第2話 歌を作ることを



 何度か足を踏み入れたことがある七号館も、講義が終わった後では人の少なさに改まった感覚がする。

 私たちがドアを開けると、高校の教室を思わせるような小規模の教室に、既に二〇人ほどが座っていた。真ん中で分かれるかのように、人が左右に座っていて、私は窓際に座っているのがサークルの会員、廊下側に座っているのが新入生だろうと、私は当たりをつける。

 会員よりも新入生の数が少し多いが、ほとんどが初対面なのだろう。廊下側の席では、あまり会話は弾んでいない。

 私たちは、空いている後ろ側の席に隣り合って座った。ホワイトボードに大きく書かれた「短歌研究会 新入生説明会」の文字が、否応なく目を引いた。

 六時のチャイムが聴こえると、一人の男子学生が教壇の前に立った。黒縁の眼鏡が印象的な、背の高い学生だ。

「皆さん、今日はお集まりいただきありがとうございます。僕は文学部四回生の知坂ともさかといいます。この短歌研究会の主務をさせてもらっています。今日はよろしくお願いします」

 小さく頭を下げている新入生たちに、私も続いた。「主務」という単語に耳馴染みはないけれど、教壇に立っているからには、きっと部長的な役割なのだろう。

 すくっと立つ知坂さんに、私は小さく息を呑んだ。

「では、さっそく本題に入らせていただきます。とはいっても、短歌自体は皆さんご存知ですよね。五七五七七の三一音を用いた韻文。基本的にはこれだけです。なので、短歌の説明はこれくらいにして、続いて当サークルの活動内容について説明させていただきます」

 知坂さんの説明に、私は一言も聞き漏らさないように耳を傾けた。

 毎週金曜日に、この七〇二教室に集まって活動していること。短歌を作ったり、おすすめの短歌や歌集といった情報交換をしていること。そして、作った短歌は新聞や雑誌の投稿コーナーに送ったり、毎年二回合同誌を作って文学作品の即売会に参加していること。いようと思えば、四回生になっても卒業するまでずっといられることなどなど。

 思っていたよりも盛んに活動をしているサークルのようで、私は少し心の中で身構えてしまう。でも、いわゆる飲みサーというわけではなさそうだ。

「以上で当サークルの説明を終わります。皆さん、そろそろ一方的に話を聞いていることにも、退屈してきたと思います。では、ここで実際に手を動かしてみましょう。皆さん、筆記用具は持ってきてますね?」

 そう呼びかけた知坂さんに、教室の空気が一瞬だけひりつく。誰もが同じことを考えているのが、手に取るように分かるようだ。

 私たちが小さく頷くと、知坂さんは口角を上げた。でも、その微笑みの理由が私には分からない。

「それでは、これから皆さんには実際に作歌、歌を作ることをしてもらいます。これから用紙を配るので、そこに思いついただけ、短歌を書いてみてください」

 私たち全員が抱いていた予感は的中した。まだ入会するかどうかも決まっていないのに、いきなり短歌を作るなんて。少し段階を飛ばしているような気もしたけれど、きっと習うより慣れろという方針なのだろう。

 それでも、急な展開に新入生たちは軽くざわついている。

「まあ、でもいきなり短歌を作ってみてくださいと言われても、どう作ったらいいのか分からないですよね。そこで、今回はテーマを設けたいと思います。テーマは『春』です。ひとまず一五分間測るので『春』をテーマに思いついた歌を書いてみてください。もちろん、一つも書けなくても構いません。ですが、僕たちは皆さんに、実際に短歌を作る感覚を味わってほしいと思っています」

 知坂さんが言うそばから、まだ名前を知らない女子学生が私たちにB5用紙を配っている、きっとこの人が副部長的な立ち位置の人なのだろう。用紙は私たちだけでなく会員にも配られていて、どうやら全員で短歌を作るらしい。

 真っ白な用紙を前に、私の鼓動は高鳴る。試されていると思った。

「では、あの時計が七時ちょうどを差すまで、ひとまず短歌を作ってみましょう。時間になったら、僕がお知らせします」

「では、始めてください」そう知坂さんが言ったのを皮切りに、私たちはペンを持って用紙に目を落とした。

 でも、少し考えてみたところで、短歌どころか種になるものさえ私には思いつかない。

 そもそも短歌はどうやって考えたらいいのだろう。まずモチーフを決める? それともどこかの句を思いつくのを待つ? 私は左ひじを机について、手で頭を支えてしまう。

 すると、どこからかペンを走らせる音が聞こえてきた。それは会員の人が集まる机の方からで、やっぱり短歌を作ることに慣れているのだと、思わずにはいられない。ふと視線を向けると、柏子さんも既に一首を書き終わっていた。

