第十悲歌
いつの日か、何もかも全てのことが分かったら、
歓喜と褒章を、うなずきかける天使にむかって、歌えることを願っている。
邪心のないハンマーが、
かよわいピアノ線や、ためらうピアノ線や、無理に張ったピアノ線をたたいても、
楽曲が乱れないことを願っている。また、涙で洗われた顔が、
ボクに輝きを与えてくれることを願っている。すすり泣く花が開くことを願っている。
そんな願いがかなったあかつきには、繰り返し訪れる夜々よ、悲しみをさそう夜々よ、
貴方がたはボクにとってどれほど愛しい存在になることだろう。静かに泣く夜々よ、貴方がた姉妹を、
ボクは深くひざまずいて、抱きしめるべきだった。貴方がたの、ときほぐれた黒髪に、
ボクはもっと力を抜いて、この身体をゆだねるべきだった。
悲しみを浪費するボクたちは、その悲しみのさなかで、
悲しみが尽きることを心配する。しかし悲しみこそは、
ボクたちを彩る常緑樹、濃い緑色の冬蔦なのだ。
悲しみは秘められた、心の中の季節のひとつ———、いいえ、季節だけではない。
それは場所、所在地、集落、ねぐら、家なのだ。
あの『悩みの都市』に踏み入ると、そこがどれだけ異様なところか分かる。
『悩みの都市』では、ののしり合いの喧騒で聴覚を失った静寂に、
空虚という鋳型による金属の塊、つまり金メッキの喧騒と、
はちきれそうなブロンズ像が、おおげさな姿で飾られている。
天使なら、この見せかけの都市を、あとかたもなく踏みにじってしまうだろう。
『悩みの都市』の果てに、ひとつの寺が建っている。この寺も、『悩みの都市』の住民が既製品を仕
入れて建てたものだ。
見た目はきれいだが、表は閉ざされていて、日曜日の郵便局に似ている。
しかし寺の外では、震える縄で境を張って、縁日がひらかれている。
自由のブランコに、芸につとめる潜水夫と手品師!
飾りたてた人形がならぶ射的場。たまに腕のいい客が射当てると、
人形は倒れてブリキの正体をさらす。やんやの拍手がおこり、射者は有頂天になって、
小躍りしながら射的場を出る。外では、様々な趣向の小屋が立ち並んでいる。
声を荒げ、太鼓を打ち鳴らして、客寄せに余念がない。成人用として、
特別な見世物がある。「金銭がどうやって繁殖するか」。それは解剖学的な、
興味本位の見世物ではない。そこでは金銭の生殖器を見せるのだ。
なんでも見せる。全過程を隠さず見せる。受精から出産まですっかり見せる———それは、
ためになり、お金持ちにもしてくれる……。
……しかし、その少し先は、
板塀の行き止まりで、その板塀には『死すべき運命』という名のビールのポスターが貼られている。
目先の変わったツマミがなければ、とてもじゃないが飲めない例のまずいビールのポスターが。
さらに板塀の向こう、つまり板塀の裏側には、真実がある。
そこでは子供たちが遊んでいる。恋人たちが———、人から離れて、
まじめな顔で、枯草の原っぱに座って、手を取り合っている。犬たちもあそんでいる。
ここまで来た少年は、さらに進んでみたくなる。それはたぶん板塀の前に立つ、
『嘆き』という名の少女に、少年は心惹かれたから……。少女のあとをついて若者は板塀を越え原っぱに足を踏み入
れる。少女は言う。
———遠いあちらの方に、そしてずっと遠いところに、わたしたちは住んでいます……。
それは、どこなの? と少年はたずねて、さらについて行く。
少年は少女の身のこなし、その肩、そのうなじに心を動かされる。
おそらくいい家の出なのだろう。しかしほどなく少年は立ち止まり、きびすを返す。
そして振り向いて、少女に「ここで」と手を振ってみせる……。
この少女のあとを追って、いったいどうなるのか? しょせん彼女は、『嘆き』なのだから。
しかし、気を取り直し、少年は『嘆き』のあとをついていく。好意を持ちながら。
若くして死んだ者だけが、時間を超えた生死の分かれ目で、
地上の習慣から次第に離れつつ、
『嘆き』のあとについていく。『嘆き』は若くして死んだ者が、
自分に慣れるまで、身につけたもの、それは、苦悩の真珠とか、
