第三悲歌

愛する人を詩にすること、それと、血の河に隠れ棲む、

『欲情』の河神を詩にすることを、混同してはいけない。それは全く別のものなのだから。

恋に夢中の少女は、遠くからでも恋人の少年を見分けられる。ただ当の少年は、

少女の純真な気持ちを無視して、自分自身の中で、

奇妙な液体をしたたらせながら、

巨大な鎌首を持ち上げるものを、抑えることが出来ない。

それどころか、その正体が何なのか、まだ分かっていないのだ。それは、

闇夜を掻き回す得体のしれない『欲情』の海神。

恐ろしい三叉の矛。

ねじれた法螺貝から沸き起こるどす黒い息。

夜は窪み、また傷つき、うつろな叫び声をあげる! 夜を飾る星々は、

少女の微笑みに惹かれる少年の心そのもの。そして、

少女に向ける初心な少年の瞳は、清らかな星々から学んだものではなかったか?


少年の眉が優しい弧を描くのも、

唇が甘く緩むのも、彼が、

少女に惹かれたからとも、優しい母親をいたわったからとも、言い切れないのだ。

少女よ。朝風のように軽やかに歩くアナタたち少女の姿が、

少年の心をときめかしたとでも思っているのか? 違うのだ。

確かに、少年はアナタたち少女を見て気持ちが揺れた。ただしそれは、

大昔から累々と引き継いだ『欲情』が、少年の身体の中に溶け込んだからなのだ。

アナタたち少女は、少年を揺さぶって、理性に目覚めさせてあげなければならない。

しかし少年を暗い『欲情』から、呼び覚まさせることは出来ないだろう。

少年もまた、『欲情』から抜け出ようと必死にもがき、

アナタたち少女の優しさに身をゆだね、そこを隠れ家として、理性を持った自分を取り戻そうと、やっきになってい

る。

しかし少年は、一度もそれに成功したことはない。

ところで少年の母親よ。アナタは彼を、汚れなき可愛らしい人間として産んだ。

アナタは幼い彼にうなずきかけながら、慈愛の化身となって身をかがめ、この世の脅威から彼を護った。

そのほっそりとした身体で、沸き立つカオスの前に立ちはだかったのだ。

そして、暗がりに蠢く不気味なものを、彼の目からかくした。

怪しさにみちた夜の部屋で、アナタの胸に宿る慈愛の空気を、

子供を襲う暗闇の空気に吹き込み、その敵意を希釈させた。

アナタが灯を運んで来ると、闇に光が置かれると言うのではなく、

その慈しみ深い輝きによって、母性で子供を包んだのだ。

そんな柔らかく暖かかった歳月は、どこに消えていったのか?

家のどこかがギイと軋んだら、アナタは微笑みながらその理由を語ってやった。

床板がいつ騒ぎ出すのか、ずっと昔から知っていたかのように話してやった。

子供たちは、アナタの言葉に聞き入って不安をやわらげた。

アナタは子供たちに、これほど多くのことを、優しくなしとげていったのだ。

子供を襲うこの世の恐怖は、すっぽりとマントを被り、戸棚の後ろに隠れてしまった。

そして子供を不安にしていた未来は、さっと逃げて、カーテンの襞々に身を包んでしまった。


そして彼は安心して瞳を閉じ、

しだいに眠くなり、夢うつつの境目に、ママの優しい姿を溶かし込んで、

その甘さをゆっくり味わいながら———、

自分はしっかり護られているのだと思った……しかし、彼のもっと深い内部はどうだったのか?

  眠っている彼らは無防備だった。

悪夢におののき恐れながら、

世代を越えて受け継がれてきた『欲情』の侵入を許してしまった。眠りながら、

 ———熱にうなされる未熟な彼ら。

  『欲情』は、おろおろ戸惑い熱にうなされる彼らを巻き込んで、

絡み合う蔓草となり、あるいは奇妙な図柄になり、

息の根を止めるほどの密林となり、またあるいは疾駆する野獣の姿となり、

彼はそれらにがんじがらめにされ、———やがて、それらに織り込まれ、

すすんで身をゆだね、愛しさえしたのだ。彼は内側に現出した荒れた密林を愛した。

湿って鬱蒼とした森の中には、朽ち果てた木々が横たわり、

その木の枝の亀裂から、彼の心は若芽となり頭を覗かせ、見えた景色を愛した。

いや、愛すに留まらず、若芽はさらに成長し、

遠い原始の世界に、喜びながら根を伸ばした。その生命の谷底には、

ボクたちの祖先の血の中に、『欲情』と言う恐ろしい怪獣が横たわっていた。

この怪獣は彼に、お前のことはよく分かっているよと、

ウインクをしてみせたのだ。いえ、微笑みさえ送った。……お母さん、

アナタでさえ、これほどに優しい微笑みを送ったことはあったか?

微笑みかけられた彼は、この怪獣を愛さずにはいられなかった。なぜならこの怪獣は、

お母さん、アナタより先に、アナタの息子を愛していたからだ。

アナタが彼を身籠ったとき、その羊水にすでに溶け込んでいたのだ。


ボクたちは野に咲く花のように、たった一年で愛を終わらせたりはしない。

ボクたちが愛の行為に耽るとき、

太古から引き継いだ本能の樹液に身体を浸すことになる。

するとお嬢さん、こういうことになる。

アナタが愛したものは、ひとりの人間ではなく、未来でもなく、無数に絡み合った過去なのだ。

アナタは、谷間に横たわる、崩れた山の残骸のような祖先の男達を愛したのだ。

涸れた川床のように横たわる祖先の女たちを愛したのだ。

それは雲に覆われた宿命、

あるいは晴れわたった宿命の下の、音のない全風景なのだ。これがお嬢さん、

アナタが生まれる前からあった、太古からの愛の原風景なのだ。


そしてお嬢さん、アナタが少年の内側に、

太古から引き継がれた彼の原風景を誘い出したのだ。それはつまり、

もうこの世にはいない男たちがよみがえったと言ってもいいことなのだ。

過去の女たちが、アナタに嫉妬している。過去の暗い男たちを、

アナタが愛する少年の血管の中によみがえらせたのだから。さらに言えば、死んだ赤ちゃんが、

再び生き返り、アナタの胎内に宿ろうとしているのだから。出来ることなら、そっと、そっと、

アナタのつつましい日々の営みで、迷える少年を穏やかに包み込んで欲しい。

平和で満ち足りた庭園へと少年を誘ってほしいのだ。

そして星々が輝くあの夜空の重みで、

            ……彼を抑えてほしのだ。

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