろ?」
そりゃそうだ! 複数人がそういったかと思えば、店内は謎の熱気からがらりと雰囲気を変えて嬉々とした笑いに変わる。
「そういえばおやっさん。今日からここに来るっていう新人が見当たらないんだが……」
「あぁそうだったな……。そろそろ来る頃なんだが、着替えか? 踊りができるとかって言ってたしな」
僕の話題からその新人さんへと話題は移行して、誰しも席に戻ることなくそのまま厨房の方へと注がれる。きっとそこから現れるのだろう、僕も少しだけその新人さんが気にかかって心待ちにしてしまう。
壁掛けの古い時計が午後二時を知らせる鐘を鳴らす。
まだか、と誰しもが凝視する中、その子は現れた。
肩まで伸びた髪、色白のアーイシャとは対照的な褐色の肌、細いシルエットに僕は驚いた。
「……リンクス」
年頃の女の子に接する機会もないならず者たちの歓喜の悲鳴が轟く中、僕だけが取り残されるように呆然としていた。
……どうしてここに? 月齢祭も近いっていうのに、こんなところで何を……?
「すいません! ちょっとこういうところ慣れてなくて、服を選んでいるうちにこんな時間に……」
むさくるしい男の声が、リンクスを許していく。罵声にも近い大声で。
「……まぁいい。初日だし、緊張もしていたんだろう。それより、こっちに来てくれないか? うちの家族が新しい娘のツラをもっとおがみてぇんだとさ」店主が言うと、おずおずとリンクスが歩を進めてくる。
まだ僕と目が合ってはいない。もしかしたら、気づいていて目を合わせてくれないだけなのかもしれないけど。
「初めまして、今日からここにお世話になるリンクスといいます」
不躾な浮浪者がリンクスに触れようとしたんだと思う。不用意に近づいていく手に、嫌悪感が止まらなかった。
僕は嫌悪感の出どころを探していた。なぜどうしようもなく許せないのか、この怒りの正体はなんなのか、リンクスが他の誰かに触れられたとしてそれが何だというのか。理由はわからない。でも、殴り飛ばしてやりたいくらいの怒りに体が震えた。
浮浪者はやめなかった。何度も不用意にリンクスの肩に手を回そうと腕をさまよわせていた。
我慢ならいくらでもしてきたし、たとえ誰かに殴られてもいつものことだと流すこともできる。でも、この時ばかりはどういうわけか自分を抑えることができなかった。
立ち上がり、浮浪者の下へと急ぐ。
「ねぇ! ちょっとフロント君!?」
背後でアイーダが僕を止めるのが聞こえたけど、もう遅かった。
声をかける前に殴り飛ばすつもりだった。
酒を昼間から飲む金がある割に身だしなみの一つも整えることを知らない奴が、リンクスに触れるのが許せなかった。
浮浪者の肩に僕が触れようとした瞬間、目の前の男は苦痛にうめき声をあげた。
「おい。うちの新人に何をしようってんだ? 何も俺はこの子にお前らの下の世話をさせるつもりはない。この子に指一本でも触れてみろ? たとえ家族といえど腕の一本じゃすまないからな?」
店主が腕をひねり上げていた。
「それとフロント。面倒ごとを起こすんじゃねぇ。今年の航空レース出られなくなっちまったらどうするつもりだ?」
僕が何をしようとしていたのか店主はお見通しだったようだ。僕に忠告をしつつ、不届き者がまだいるのではないかと周囲を威嚇するような目つきで見渡している。
僕には目を向けないあたりが、かいくぐってきた修羅場のようなものの数を感じさせる。
店主が僕の名前を呼んだことで、ようやくリンクスが僕の存在に気付く。生気のない目に少しだけ火が宿ったような明るさが戻った。少なくとも僕にはそう見えたし、そう思いたかった。
「……フロント」
「リンクス、どうしてここに? 練習は? 月齢祭だってもう日数がないじゃないか」
「どうしてはこっちのセリフだよ。どうしてあんなこと……」
リンクスがアーイシャの存在に気が付いたのか、急に口ごもってしまった。。
「もしかして、二人ともそういう関係だったの? ごめんなさい、私そういうの疎くて……。もう私帰るね」アーイシャが荷物をまとめて出て行ってしまうのを僕は止めなかった。
もともとアーイシャに誘われてここに来た。彼女も僕にアルコールと提供したことで任務完了というわけだ。……まんまとはめられた。僕をはめたのが誰なのか、大体見当はつく。でもこれでようやく本来の目的を思い出した。僕も僕の任務を果たすべきなんだ。
「この間のこと……、なんていうか……その。ごめん。みんなに期待されてるのが初めてで、調子に乗ってた。本当に、ごめん」
「今日は仕事があるからまた後で」
僕はその時のリンクスの目を見ることができなかった。
自分が何をしたのか、どうしてリンクスが怒っているのかわかっていたはずなのに。
「兄ちゃんフラれたな」
厨房へと急ぐリンクスの背中を見つめることしかできなかった僕の肩に店主が手を置いた。
告白というものすらしていないのにフラれるなんてことがあるのか?
でも、はたから見たらそうなのだろう。
そして僕の中でも、僕ら二人はそういう関係だったのだとはっきりとした痛みが心を少しづつ侵食していった。
まるで砂漠の岩石が風化していくように、少しづつ僕の心は削れていく。
「……今日はもう帰んな。明日また来ればいいさ」
帰り際、僕が勘定を済ませようと財布を取り出すと、約束通りアーイシャが支払っていた。
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