第10話 怖気の水曜日。そして木曜日




 結局その日は、七城尾花のことが終始気がかりだった。

 彰人は授業やバイトでも上の空で、「らしくない」「大丈夫か」と心配された。


 バイトが終わり、夜も深まる中の街道を歩き、帰路につく。

 朝方の雨がやみ、されど曇りはまだ晴れない。そんな曇り夜空を見上げながら、彰人は物思いにふけっていた。


 たった二日間。

 彼女が白く変身する前に過ごした日数を合わせても、両の手で数えられてしまう。わずかそれだけの日数。

 そんな短い時間の中でも、七城尾花の存在が、予想外に彰人の中で大きくなっている。その事実に、戸惑わずにはいられなかった。

 彼女のことが気がかりではあるが、仕方がない。残酷で、かわいそうな話ではあるが、どんなにそれを哀れんだとしても詮無いこと。身体の事は、どうしようもない。何もしてあげられることはない。

 こちらが七城尾花にしてあげられることといえば、せめて話し相手になったりして、彼女が青春を満喫する一助になること。それくらいだよな――。


 そんな事を考えながら、T字路に差し掛かった時だった。

 それは偶然、目に飛び込んできた。


「……ん? 何だ、あれ」


 T字路を右に曲がった先。不規則に明滅を繰り返す電灯付き電柱の下。

 そこに……女性が一人。俯きながら立っていた。

 ただ――その姿が常軌を逸している。

 振り乱したような長い黒髪。手入れは全くされておらずボサボサである。それを暖簾のように顔に垂らし、俯いている。

 服も一応着てはいるがボロボロだ。所々が破れ、土や泥に塗れている。

 身体は微動だに動かない。肌も真っ白で、血が通っているとは到底思えない。まるでマネキンのようだ。

 一体何を……そもそも、本当に生命のある人間なのだろうか。明滅する灯りの中照らされるその姿が不気味だ。ひたすらに不気味だ。

 それに加えて、先程から何か、鼻を突くような異臭がする。まるで生ゴミのような腐敗臭だ。うっ…と彰人は思わず鼻と口を手で塞ぐ。

 ……あの女性のものだろうか。だとしても、これは人が発していいような匂いではない。


 明滅……明滅、明、滅……明滅、明滅、明、滅……明。

 

 電灯の光の明滅、その間隔の不規則性が不安を煽る。

 次に明かりが消えて、暗闇の中再び灯ったら、あの女が目の前に瞬間移動し、物言わずに立っているのではないか。そんな、ホラー映画のような映像が、一瞬脳裏に流れる。

 気温は熱帯夜といっていい。それなのに、あの場所から、冷たい風が流れ込んでくるようだ。それが、彰人の身体に纏わりつき、背筋をツ……と舐めた気がした。


 幸運なことに、帰路につくために、あそこを通る必要はない。彰人は、背筋に怖気を感じながら、そそくさと場をあとにした。

 後ろからついてくるのでは……と、しきりに背後を気にしながら。




(何だったんだ、あれ)


 ひたすらに不気味だった。あの光景が忘れられない。

 七城尾花への心配が、あの光景に塗り替えられてしまった。夢に出てきそうだ。

 明日もあそこを通るのだが……嫌な気分だ。

 しかし、女性……長い黒髪……。

 最近どこかで、その二つのワードを意識した記憶が、心の片隅に残っている。


(バイト先で行方をくらませた、女社員さん……?)


 ……まさか、な

 そんなことを、天井の傘つきの蛍光灯を見上げて考えながら、彰人は眠りについていった。眠りにつく前の最後の記憶は、しまったバイト先に傘忘れた、だった。



 そして翌朝。すっかりの快晴で、無風。照り付ける日差しにアブラセミの鳴き声が容赦なく暑さを演出する。

 家から九重高校までの距離は1㎞と少し。歩いて十数分だ。彰人は健康の為に、基本は徒歩で通学している。

 昨日のT字路に差し掛かった。

 先日の不気味な光景がフラッシュバックする。


 ……まだ「あそこ」に立っていたりするのだろうか……。


 アブラゼミが鳴く中、恐る恐る、T字路を覗いてみる。ゆっくりと、ゆっくりと。


「……居ない、か」


 彰人は胸を撫で下ろした。だが彰人は遠目から、妙なものを発見した。


「何だ? あれ」


 彰人は呪われた空間に足を踏み入れるかのように、ゆっくりと、誘い込まれるように歩き出す。進めば進むほど、もう後戻りはできない場所に進んでいっているのではという錯覚に陥る。

 電柱の真下。昨晩、まさしくあの女が立っていた場所だ。

 もしかしたら――振り返ればあの女が後ろに立っているのではないか。この場所だけ、温度が低いかのようだ。

 暑さの中、そんな寒気を感じながら、彰人はしゃがんで「それ」を注視した。


 地面に、何らかのシミが、黒く残っている。


 そのシミから、とてつもない異臭が漂ってくる。昨晩嗅いだあの異臭と、全く同じものだ。間違いない。あの女から漂っていたのだ。


「やっぱり、これは……」


 それを眺めていると、ぽん、と肩を叩かれた。

 ヒッ!! と心臓が縮まる。

 金縛りにあったかのように、首が動かない。

 それを、ゆっくりと、力を込めて声のした方向に持っていく。


「何してんだよ彰人。こんなとこで。そこ、通学路じゃねえだろ」

「ふ、船尾か…。お、脅かすなよ」

「勝手に驚いたのお前じゃん」


 彰人ははぁ〜と大きく脱力した。

 その後、「何か、生ゴミか腐ったチーズでも捨てたかお前。変な匂いするぞ」とやり取りするなどして、彰人達はその場を去った。



「うげー。なんだよそれ、気味悪ィ」

「もうひたすら不気味だったよ。幽霊かなんかかって」

「そんなやべーのが立っていた所を、よく観察しようと思ったなお前。俺だったら無理だわ。絶対呪われると思うって」

「それでもやっぱり、ちょっと気になってね」


 悪しき空間から帰還したかのように、喧騒の待つ学園にたどり着く。「七城さん、今日も多分、来ないんだろうな」と半ば諦観しながら教室のドアをくぐってみると――。


「あっ。千鶴くんだ。おはよー!」


 普通に、七城尾花がいた。本当に、ごく普通に。

 集ったクラスメート達に安否を気遣われる中で、七城尾花はごくごく当たり前のように、彰人を迎えたのだった。それも、すこぶる元気に。


「……あれ?」

 

 昨日の心配や不安や恐怖が、思わず漏れたその一言で全部杞憂へと変わり、どこかへ飛んで行った。




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