第一悲歌

ボクが大声で呼びかけたとして、あの高いところにいる天使は、

はたして耳を傾けてくれるだろうか? 万が一、天使の序列につらなるひとりが聞きつけ、

気まぐれに地上に降り立ち、ボクを「どうした?」と抱きしめてくれたとしよう。

ところが当のボクは、天使の強烈な存在に、焼き滅ぼされてしまうに違いないのだ。

ボクたちが美しいものを見て、賞賛する程度でことが納まっているのは、なぜだと思う?

それは『美』が、ボクたち人間を本気で相手にすることを、面倒くさく思っていてくれるからなのだ。

天使とは、実は恐ろしい存在なのだ。 

ボクたちは、天使の恐ろしさにおののき、泣き声をおし殺し、呼びかけを諦めるべきなのだ。

ではボクたちは何に頼ればいいのだろうか?

天使を頼れば焼け死ぬ。弱ちょろい人間なんかまったくあてにならない。

動物なんかは、人間が小賢しいことを口にする割には、

自分で意味づけたこの世界に、ちゃんと居ついていないと見抜いている。

となればボクたちの頼れるものとしては、

日ごろ何気なく目にしている、あの斜面の樹とか、昨日歩いたあの道とか、

身体になついているこの癖とか、そんなものじゃあないだろうか?

あっ! それに『夜』というものがある。世界空間をいっぱいはらんだ風が、

ボクたちの顔を洗ってくれる『夜』。

待ち遠しくて、———せつない気持ちにさせてくれる『夜』。

やさしく幻滅と言うものを説いてくれる『夜』。ひとりひとりが、思いを深める『夜』。

『夜』は間違いなくボクたちが頼れる身近な存在だ。ただし、『夜』に愛し合う者たちに『夜』の安らぎは理解でき

ないのではないだろうか。

いやいやそんなことはない。愛し合う者たちは自分を誤魔化しながら、空虚を抱きしめているだけなのだから。

キミはまだ、それを見破ることが出来ないか? キミも、その胸に抱えている空虚を、

いっそのこと、ボクたちが呼吸しているこの空間に投げ出してみてはどうだろうか? 

きっと鳥たちは、嬉々とした羽ばたきで、空間がどれだけ広がったか実感するだろう。


年ごとに巡ってきた春は、キミに賞賛されたいと思っていたはずだ。

輝く星々は、キミに感動してもらいたいと望んでいたはずだ。

過去の思い出は、大波となってキミに思い出して欲しいと襲い掛かってきたではないか。

開かれた窓から聞こえたあのヴァイオリンの音色も、

キミに身体を傾けてきたではないか。

万物は、愛して欲しいとボクたちに身をゆだね、同時に愛しているよと手を差し伸べてきたではないか。

ところが中途半端なボクたちは、それらに応えてやらなければならなかったのに、

無用なことに気を散らし、例えば見るもの聞くものに、

身勝手な期待を抱いて、色恋の安易な空想を膨らませはしなかったか。

ひょっとすると、景色や音楽に恋人との出会いを予感したりしなかったか。

『夜』こそ、思索を深める時なのに、情欲の思いばかりに振り回されたりしなかったか。

どうしても情欲に勝てないのなら、あの報われない愛に生きた女たちに思いを馳せてみるのはどうだろう。

彼女たちの心情は、永遠に讃えられるほどには、まだ詠(うた)いつくされてはいない。

愛に報われなかった彼女たちは、激しい熱愛に生きたと自称する誰よりも、

真実の愛に向き合うことが出来た。それは妬ましいほどだった。

詠っても、詠っても、詠いつくせない彼女ら。誉め言葉の限りをつくして彼女らを讃えよう。

英雄は、自分の没落さえ喜んで受け止め、

それを永遠に輝く伝説のための、ひとつの口実にするではないか。

しかし、彼女たちを愛で燃やし尽くした自然は、

このようなことが二度と起きないように、その燃え滓を自身の内側に葬った。

そう言えば、ボクは※ガスパラ・スタンパの生涯を、

本気に詠ったことはあったか?

失恋の少女が、ガスパラの崇高な実例に憧れるように語ったか?

