第3話 LEAVE
夢の中で砂丘を走っていた。
息を切らし、追いつけるはずもない空を駆ける兄さんを見上げながら……。
勝ちたかった。今ではどうして兄さんに追いつきたかったのかわからないけど、その時の僕はとにかく兄さんに置いて行かれるのが嫌だった。
そんな夢を見たのはきっとジンに勝ったことに対する高揚感が抜けきっていないせいだろう。
ジンに勝った。
前回航空レース優勝者に非公式ながらも。
もちろん約束事があるから父さんには言えない。
ベッドから這い出て着替えを済ませ、毎朝の日課を始める。軽い準備運動をして、数回の深呼吸。そして、目の前に広がる深い青に飛び込む。無数の魚の群れに、銛を突き立てる。
きっと上で父さんが火を起こしている。いつもみたいにぼんやりと茶色い飲み物を口にしながら。
数匹の魚を手に水面から上がる。どんなに空腹でも全部取らないようにしないとならない。魚だって売り物にだってなるんだから。
案の定一斗缶を細工して作ったコンロで炎は燃えていた。空腹にちろちろと舌を出す蛇のように赤い炎が一斗缶のひび割れから溢れていた。
「何かいいことでもあったのか?」
濡れた体をタオルでぬぐい、父さんの代わりにナイフで魚の内臓を取り出していると背後から聞こえた。
「別に……。いつもと何も変わらないよ」
「その割には今日は魚がずいぶんと大きい気がする。何か祝い事なら父さんが何か買ってくるぞ」
「いいよ。お金ないんでしょ?」
昔は軍の施設で戦闘機の設計や開発をしていたらしく、兄さんとよく見学に行ったものだ。でも、今はもうそんな時代じゃない。父さんの仕事はもう過去のものだ。
いつの間にか東の空が紅くにじんだ色をしだしていた。
またいつもの生活が始まる。
この国には大陸三大祭りの月齢祭という行事がある。
古くはその昔この国で信仰されていた月の女神が太陽神の嫉妬を買い、闇に隠れて二度とその美しい姿を砂漠の民に見せることはなかったという民話から来ているらしい。
その話を最初に聞かされた時、じゃあなんで今はあんなに光り輝く満月が空に浮かんでいるのかと疑問に思った。でもその疑問も年を重ねるごとに別の衝動にかき消されていくことになる。
思春期を過ぎるころからこの祭りに別の価値が生まれるようになるからだ。
祭りで好きな子と一緒に過ごす。僕らくらいの年代はこれが一種のステータスになる。
要するにモテたい。その一心で祭りの一週間ほど前から男たちはそわそわしだす。ある人は急に女の子に声をかけだし、ある人は身なりに気を使う。
今年も僕には無縁の行事のはずだった。
昨日は祝日で、今日はその振替。学校は休みでも空は飛ぶ。
「そうそう。上手上手。ただあんまり急に加速するとGがかかるからっ気を付けて」
「G?」
上空二百メートル。僕が操縦する機体はリンクスから借りたもので、僕のものより軽いらしく少し加速したつもりでも随分と速度が上がってしまう。
僕の機体は訳あって今はラウじいさんのところで預かってもらっている。
「自分の体重以外にかかる見かけの力のことよ。加速すると後ろに持っていかれるでしょ? それのこと。あんまり加速しちゃうと酸欠になるんだから」
無線の音は雑音交じりだけど、理解できないほどじゃない。
「それに最近妙な病気の話もあるからあまり高高度飛ばないほうがいいわよ。大きい病院もサンドランドいかないとないからね」
「じゃあその時はカパラの壁を超えないとね」
「フロントにフロイトが超えられるの? 信じられない」
リンクスは笑っていた。
「本気さ。その時はやって見せる」
兄さんは砂嵐に消えてしまった。僕たちに何も残さずに。
でも僕は違う。やって見せる。少なくとも今の僕ならできるさ。
航空レースのルール上一時間以上のフライトはできない。僕の練習もそれに倣って行われるので、そろそろ時間だ。着陸準備に入る。
空を飛んでいる間は常に死の恐怖が心のどこかにあって、それが緊張感と集中力に直結する。死ねない思えば思うほど、集中力は増す。集中すれば気温も空腹も後悔も感じない。だから着陸したときには毎回その気温にうんざりする。体にまとわりつく熱気と、乾燥。
キャノピーを開けて早々にヘルメットを外す。外気にさらされると新鮮な空気に肌が喜んでいるみたいに気持ちがいい。
「お疲れ様」
声のする法を見下ろすとリンクスが両手を後ろに組んで立っていた。
「この機体のほうが扱いやすいよ。今度からこっちにしようかな」
「私のはレース用じゃないから当日は使えないわよ。それにみんなあの機体に乗らないとなるとがっかりするわよ」
「そうかな」僕は少し照れてしまう。リンクスから目をそらして見上げた空は青い。
「そうよ。新聞記者だって来たじゃない」
ジンに非公式ながら勝ったという話は、その日のうちに地元の報道機関にまで聞こえたらしく、僕とリンクスは質問攻めにあってしばらく帰ることができなかった。
「……イーギス・フロイトの再来。か」
「そんなことも言われてたね。どう? お兄さんと肩を並べた感想は?」
「まだ並んだわけじゃないよ。まだまだ。これから」