忍従のヴェール、そんなものを見せながら、
じっと待ち続ける。———若くして死んだ者は、
『嘆き』に一言もいわずに、つきしたがって進む。
やがて少年は、『嘆き』たちが住んでいる谷間に到着する。すると、やはり同じ『嘆き』の名を持もつ年かさの
女性が出迎えてくれ、
少年の問いかけに答えて、こう言う。———わたくしたち『嘆き』は、
かつては大きな種族でした。わたくしたちの祖先は、
あれに見える大きな山を掘る採鉱を生業としていました。人の世に、
ときどきあなたがたは、磨かれた『原苦』の塊を目にするでしょう。あるいは、
太古の噴火によって、生々しい化石になった『怒り』を見つけるでしょう。
そうです。それは、あの山から掘り出したものなのです。その昔、わたくしたちは裕福でした。
そう言って彼女は、足取りも軽く『嘆き』の国の広大な風景を、少年に案内する。
そして、いくつもの寺院の列柱や、
かつて思いやりをもってこの国を統治した王族の居城跡や、
あるいは、生きた者たちには、穏やかな繁みとしてしか認識出来ない、
高く育った涙の樹々や憂愁の花園を、指さす。
さらに、悲しみの動物たちが草を食んでいる景色を指さす。ときどき、
一羽の鳥が唐突に飛び立って、孤独な絶叫の象形文字の線を引きながら、
それを見上げるふたりの眼の前を、低く横切ったりする。
日が傾くころ、彼女は少年を祖先の墓に連れていく。
そこには、巫女や予言者が眠っている。
夜が近づくと、ふたりの足音はさらに静かになる。やがて、
月あかりを受けて、この世のすべてを見守る大きな墓、
ナイルのほとりの兄弟、
封印された墓室を抱えた、
面持ちの、
あの崇高なスフィンクスが立ち現われてくる。
ふたりは、王冠をいただいた顔に驚きの目を見張る。
それは永遠に口を閉ざし、星々の秤の皿に人間の頭を載せた、
張本人の顔なのだ。
少年は、自分のあまりに早い死にめまいを感じ、
その光景を、しっかりとは認識出来ない。しかし年かさの『嘆き』の凝視は、
スフィンクスの頭巾のうしろに隠れているフクロウを追い立てる。フクロウは、
ゆっくり姿を現し、
スフィンクスの円みのある豊かな頬をかすめて、
死者の聴覚の両開きになったページいっぱいに、
言い表せない音声の輪郭を、
やわらかい線で書き込む。
そのとき年かさの『嘆き』は口をひらき、
より高いところの星々、あたらしい星々、悩みの国の星々を指し示し、こう説明する。
あれをご覧ください。あの星の名は『騎手』、そしてあれが『杖』。
星がいっぱい集まったあの星座は、『果実の花環』と呼ばれています。
それからもっと極寄りにあるのが、『揺籃』『道』『燃える書』『人形』『窓』。
けれども、南の空の祝福された手のひらには、清らかに描かれたように、
Mの大文字が、あかあかと燃えています。
それはMUTTER(母)を意味しています。
しかし死んでいる少年はさらに進まなければならない。年かさの『嘆き』は、
無言で、少年を谷の入り口まで導く。
そこには、月光の中で白くけむる輝きがある。
それは喜びの泉です。年かさの『嘆き』は畏まった声で、
その名前を口にした。そしてこう続けて言う。人間の世界では、
この泉が、すべての支えの流れになっていくのです。
ふたりは『原苦』の山の麓に立ち止まる。
年かさの『嘆き』は少年を泣きながら、抱きしめる。
死んでいる少年は、これからひとり『原苦』の山へと登っていく。
やがてその足音も、運命の沈黙から聞こえてこなる。
✿
完璧で無限の死の世界に入った少年は、ボクたちの心に、比喩で真実を思い起させる。
見てみよ、彼は、葉の落ち切ったはしばみの枝に芽生えた、
垂れ下がる花序を指さした。その比喩は、
早春の黒い土に降り注ぐ雨を表している。
幸せは沸き上がってくるものと信じるボクたちは、
心を揺さぶられる。そして、戸惑う。
真実を知って。
———幸せとは、降り注がれてくるものだと知って。
ドゥイノの悲歌 疋田ブン @01093354
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