 初めての作歌だから、苦労するのは当然だ。

 それでも、私にはかすかな焦りが芽生えてしまう。諦めて別のことを考えて時間を潰すにも、一五分という時間は長すぎる。

 だから、私は用紙に向かわざるを得ない。口に手を当てたり、腕を組んだりして、何か思いつかないかと試みる。何となく五文字に収まるワードは出てきたけれど、その先が進まない。

 ふと見ると、実来も一首を書き上げていて、私はますます落ち着かなくなっていた。

 それでも書いては消し書いては消しを繰り返して、どうにか一首を完成させると、その瞬間に知坂さんが「皆さん、時間になりました」と、試験監督みたいな声で言った。

 私はほっと息をつく。少し辺りを見回してみたけれど、何も書いていない人は一人もいないようだった。

「では、まずは会員にどんな短歌を作ったのか、発表してもらいましょう。誰か発表したい人はいますか?」

 知坂さんに尋ねられて、辺りはしんと静まり返る。なんてことはなくて、すぐに柏子さんが手を挙げていた。

 指名された柏子さんは立ち上がっていて、私も発表するときには立ち上がらないといけないのかと思うと、今から緊張してくるようだった。

「スギの木を切って削って色を塗り魔法の杖を一振りかざす」

 柏子さんが朗読した短歌の出来のほどは、私には分からない。私にはまだ短歌を評価する物差しがないのだ。

 でも、知坂さんを筆頭に会員の人が拍手をしていたから、私もそれに倣った。ちゃんとこうして評価をくれるサークルなんだということが分かって、少しだけ安堵する。

 それでも、私の緊張はあまり軽減されることはなかった。

 それからも会員の人たちが一首ずつ短歌を朗読し、それに拍手を送るという形で、新入生説明会は進められていった。会員の人たちが作った短歌は、全て私の短歌よりもクオリティが高い気がする。

 当然のことでも、私は気後れしてしまう。自分の作った短歌がみすぼらしく見えてくる。

 会員の人たちが全員短歌の発表を終えると、知坂さんは私たち新入生にも短歌を発表したい人はいないかと尋ねてきた。

 それは会の流れ上自然なことだったけれど、それでも私は先陣を切って手を挙げることはできない。初めて作った短歌を人前で披露することは、拙さから来る恥ずかしさがあった。

 だから、私はいの一番に手を挙げていた実来を度胸があるなと思う。人前で声を出すことに慣れているのだろうか。私にはとてもできない芸当だ。

 実来が作った短歌は、正直なところ私にはいいとも悪いとも思えなかった。

 でも、会員の人たちは拍手をしていたから、きっと悪くはなかったのだろう。たとえ形式的なものでも拍手という評価が送られることは、新入生たちが発表する敷居を下げていて、実来に続いて一番前の席に座る学生の手を挙げさせる。

 その後も手は続々と挙がる。発表する流れができているかのようだ。

 新入生たちの短歌を聞いていると、私はプレッシャーを感じてしまう。発表することを強制されているみたいに思える。

 それでも、私は最後に発表することだけは避けたかったので、思い切って手を挙げた。知坂さんが私を指す。

 私は立ち上がると、今一度教室を見回した。全員の目が私に向けられていてドキリとしたけれど、それでもどうにか作った短歌を読み上げる。

「春になりソメイヨシノの花が舞う凍えた日々を染めるみたいに」

 いざ口にしてみると、私は明確な羞恥を感じた。別に自信作ではなかったのだが、それでも今ここにいる全員が作った短歌の中で、私の短歌が一番拙く感じられてしまう。

 それでも、教室にいる全員は、私が発表した短歌に拍手で応えていた。全員に平等に送られる拍手に意味は薄いと分かっていても、私は認められたような感覚を得てしまう。

 腰を下ろすと実来が「やったね」と言うように小さく微笑みかけてきて、私もかすかに頷いて応える。

 ふと視線を向けると、柏子さんの澄ました横顔が見えた。



(続く)

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