おだてるリンクスの言葉がくすぐったくて視線をそらし、空を眺める。すんだ空気に乾いた風が流れていくような様だった。僕が生まれてからもうすぐ十五年。その十五年の間にまさか僕自身が空を飛ぶようになるだなんて、兄さんが知ったらどう思うんだろう? きっと目を大きくして驚くに違いない。
「ねぇ、ご褒美上げようか?」
視線を戻すとさっきより機体に近い位置にリンクスが来ていた。ちょうど機体の影に来ているので表情がよく見える。照れているような笑い。僕にはその意図がよくわからないけど。
「なんでまた急に?」茶化すように笑ってしまう。
「いつもこうしてちゃんと練習してて偉いなって」
「珍しいね、あんまり普段褒めないのに」
「褒めるようなことしないからでしょ? ……月齢祭、一緒に見ない? 私は踊り子としてになると思うけど」
少し照れながら話すには訳がある。これも月齢祭というこの街にある唯一のイベントにある。この祭り最大の催し物がこの年に選ばれた女の子が月の女神に捧げる踊りだ。年に一度しかないこの行事に学校の女子はすべてをささげる。その姿に毎年女児は憧れのまなざしで踊りを見守るものだ。
「選ばれたの!?」
僕が口にしたこの言葉には二つ目の意味がある。一つは長年のリンクスの夢だったということ。そして、もう一つは僕がリンクスに選ばれて、月齢祭に参加する。その意味がどういうものか、僕にどれだけの価値があることなのか、リンクスは一体どういう思いで僕を誘っているのだろうか? 考えるだけでドキドキした。フライトには慣れたはずなのに、陸にいるはずなのに手汗が止まらない。
「……村長が私の踊りをほめてくれたの」
「よかったじゃないか! 昔から憧れてたもんね」
兄さんがいなくなる前は、飛行機乗りになりたいと兄さんを追っかけてたリンクス。兄さんがいなくなると、踊りに熱中するようになっていた。兄さんがいなくなってしまったショックをダンスで消化するように、毎晩練習に参加していた。帰りが遅くなりそうだと、リンクスのお父さんに頼むのではなく、僕に迎えを頼んできた。踊り子の件は認めてくれていないらしかった。
「あとは父さんが許してくれれば大見得切って踊れるんだけどね」
「できるよ。リンクスなら。僕にだって空飛べたんだから。きっと」
「私にも飛ばせて?」
リンクスが搭乗しようと上ってくるのを真に受けて、身に着けていたシートベルトを外そうと慌てていた。
「ねぇ」
言われて視線を移すと、ふいに何か柔らかいものが唇に触れた。
時間が止まり、何もかもが遅れて感じた。
空も。
雲も。
汗も。
風も。
そして次の瞬間には、顔を真っ赤にしたリンクスが何事もなかったかのように降りていく。
「あーあ、やっぱり私が見てあげないと駄目ね! 少し飛んだだけなのに計器が乱れてる」
「ちょっ……。リンクス、今のって……」
「何? 意味を知りたかったらちゃんと来てね? 遅れてきたら承知しないんだから」
この街では月齢祭で女の子と一緒に遊ぶことが一つのステータスだ。夕闇迫る砂漠の街を、僕はこの言葉を反芻しながら歩いていた。
年頃の男子はこの時期になるとそわそわしだし、あか抜けたやつなんかは積極的に女子に話しかける。女子のほうもいつもより身なりに気を使うし、声も心なしかワントーン上がる。
リンクスはどうだろうか?
確かに今日はいつもとは違うような服装をしていた気がするけど、新調してきたとかそういうことではないらしい。声も高かったっけ? ふいに唇に触れたものの正体を思い出した時、体温がぐんと上がるのがわかった。
気分が高揚している。どうしようもないくらいに。だから気が付かなかったのだろう。
僕の機体の影から男女がいきなり飛び出してきた。そしてそれに気づくのが遅れた僕は、男のほうにぶつかってしまう。不可抗力で足をかけてしまった感じになって、すぐさま謝ろうと近づく僕に後ろの女の子が声を張り上げた。
「泥棒よ! 捕まえて!」
見ると男の手にはかわいらしい刺繍の入った小さなかばんが握られていた。
とっさにそのかばんを掴む。相手も取られまいと目いっぱいの力でかばんから手を放そうとしない。
「放したほうがいい。今なら自警団にまでは言わないから」
諭すように話しかけてみたけど、男の目は危機に血走っている。刃物なんて持っていたらもしかして刺されるかもしれない。僕は喧嘩の実戦経験がない。いつも殴られたら殴られるだけの存在だった。
「うるせぇ! ガキが正義ぶりやがって!」
罵声を浴びたかと思えば男は僕にとびかかってきた。
渾身の一撃が僕の腹部をとらえる。嗚咽、痛み、その他に女の子の前でこんなところをさらしてしまう羞恥心でうずくまった僕は悶えることしかできない。
「……まぁ、顔見られちまった以上、なぁ」
見上げる視線の先に、西日に輝くナイフが見えた。
「お願い。立って! フロント! 我慢しなくていいのよ……!」
「フロントォ? フロントってフロイトの弟かこいつ!? ……正義ぶるのは兄貴譲りか? 笑わせる。あいつも自分の物差しで人をはかるような奴だった。弱いくせにいつも俺のことをバカにしやがった。でももうあいつはいない……死んだ。噂じゃお前だけが頭のおかしな幻想を抱いているらしいがどうする? お前の幻想は現実を変えてくれなさそうだぞ?」
兄さんは死んでなんかいない……!
