ずるいひと
藤泉都理
ずるいひと
水面に浮かべた一本の竹の上に立ち一本の竹で舵を取って進む中国の伝統伎、「独竹漂」を行っていた成人女性である
「ねえねえねえっ! いいでしょっ! 雅さんっ! あたしに憑依させてよっ!」
「あ~~~うるせえ~~~」
煙草の代わりに銜えていた一本の禾を川に吐き出すと、一本の竹を巧みに操って水面を静かに速やかに進み、自身に纏わりつく少女の幽霊である
「ねえねえねえってば!」
「だから、あんたの墓に煙草を供えてやるからそれで満足しろって言ってんだろうが」
「いやっ! あたしは一回でいいから喫煙してみたかったの! 一回だけ! 身体に悪いって分かってるから一回だけ。仕事終わりに一本だけ喫煙して、今日もいい仕事をしたなあって、煙草の煙を空に吐き出して、渋い表情を浮かべてみたいの!」
「だったら、わいじゃなく、そこら辺のくたびれたおっさんに取り憑け」
「いやいやっ! あたしは雅さんじゃなきゃだめなのっ! 雅さんっ! プロなんでしょっ! 仕事を百パーセント完遂するプロなんでしょっ!
「押し付けられただけだっての」
一本の禾を吐き捨てるんじゃなかった。
悔いた雅の脳裏には、縦ロールの髪型で一見すると金持ちのお嬢様であり、仕事の斡旋や細かい事務作業をしてくれる相棒、亜里珠の無邪気な笑みが過った。
(ったく。亜里珠のやつ。こんな面倒なもんを押し付けやがって。何が依頼人の金払いがよくってさ。だ。わいがこんな小娘に身体を明け渡すわけがないだろうが。どこで誰に狙われているか分からないってのに)
頼まれたら何でもする何でも屋。
それが雅と亜里珠の職業であった。雅は実務担当、亜里珠は事務担当であり、どんな仕事を受けるか否かの判断は亜里珠に委ねられており、雅が口を挟む事は一切合切なかった。
亜里珠を信用していたからである。
だが今回の凪子の件で、その信用が大きく揺らいでいた。
(凪子がわいに取り憑いている間に襲撃に遭ったらどうすんだ? ん? わいが今死んでも構わないくらいの報酬を貰ったって事か? もしくは凪子の関係者が依頼を完遂するまではわいを守ってくれているか、か)
いくら人気のない場所を選んだとはいえ、静かすぎた。
人間は元より、動物の気配すら一切合切なかったのだ。
気配があるとすれば、機械のみ。水中に潜んでいるのだろう。
(………思い返してみりゃあ、凪子の依頼を受けた時からずっと静かだった。ような。凪子の関係者は何者なんだ? って。考えるのは面倒だ。とりあえず。さっさと済ませた方がいいって事か)
「凪子。煙草を一本吸えたらいいんだな?」
「えっ!?」
「声が煩い」
「えっ!? えっ!? えっ!? だって………ほ、本当にいいの?」
「さっきまでの勢いはどうした?」
「だって………ずっと断られ続けるんじゃないかって。それもいいかなあって。ずっと雅さんの傍に居る事ができるんだもん。だって、雅さん………かっこいいし」
「凪子。来い」
雅は舵を取る為の一本の竹から手を離して、両手を広げて凪子を迎え入れる体勢を取った。
ぐしゃり。
涙目になっていた凪子は顔を大いに歪ませた。
「ひどい。そんなにあたしを早く成仏させたいんだ」
「それもある。けど、早く煙草の美味さも教えてやりたい。仕事終わりじゃなくて悪いな」
「………本当にいいの? あたし、雅さんの身体を使って悪さをするかもしれないよ」
「あんたにできるのは、喫煙だけだ。他はわいが許さねえっての」
「………ん」
目を手首の背で拭った凪子は勢いよく雅に突っ込んだのであった。
「目線高っ。手足長っ。手大きい。顔ちっさっ。目ほそっ。髪の毛みじかっ………いいなあ。スタイルよくって。いいなあ。身体が軽くって。動きやすくって。胸張ってて。立つ事ができて」
雅に憑依した凪子はズボンの後ろポケットに入れていたマッチと煙草を取り出すと、一本の煙草を銜えて、マッチで煙草に火を点けて、煙草を吸って煙を口に留め、煙を肺に入れて、口から煙を吐き出し、灰を落とし、煙草を携帯灰皿に捨てた。
「………まずっ。目も鼻も喉も肺もいたっ。いがいがするっ。うええええっ」
「っは。わいに憑依したくせに煙草の美味さが分からんとは、可哀想になあ」
雅の肉体から飛び出しては何度も咳き込む凪子を傍らに、雅は淀みなく先程凪子がした流れで喫煙しては、目を細めて、美味いと言ったのであった。
「………雅さん。ずるい」
凪子は頬を少し膨らませてのち、やおら微笑を浮かべて姿を消したのであった。
「………礼もなしに成仏したか」
雅は煙草を携帯灰皿に捨てると、しゃがんで水面に浮かんでいた一本の竹を掴んで立ち上がり水面を進んだのであった。
「凪子」
「お父さん」
「もう満足したか?」
「………うん」
実は死霊ではなく生霊として肉体から抜け出してはずっと彷徨っていた凪子。数人の強面男性を呆気なく撃退した雅を見かけては一目で虜になり、情報を集めて亜里珠にマネキン人形に乗り移って依頼をした。事を凪子の父親が知ってさらに凪子の好きなようにさせてくれと依頼。亜里珠は破格の料金と少しの脅しを得て依頼を受けたのであった。
「お父さん。あたし。もう一度、頑張ってみる。今度は。自分の足で会いに行けるように。自分の足がだめなら、道具を使って。ここから動いてみせるよ」
「………ああ」
ずっとベッドから下りようとはしなかった、下りる事ができなかった凪子は父親から視線を移した。窓の向こう、山からくゆる一本の煙へと。
「ずるい雅さん。かっこいい雅さん。いつか必ず、会いに行くから待っていてね」
「って事で。娘がまた世話になるからよろしくって。お金持ちの依頼人からの依頼内容ね」
「断れ」
「無理。お金持ちだし、敵に回せない相手だし」
「………」
「私が引き受けた依頼は何でもこなす何でも屋。でしょ」
「………分かった」
「それでこそ、私の相棒」
上機嫌になる亜里珠を黙って睨みつけたのち、雅は惚れたが負けだよなあと心中で呟いたのであった。
「何か言った?」
「何も」
(2025.3.3)
ずるいひと 藤泉都理 @fujitori
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