第九悲歌
どうせなら、残りの命が、
どの樹より、やや濃い緑色の、
葉の縁に、風のほほえみのようなさざなみを立てている、
月桂樹であってもよいのではないかと、思ったりする。
なぜ、人間でなければならないのか。———そして、運命を恐れながら、
その運命に従う生き方をしなければならないのか。これはいったいどうしたことか?……
幸福に恵まれることがあるからではない。
幸福は、禍(わざわい)の先触れに過ぎないのだから。
では好奇心からか。それも違うようだ。ましてや心の訓練でもない。
心なら、月桂樹にもあるはずだ。
はっきり言おう。この世に人間として『ある』ということに深い意義があるからだ。
どうやら、この地上に存在するすべての『もの』が、
ボクたち人間を必要としているようだ。地上のうつろいやすい『もの』たちは、
ボクたちにかかわろうとしている。この地上で一番うつろいやすいボクたちにだ。
すべての存在がこの地上にあるのは一度だけ、ただ一度だけ、一度っきり、それっきりだ。当然、ボクたちも一度っき
りの存在だ。存在に繰り返しなどない。しかし、
たとえ一度であったとしても、このように一度は『ある』であったことは、まぎれもない事実だ。
だからボクたちは、ひたすらに一度だけの、この『ある』の使命を果たそうとするのだ。
この『ある』という事実を素手で抱きしめて、
輝く眼差しで見守り、静かな心で『ある』を包み込み、
地上の『ある』になりきるのだ。———ではいったい誰に、この『ある』を捧げるつもりなのか?
一番望ましいのは、この『ある』の一切を、永遠にボクのものにすることだ。
しかし、地上の『ある』であったあと、迫りくるあの死には、
ボクは何を携えていけばいいのだろうか? 時間をかけて習得した、
『もの』の真実を見極める目などは、持っていくことは出来ない。なしとげたことも持ってはいけない。なにもかも。
では持って行けるものとは何か。苦痛や悲しみはどうか。とりわけ重くなった経験はどうか。
愛のながい経過はどうか、———つまりは、
言葉で言い表せないものばかりなのか。しかし、それらもやがて、
星々の位置に至ったら、どうだというのか。星々こそは、もっとも偉大で『言葉』にならない『もの』なのだから。だとすれば、こうとも言えないか。登山者は山の斜面から、
『言葉』にならない一握の土くれなど、持ち帰ったりしない。
彼らが持ち帰るのは、摘みとった純粋なひとこと。たとえば、黄色や紫色に咲く、
『リンドウと』いった『言葉』だ。だから、ボクたちが地上に存在するわけは、『言葉』を発するためなのだ。
それも家、橋、泉、門、壺、果樹、窓……といった身近な『もの』の『言葉』、
もしくはせいぜい、円柱、塔といった『言葉』を発するためだ……。しかし間違ってはいけない。
『言葉』として表された『もの』たち自身も、『言葉』として表現されなければ、自分たちが存在していると実感できないのだ。
恋するもの同士は、地上の力に促されて、ウキウキした気分になる。それは、
『言葉』を発することが出来ないこの地上のひそかなたくらみではないかと思うのだ。
たとえば敷居。愛し合う二人に敷居とは何だろう?
彼らは古い扉の敷居を踏んで、少しばかりすり減らす。
彼ら以前の多くの人もすり減らした。未来の人もすり減らすだろう。
こうして、かすかに、自分自身の痕跡を敷居に残していくのだ。
この地上に『ある』ときこそ、『言葉』を発せられる絶好の時機、そして『言葉』を発せられる最高の場所。
ならば地上に『ある』とき、『言葉』で心を打ち明けるのだ。今は、かつてのどの時代より、
『もの』たちが崩れ、真実の体験が出来る『もの』たちが滅び去っている。
そういう『もの』たちを追いやって取って替わろうとしているのは、
形がない、殻におおわれた行為だ。
その殻の内部から行為が突き出て、
そこに別の殻の境目ができると、
それはすぐにはじけ散っていくのだ。
ハンマーが狂暴に打ち合うさなかにも、ボクたちの心情は生きている。
かみ合う歯と歯のあいだに、
『もの』を詠(うた)う舌が健在しているように。
天使にむかってこの世界を詠おう。『言葉』で表せない世界を詠えとは言わない。天使にたいして、
キミの感受の自慢をするなどもってのほかだ。この世で、天使ほど強い感じ方をしている存在はない。
キミなどは天使のまえでは、一匹のヒヨッコにも値しない。だから、
天使には素朴な『もの』を詠えばいいのだ。世代から世代にわたって作り上げられた、
確実に手元にある、眼差しの行き届いた、素朴な『もの』を詠えばいいのだ。
まずは、手始めに身近な『もの』を詠ってみよう。すると天使はきっと驚くだろう。
かつてキミが、ローマの綱つくりや、ナイルの陶工を見て驚いたように。
天使に教えてあげよう。ひとつの『もの』がどれほど形よく、
どれほど純粋なままにボクたちの所有になっているのかを。
たとえば苦悩。苦悩でさえ純粋な形状となる決意をもっている。
あるいは完璧な無機質の『もの』となる意志さえもっている。そして苦悩は、
ヴァイオリンなどの至高の響きに転身するのだ。
そしてうつろう『もの』たちは、人間に褒められることを知っている。
うつろうさだめの『もの』は、もっともうつろいやすいボクたちを頼ろうとしているのだ。
『もの』たちは、ボクたちの内部で、転身させられることを願っている。ボクたちが何者であったとしても、ボクた
ちの内部で、転身することを。
地上よ、貴方はボクたちの内部で、
目には見えないものによみがえることを、望まれた。———それが貴方の夢ではなかったか? そうなのだ、地上よ!
目に見えぬものとしてよみがえることが、貴方の望み!
よみがえること以外に、何がいったい望みだったのか。
地上よ。愛する地上よ。ボクは貴方の望みをかなえてあげようと思う。
ボクにこの約束を守らせるために、一度の春を示してくれ。貴方が数多く持つ春は必要ないのだ。
たった一度の春があれば、それでボクの血は十分なのだ。
遠いかなたの世界からでも、名づけようのない決意で、貴方への服従を誓う。
どんな時も、貴方のはからいに間違ったところはなかった。
貴方の最高の配慮は何であったか。それは、ボクらに『ある』を実感させる死だ。
見てくれ。ボクは生きている。
いま、実感しているこの『ある』の使命を果たそうとボクは、幼児期もそうであったように、
また未来もそうであるように、『ある』がみなぎり、『ある』で溢れかえっているのだ。
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