第八悲歌 ※ルドルフ・カスナ―に捧げる
動物たちは、自然に従い、野生の眼で、
捕われのない自由な世界を見ている。かたやボクたち人間は、
捕われた限定の世界に眼が向いている。それどころか、
動物たちが勝手に自由な世界へ逃げ出さないよう、出口に何重もの罠を仕掛けている。
それでいながら、出口の外側にあるものを、
動物のまなざしから想像している次第だ。幼い子供の眼も、
ボクたちに都合のいいほうに向けさせ、
限定された狭い世界だけを見るように強いている。けっして動物の眼に、
あるほど深く沁み込んでいる自由の世界を見せようとはしない。死から解放されるその世界を。
死を認識しているのは、ボクたち人間だけだ。動物は、
死を認識しているわけではなく、
ただ自分の前に見える偉大を、じっと見つめているだけなのだ。動物の歩行は、
永遠への歩みなのだ。それは、泉に水が湧く様子に似ている。
ボクたちは、ただの一度も、たった一日も、
花を無限に咲かせる、
純粋な空間を眼にしたことがない。ボクたちが向き合っているのは、徹底して限定された形状だけだ。
それは『拒否などない、どこでもない空間』。
たとえば、呼吸、純粋の空間、意識されない空間。
子供は、放心状態で意識外のほとりに迷い込んだりする。
すると大人は手荒に子供を揺さぶり、形状の世界に呼び醒まさせる。
またある人は、死に際に意識外の存在になりきったりする。
と言うのも、人が死を臨む眼は、死など見ておらず、もっとずっと遥かに向いているからだ。
それはたぶん、無垢な動物のつぶらな眼と同じものなのだろう。
愛のとりこになった人の眼も、愛の対象に視線を邪魔されなかったら、
そんな眼に近づくはずだ。そして、何かのあやまちのように、愛の対象の背後にある、
遥かかなたの純粋にハッと気がつき、驚きで眼を見張る。
ただ、愛の対象を乗り越えて、純粋のほうへ視線を進ませる人はめったにいない。
見えるのは、ただ不自由な閉ざされた世界だけなのだ。
ボクたちの眼は、いつも形状に向いていて、
そこに、自由の反映を見ているだけだ。しかも、
ボクたちの影で薄暗くなっている反映を見ているのだ。もの言わぬ動物が、
ボクたちを見上げるその静かな眼は、ボクを突き抜けて遥か彼方に向き合っているのだ。
ただ向き合うこと、いつも向き合うこと、
これが運命というものなのだ。
もしも、足取り確かな動物が、
ボクたち人間と同じような意識でもって、
ボクたちのほうに近づいて来たとするならば———、ボクたちの眼を、
動物が見ている世界の方に向かわせることが出来るだろう。
しかし動物に自意識がなく、それだけに自分を無限のものと感じていて、
その視界は広大だ。ボクたちは戸惑うばかりだ。
ボクたちが未来を見ているところに、動物は一切を見ているのだ。
そして、その一切の内側に自分を、
永遠の救われた自分を見ているだけなのだ。
と言いながら、動物も警戒感に身をほてらせて、
その内側に憂鬱な重い不安をかかえている。
つまり動物たちに、いつもまとわりついているものがあるのだ。
それはボクたちをも圧倒するものだ。つまり母胎にあったときの記憶だ。
かつては、もっと手近な場所にあって、強くつながり、従順で、
愛で守ってくれた母胎の記憶だ。母胎は呼吸そのものだった。
最初の故郷である母胎を離れて、いま生きているこの世界は、曖昧で不確かだ。
卵からかえる昆虫や魚や両生類や爬虫類は、なんて幸せものか!
彼らは母胎の中ではなく、大自然そのものの中に生れおち、大自然を母胎としている。
卵からかえる羽根を持つ昆虫は、なんて幸せものか! 彼らは自分の婚礼の祝宴のときでさえ、
大自然という母胎の中で踊っていられるのだ。彼らにとって一切は母胎なのだ。
しかし鳥を見てみよう。鳥は大自然の中の巣の中で、
母鳥の羽毛に温められて生まれる。
つまり、胎生動物と卵生動物の中間のような、どっちつかずの存在だ。
鳥には落ち着く場所はないのだろうか。
たとえるなら、棺の中に納められながら、
柩の蓋に、死骸の横たわる姿が浮き出ている、
あのエトルリア人の、天(あま)がける死者の霊のように、
二重の存在に近いのではないだろうか。
母胎から生まれながら、空を飛ぶ宿命をもった生き物は、
空中を跳びまわりながら、慣れない自然に怯えつつ、
驚きも感じている。それは、
陶器にヒビが走る状態に似ている。
コウモリは、夕焼けという釉薬にヒビを入れる。
いついかなる場合でも、見る立場のボクたちは、
見つめるだけで、ひろい世界に踏み出しはしない。見ることだけで手いっぱいなのだ。
ボクたちは物事を秩序だてそれで満足する。しかしそれは崩れる。崩れたら、また組み立てる。
すると今度は、ボクたち自身が崩れる。
ボクたちが何をしようとも、いつも、
ボクたちの姿を逆さまにして、去りゆく者の姿勢に変えようとするのは、
いったい誰なのだ。去りゆく者は、
最後の丘に立ち、すべての谷底を見下ろして、
振り返り、歩みを止め、しばし佇む。
そのようにボクたちは別れを繰り返し、生きていくのだ
※ ルドルフ・カスナ― リルケと交流のあった思索的著述家。
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