そんな証拠どこにもなかったじゃないか!
「所詮お前は兄貴の腰巾着。兄貴を超えることなんて出来ないんだよ」
──ここには僕を知る人間はいないのが幸いだった。たとえ本気で暴れたとしても誰にも迷惑は掛からない。
「待てよ……」
男の足を掴み、進行を阻む。本気でつかんでいるから、相手もずいぶん驚いているのか足首が少し震えている。
「お前、動けたのか……」
ゆっくり立ち上がり、構える。昔、小説でしか出てこない東洋の格闘技を想像でまねごとをしていたら父さんが教えてくれた。それが酔拳であると。父さんは小説以外に興味をもった僕に歓喜したようで、珍しい格闘技だから人目に付くとやっかみを受けるとの理由で東洋から移り住んできたラウじいさんに僕を押し付けたっけ……。
「今から面白いものを見せてやる。……事情があって記憶を飛ばすほどにな」
「ほざけガキが!」
ぎゅっと伸ばされた腕には白刃が握られている。
僕はそれを躱し、相手の拳を右手で包む。そして、軽く肘の関節を左手で押してやる。ナイフの刃先は僕から相手のほうに向いた。
男は目を丸くして、数瞬動かなかった。
あっけにとられている間に左の拳を脇腹に入れてやる。これで武器はなくなるはずだ。
「野郎ッ……」脇腹を抑える男の手からナイフが落ちる。
ナイフがなくなった男は頭に血が上ったのか、考えなしに突っ込んできたので酔歩で交わす。酔歩とは酔拳の特徴ともいえる動きで、八の字にステップを踏むことで相手を翻弄する歩法だ。
別にショーをしているわけじゃないのに、へたり込んでしまっている女の子はすっかりこちらに魅入っているらしい。
とどめさすか。
僕は左の拳を相手の顔面へと投げる。
「当たるかよそんなもん」相手は笑っているが、どうでもいい。
「あ!」後ろのほうで彼女が叫んでいるけど、関係ない。きっと僕の拳が的を外れたことより、相手がそれにたいして右こぶしを突き出したカウンターを放ってきたことに対しての驚嘆だろう。
相手の男は勝ち誇っていた。よほど自分の腕力に自信があるのだろう。さっきの一撃も正直やばかった。けど、
「当たるかよそんなもん」
僕はフェイントをかけていた。さっきの左の拳はあくまでも餌だ。本命はもう仕掛けている。かがみこんで、体をひねり、足払い。男はついに倒れこんだ。
僕は馬乗りになる。そして、顔面に一撃を見舞うと男は気絶してしまった。
「大丈夫?」立ち上がり、僕は後ろの名前も知らない女の子に手を差し出す。
「ありがと。意外と強いのねフロント君」
呼ばれて記憶をたどるけど、こんなきれいな子僕の知り合いにはいない。そんなこと言ったらリンクスに怒られるかな。
「どうも。それより誰? 悪いけど僕は君のことを知らないんだ」
「……ジンがいつもお世話になってます。私、アーイシャ。ジンの彼女」
ジン……。顔を思い出すたびに恐怖で体から血の気が抜ける。今のは知らない相手だったからとっさに体が動いた。でも、ジンには……。仮にこの姿を見せたら、兄さんの顔に泥を塗る。
「ジンには内緒で」
意外なことにそう言いだしたのは彼女のほうだった。
「もし仮にフロント君に助けられたなんて話したら……」彼女の肩からあざのような黒い斑点が覗いた。
「それはこっちのセリフだよ……。よかった、そっちも同意見で。レースで勝った上にこんな姿見られたらきっと本当に喧嘩じゃすまない」
「勝ったの? ジンに?」
「まぁ……。非公式だけど」
「すごい。信じられない」
そこでようやく僕の手をつかんだ彼女は立ち上がり、尻についた砂を払う。
「帰ろう。もうすぐ日が暮れる。かばん、よっぽど何か大切なものが入っているみたいだね」
「ちょっと、父さんの会議の資料。中身は言えないけど、重要な資料なの」
「へぇ。それを届けるの?」
「いいえ、私が作ったの。多分こいつは私が父さんの仕事の手伝いをしているのを知っていたのね」
「君の父さんって政治家か何か?」
「町長よ。この町の」
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