第二悲歌
すべての天使は恐ろしい。貴方たち天使は、ボクたち人間のことを、とるに足らない存在と思っているのだ。
貴方がたは、気分次第でボクたちを瞬殺できる『翼を持った魂』。
その事実を、知り抜いているボクが、敢えて貴方がたに問いかけたい。
ボクたち人間と貴方がた天使が、優しい関係を持っていた、あの※トビアスの時代は、どこに去って行ったのでしょうか?
至高の輝きを放った貴方がたのひとりが、その威光を押し隠し、みすぼらしい旅人の装いで、貧者※トビアスの家の戸口に立ったあの時代のことです。
(トビアスの好奇心いっぱいの目に映ったものは、自分に向き合うただの青年の姿だった)
このトビアスの前にお立ちになった大天使、今では恐ろしい存在になってしまわれたあのお方が、
星々のはるか彼方より、ほんの一歩ボクたちのほうに近づいたとしよう。
すると、ボクらの心臓は早打ちを始め、ボクたちは死んでしまうのではないだろうか。天使よ、貴方はいったい何者ですか?
神が最初に創った最高傑作、全創造物のヒーロー
宇宙の大スター、朝日を照り返す雪の山頂、
一万年に一度だけ咲く花の花粉、
光線、多柱廊、豪奢な階段、玉座、
宮殿の礎、喜びの盾、魂を持ち去る
陶酔の嵐、そんな存在でありながら、個々の天使のなすことは静かな
鏡、流れだす自分の美を、自分の顔に汲み戻す者。
それに比べてボクたち人間は、物に感じたはしから、霧散して無になる存在。この五感を、
息として吐き出すばかりで、それを自分の内側に留めることができない存在。薪の燃え痩せていく火。
その赤味はかすかな香りを残して痩せるだけ。いつかはこのボクにさえ、
「あなたは私の血の中で生きています。この部屋も、この時間も、
あなたを思う気持ちで、溢れかえっています……」などと、嬉しいことを言ってくれる人も現れるだろう。しかしそれが何だと言うのだ。そう口にする人の内側に、ボクが永遠に留まるわけでもないのだから。
ボクたちは、その優しい言葉を言ってくれた人から、あるいはその人の周辺から、やがては消えゆくのだ。
どんなににキレイな人の容姿も、それを保ち続けることは無理なのだ。
今、顔に留まっている輝きは、やがて必ずなくなってしまう。
葉脈にとどまる朝露が乾くように、熱い飲み物が冷めるように、
どこかに去って行くのだ。
その顔に浮かぶ優しい笑みは、どこかに去って行く。そしてアナタを見つめるこのボクの眼差しも、
そしてアナタを思うボクのこの熱い思いも、やがてどこかに消えて———?
しかし、これがボクたち人間なのだ。では死んだボクたちは、
宇宙空間に漂う匂いぐらいには、なれるのだろうか。
そうだとしても、天使に受け入れられるものは、
ただ天使に属するものだけ、天使自身からあふれ出すものだけ。
それとも、ボクたちの匂いのいくぶんかが、何かの間違いで、
天使の属性に紛れ込むことがあるのだろうか。妊婦はときおり漠然とした不安を顔に表す。
その程度には、天使の表情に、ボクらの匂いは漂うのだろうか。しかし、天使は自分の属性を自分の中で掻き回すことに夢中で、
自分に紛れ込んだ人間の気配など全く気にもかけてはくれない。天使がそんな微細なモノを心に留めるわけがない。
しんしんと深まる夜気に包まれる恋人たちは、気の利いた言葉を知っているのなら、
そのひとつでも口にして、強く抱き合うだろう。しかし自然は、
ボクたち人間に何か大事なものを隠し、それを誤魔化しているように思えるのだ。ほら、あそこに樹々が見える。
それにボクたちが生活している、
家も確かにあって、事実それが見える。しかしボクたちは、
絶えず替わる疾風のように、すべてのものの傍らを流れ過ぎていくだけ。
自然はしめし合わせたかのように、人間を無視し、なかばバカにしながら、
同時に、自分たち自然のことを語ってくれる存在として期待しているのだ。
恋し合っている人たちに、寄り添って至福を感じている人たちに、
ボクは、人間の存在について尋ねたい。
手と手を握り合っているが、それだけで、相手の存在の証(あかし)はたてられるか。
このボク自身は、右の手と左の手が触れあったとき、
やっと、自分に左右があることに気づくぐらいだ。あるいは疲れ果てた、
自分の顔を両手で包んでホッとするとき、安らいでいる自分を感じられる程度なのだ。
だが、たったそれだけのことで、ボクは本当にここに存在していると確証できるのだろうか。
互いを刺激してオルガスムスに達した恋人たちよ。
感極まって「いっちゃう。もう死んでもいい」と叫ぶ者たちよ。愛撫に愛撫を重ねて、
熟れたブドウのようになった者たちよ。
恍惚で身体も心も蕩けそうになった者たちよ。
絶頂で一つに溶けあった者たちよ。ボクは、アナタがたに尋ねたい。それで相手の存在を実感できたか? ボクは知っているのだ。
アナタたちの肌と肌を摺り合わす陶酔が、じゃれ合う愛撫の交感が、時間を止めたように錯覚させているだけであることを。また、
セックスに溺れるベッドが消滅しないように、
愛もまた、永遠に続くように思わせていることを。
こうしてアナタたちは、肉欲の快感の罠にはまって、永遠と言うものを得たように勘違いをしているのだ。
だけどよくよく考えてみよ。出会って愛しはじめた頃の、
眼と眼を見つめあったもどかしさや、会いたい気持ちの切なさや、
初めてのデートの恥ずかしさは、どうだろう。
あれからずいぶん時間は過ぎたが、今ではその気配すらないのではないか。
それでもアナタは、愛が永遠に続くものだと信じられるか。つま先立ちになって、眼と眼を見つめ合って、交わしたキス。
キスをする人は、キスと言う行為で、自分自身を見失っているではないか。
アナタたちは、アッティカ時代に刻まれた人間の像の初々しさに、
驚かれたことはないか? そこでは、愛や離別といったテーマが、
カップルの両肩の上に、フワッと軽やかに、
ボクたちの時代とは違った素材で彫り出されているのだ。その二つの手を想像してみよ。
二人は力あふれる身体を持ちながら、羽毛のようにそっと互いの肩の上に手を添えている。
自分と言うものをわきまえていた彼らは、この軽やかな接触が、ボクたち人間の限界であることを、
そして、そのようにソッと触れ合うことが、ボクたち人間の定めであることを、知っていたのだ。
神々なら、ボクたちにもっと強い力を加えるが、それは神々にのみ許されたものなのだ。
ボクたちも、ほんものの、つつましく、ささやかな、
河と岸に横たわる人間に相応しい、一筋の耕地を見つけだせればいいのだ。
そう願う、自分を乗り越えようとする心に、今も昔も変わりはないはずだ。
それなのにボクたちは、心をあの時代の人々のように見ることは、もうできないのだ。
心を、和らげ静める像のなかに入れても。
心を、もっとおおきな節度を持つ、神々の像の中に込めたとしても。
※ トビアス
『聖書』の外典『トビアス書』に登場する人物。その内容は次の通り。
老トビアスが病んで貧者に陥ったので、息子の青年のトビアスをメディアにつかわし、以前に人に貸した金を集めさせようした。そのとき、天使ラファエルが青年の姿となって、トビアスを守りながら道案内をし、無事に旅を終わらせると、再び天使の姿に戻って消えた。
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