石野 章(坂月タユタ)

 オルヴィスという海辺の街は、薄暗い日没の気配が漂い始めると、まるで別世界へと変貌する。人間の背丈ほどの高さを無数の魚が泳ぎ回り、その青白い鱗が宵闇に淡く輝くのだ。海から上がってくるのでもなく、空から降ってくるのでもない。気がつけば、そこかしこで群れが漂っている。彼らは静かに尾びれを動かしながら、時には電光のような軌道で動き、またゆったりと街角を回遊していく。


 若き画家エルマは、その噂を聞いて遠い土地からはるばるオルヴィスを訪れた。道中は険しく、強い潮風が吹きすさぶ崖沿いの道を何日もかけて進む必要があったが、それでも彼を突き動かす衝動は「空を泳ぐ魚を自分の筆で描きたい」という一念だった。ようやく辿り着いた街は、灰色の石造りの建物が並び、どこもかしこもくすんだ色合いを帯びている。住民は総じて冷めた表情を浮かべ、外から来た若者にほとんど興味を示さない。


 エルマは町の外れにある古びた宿の扉を開けると、小柄な老爺が無表情のまま彼の名を帳簿に書き込んだ。「夜に出歩くのは控えたほうがいい」と言われるが、エルマはどんな目で見られようと構わないという気持ちで夜を待つ。街全体が息を潜めるように闇へ沈み込むころ、画材箱を手にしてそっと宿を出た。


 広場へ向かう石畳の道は人通りが少なく、建物の窓も明かりを落としている。時折すれ違う者がいても、皆うつむいて足早に消えていく。星明かりの下、エルマが立ち止まると、闇の隙間から魚の群れがふわりと浮かび上がった。


 それは正真正銘、“魚”の姿をしていた。水のない空間を軽やかに泳ぎ、ひらひらと尾びれを揺らして、まるで水中のごとく自在に動いている。声にならない驚きがエルマの胸を震わせた。息を吞み、筆を持つ手がかすかに震える。まるで夢を見ているかのような光景だった。


 さらに闇が深くなるにつれ、魚は一匹二匹と数を増やし、広場の上空を群れで回遊しはじめる。月光や灯火の届かない場所でも、その鱗はわずかに青白く発光しており、どこか死の匂いさえ宿しているように見えた。エルマは取り憑かれたようにスケッチに没頭しようとするが、その神秘的な姿はあまりにも捉えどころがなく、焦るばかりで思うように線が描けない。


 一方、通りかかる住民たちの無関心ぶりに、エルマは強い違和感を覚えた。驚嘆する者はおろか、空を見上げる者すらおらず、皆が俯いたまま歩いていく。まるでそこには何の特別な光景も存在しないかのようだった。


 なぜ、あれほど神秘的な生きものに、ああも無関心になれるのだろう。衝撃を受けつつも、スケッチを続けるエルマ。夜も更けるころ、身体が冷え切った彼は宿へ帰り、翌朝、老爺の待つ食堂へと下りていった。温かい飲み物を口にしながら、「あんなに不思議な光景なのに、みんな気にも留めないのはなぜです?」と問いかける。老爺は淡々と、「見慣れたもんさ。俺たちは空を泳ぐ魚を捕まえて食べる。それで生き長らえてきたんだ」と答えた。


 「食べる、って……」エルマは言葉を失う。まさかあれを捕獲し、食べるなんて夢にも思わなかった。しかし、老爺の口ぶりには悲壮感も躊躇いもなく、当然の生業として受け止めているらしい。さらに「ここでは作物がろくに育たないからな」と言い置き、老爺は話を打ち切るかのようにそっぽを向いた。


 次の日の夜も、エルマは再び外へ出る。筆を握り、空に漂う魚たちを懸命に描こうとする。彼らは少しの風にも反応して動きながら、絶えず街の上空を行き来している。あるとき、エルマはその群れの中に左目が潰れた魚を見つけた。他の魚より動きが鈍く、鱗の艶も弱い。だが、その姿には言葉にできないほどの哀感が漂っている。