今こそ、あのガスパラの古い苦しみが、豊かでより深い生を全うさせるための、

気高い模範になるべき時ではないか。愛しながら、

愛する人から解放され、その自由のうえで、報われぬ愛をじっと悦ぶ心情。いよいよ、それを理解する時がきたようだ。

それは、張りつめた弦に耐えきれなくなった矢が、矢以上のものになって、

飛び立つようなものだ。そうなのだ。本来、ボクたちに留まるところなど、どこにもないのだ。


声がする。ボクたちを呼んでいる。その声を真剣に聴こう。

まずは、昔の聖人がやった同じやり方で聴こう。その偉大な声は、

聖人たちを天に引き上げたのだから。しかしその聖人たちですら、

ひざまづいただけで、引き上げられたことには気がついていなかった。

それほどに聖者は一心不乱だったのだ

間違ってはいけない。神の声を聴けなどと、大それたことを言っているのではない。

第一、神の声を聴くことなど、ボクら人間が耐えられるものではない。

ただ、静寂で組み立てられた風のような音を聴けと言っているのだ。

ただじっと耳を傾けるのだ。そうすると、

どうだ、聞こえないか。あの気配。あの気配こそ夭折した者たちがボクらに呼び掛けてくる声なのだ。

かつて旅したローマやナポリの教会堂で、夭折した者たちが、

ボクに語りかけてきた声と同じだ。

先日も、サンタ・マリア・フェルモーサ寺院で死者が墓碑銘をとおして、ボクに何かを頼ってきた。

死者たちはボクに何を頼もうとしていたのか。彼らはこう頼んできた。自分達を包んでいる悲運の外観を

剥ぎ取って欲しいと。

彼らは、自分たちの純粋な働きが、夭折と言う悲運の先入観で邪魔されることを恐れているのだ。


夭折した者が、下界の住処を失ったこと、

覚えたばかりの習慣を捨てなければならなかったこと、

バラの花や、その他の様々に美しいものに感動し、

その美しさに意味を与えられなくなったこと、

いつくしみ深い人の手に抱かれなくなったこと、

与えられた自分の名前さえも、

壊れたおもちゃのように捨てなければならなかったこと、

人や物とのかかわり合いの一切合切がばらばらになり、その破片を傍観すること、

そもそも、地上の望みが絶えたこと、

これらはただならぬ辛さだと思う。

そして死とは、そもそも困難な業(わざ)であり、やり残した仕事を続けなければならないところと言われている。

時間はかかるが、この努力によって、死者たちに微かな永遠が感じられるようになるとか。

———しかし、生者と死者をあまりに厳しく区別するのは、

ボクたち生きる者の犯しがちな過ちだ。言い伝えによると、

天使は自分の歩いているところが、

生きている者の国か、死んだ者の国か、その区別は出来ていないとか。

時間の流れは、生と死の両界をつらぬいて、あらゆる世代と時代を引き連れながら、

轟音とともに、生者も死者も、飲み込んでいく。


やがては、夭折した者たちもボクらを必要としなくなるだろう。

あかちゃんが、お母さんの乳房を離れて成長していくように、

死者たちは静かに地上の習慣から離れていくのだ。こうやって死者との頼り頼られる関係が薄らいでいくのだ。

しかし、哀悼(あいとう)の気持から真実が生まれると信じるボクらが、

死者の力なくして、生の深淵に向き合えることが出来るのだろうか? 心配はしなくてもいいようだ。

その昔、自分の美しさゆえに死んでしまったリノスと言う青年がいた。

そのリノスの死を悼(いた)む泣き声は、音楽の初めになったそうだ。渇き切った地上の隅々にその泣き声は染みわたった。

この伝説は無駄ではない。事実、神と言ってもいいこの青年の突然の死が、

形をなした空虚となり、空虚は振動となり、振動は詩の初めとなった。

振動は、生の深淵を気づかせ、今もボクたちの心をなぐさめ、魅了し、力づけてくれているのだ。


※ ガスパラ・スタンパ 

16世紀のイタリアの女流詩人。彼女のことは『マルテの手記』でも触れられている。ガスパラは、コラルティノ・コラルトオ伯爵が好きだったようで、いくつもの熱烈な詩を贈っていています。しかし彼女の気持ちは伯爵には通じなかったようです。この第一悲歌はで、片思い物語の人物を、彼女たちと表現しています。リルケの『ポルトガル文』の元となった手紙を書いた、ポルトガルの尼僧のマリアンナ・アルコフォラドも、報われない愛に生きた女の一人に、含まれていると思われます。


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