 エルマは筆を動かす手を止め、幼いころの記憶を思い出す。馬車に轢かれそうになった自分を守ってくれた母は、左目を失ってしまった。それでも、母はいつも笑顔を絶やさず、エルマを気遣っていた。しかし、数年前に病に倒れ、帰らぬ人となった。その面影が、夜空を泳ぐ左目のない魚に重なる。胸が締めつけられ、えもいわれぬ郷愁がこみ上げたエルマは、涙をこらえながら筆を走らせた。


 翌朝、宿の食堂へ向かったエルマは、思いきって老爺に切り出した。「……あの魚たちは、いったいどこから来るんでしょうか」すると、老爺は一瞬エルマを睨むようにして、低い声で答える。「知ってどうする。昔から夜になると湧き出す。それ以上は知らんし、知ろうとする者もいない。深入りするな、ろくなことにならん」


 その気配はまるで“余計なことを詮索するな”という警告にも感じられた。エルマは老爺の目つきに不気味な威圧を覚える。どこからともなく現れる魚。正体を知ると恐ろしい秘密が待っているのか、それとも本当に誰にもわからないことなのか──老爺の沈黙が、かえって忌まわしい想像を掻き立てた。


 エルマは逡巡しつつも、どうしても気がかりでならないことがある。昨夜見かけた左目のない魚だ。母の面影を宿しているあの魚が捕獲される姿など見たくない。思いあぐねた末、彼は勇気を奮い起こし、老爺にもう一つの願いを口にした。「実は、左目がない魚がいるんです。あれだけは……どうか、捕まえないでほしいんです」


 すると、老爺はまるで唇の端を嘲笑させるようにして、「そんなこと、できるわけがないだろう。魚を選んで捕っているわけじゃない。目があろうとなかろうと、俺たちにゃ関係ない」と言い放った。その冷酷な言葉が鋭い刃のようにエルマの胸を刺す。ここには、慈悲を求める余地などないのだろうか。


 それでも、彼は夜ごと筆を取り続ける。逃げ場などない魚たちは、今日もどこかで街の人々に容赦なく狩られ、食べられていくのだろう。ぱちぱちと弾けるような音をたてて、魚がもがき苦しむ姿を想像するたびに、エルマの心は冷たく軋んだ。


 夜の風は強く、遠くで波の音が聞こえる。魚の群れは町の中心を漂いながらも、時折こちらまで流れてくる。そのとき、左目のない魚を視界に捉えたエルマは、もう一刻も待てないとばかりに筆を走らせた。母への想いがこみ上げてきたが、今度こそはあの姿を描きたい――そんな思いが凍えた体に鞭を打った。


 夜明けが近づくにつれ、魚たちの姿は霧散するように消えていく。エルマは限界まで力を振り絞り、ついに一枚の絵を完成させた。その中央には、左目を失った魚が大きく描かれている。その鱗は弱々しい光を宿し、周囲には無数の魚がうごめくように取り囲む。まるで死者の魂が夜の帳を漂うかのような、あるいは、失われた者たちの慟哭を光がそっと包み込むかのような、そんな様子だった。それは、母にどうか安らかに眠り続けてほしいという、彼の痛切な祈りの形だった。


 朝になると、街はいつもどおりの乾いた空気を取り戻す。エルマは宿で仮眠をとったあと、老爺へ旅立ちを告げ、身支度を整えた。重い足取りで石畳を歩き、馬車の待つ場所へ向かう。振り返れば、灰色の海が見渡せる街並みが薄い朝日に照らされている。夜になれば、再びあの魚たちが姿を現し、人々は糧を求めて網を振るのだろう。


 けれど、彼はキャンバスにすべてを刻みつけた。空を泳ぐ魚の冷ややかな美しさと、そこに漂う死の匂い。人々が暮らしを維持するために魚を捕らえる無残さ。そして、左目を失ったまま夜を彷徨う一匹の姿――それは絶望と祈りを同時に宿しているようだった。いずれは狩られ、朝には何も残さず消えてしまうかもしれない。だが、エルマの描いた絵の中では、あの魚は永遠に泳ぎ続ける。まるで母の愛が、彼の中で今なお息づいているように。


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石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552

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