煙、あるいは

これ

第1話 どのサークルに



 凍てついた空気が私の身体を刺す。何時間経っても空は真っ暗で、朝の訪れを一向に感じさせない。春の足音はまだまだ遠いのだと、白くなった息に思い知らされる。

 安さが一番の売りの居酒屋チェーン。その軒先にいる集団に、私も加わった。男性はスーツ、女性は振袖といったフォーマルな格好が目につく。

 そんななかで青のロングコートを着ている私は、良い意味でも悪い意味でも目立っていた。

「じゃあ、始発までマックで時間潰す人ー」

 一〇人ほどの集団全体に聞こえるように声をかけたのは、由白果ゆしかさんだ。オレンジ色の振袖が手を振るたびに揺れていて、寒くないのかなと思う。

 ほとんどの人が手を挙げていて集団の雰囲気は、駅の反対側にあるファーストフードチェーンで時間を潰すことに傾きつつあったが、私は簡単には賛同できなかった。夜の九時から店を変えて呑み続けているから、いい加減眠くなってきたし、アルコールが回った頭はかすかな痛みさえ訴えかけている。

 午後からはアルバイトも入っているし、正直に言えば今すぐ帰って寝たい気分だ。

七乃なのはどうする? マック行く?」

 外は寒いし、始発まではまだ二〇分もある。だから、ファーストフードチェーンでコーヒーでも飲んで、少し暖まっていくのが最適解なのだろう。

 でも、声をかけてくれた由白果さんに、私はすぐに首を縦には振れなかった。ただ立っているのでさえ、ほんの少しだけれど辛い状況だった。

「すいません……。今日はもうお暇していいですか……?」

「うん、全然いいよ。こんな時間まで付き合ってくれてありがとね。でも、始発までまだ少し時間あるけど、どうするの?」

「それはちょっと隣の駅まで歩きたいと思います。少し酔いも醒ましたいので」

「なるほどね。まあ二キロぐらいだもんね。ちょうど電車が来るぐらいの時間帯になるか」

 そう納得したように言う由白果さんの表情を、私はもっと見ていたいと思う。アーモンド形の目にひそやかな奥二重。すっと通った鼻筋に、ナチュラルカラーの口紅が塗られた唇。

 私は今、由白果さんを独り占めしている。そのことが、私に覆せない現実を改めて突きつけた。

「……由白果さん」

「何?」

「本当に、もう明後日引っ越しちゃうんですか?」

 絞り出すような私の声にも、由白果さんは平然とした表情を崩さなかった。私がそう言うことが分かっていたかのように。

「うん。ていうかもう日付が変わっちゃったから、明日なんだけどね。今日も帰って少し寝たら、もうひと頑張り引っ越しの準備をしないといけないし。色々大変だよ」

 私は、明日も朝の八時から夕方の五時までアルバイトを入れている。だから、由白果さんを見送ることはできそうもない。

 その事実が今の私には何よりも辛く、思わず俯きたくなってしまう。そんなのまったくこの場に即してない。

「いやいや、七乃何暗い表情してんの? 引っ越すっていっても横浜だよ? 電車使えばすぐでしょ。いつでも遊びに来てくれていいよ」

「でも……」

「コーヒーの苦味が好きになったよと君が微笑む朝日差しこむ」

 唐突にそう口にした由白果さんに、私は目を瞬かせる。由白果さんは、いたずらっぽく微笑んでいた。

「七乃、最初に会ったときに、この歌が好きって言ってたよね。私も自分で気に入ってる歌だったから、そう言われたときは嬉しかったんだ」

 宥めるかのように言った由白果さんにも、私の心には小さな棘が芽生えてしまう。

 あのときの由白果さんと今の由白果さんは違う。髪色もメイクの質感も、口から出る言葉も。

 それでも、私はかすかに生まれた反感を言葉にはできなかった。由白果さんの笑みは初めて会ったときから何も変わっていなくて、私の心をいともたやすく溶かす。ずるいくらいに。

「由白果、寒いし早く行こうぜ」と、空気を読まずに声がかかる。「うん、今行くー」と答えた由白果さんに、私はもうここに留めておくことはできないと思い知った。

「由白果さん、改めて大学生活お疲れ様でした。私が言うのもなんですけど、卒業してからも頑張ってください」

「ありがと。七乃もなんかあったら、いつでも連絡してくれていいからね。大学のこととか、就活のこととか。何でも相談に乗るよ」

「短歌」という言葉が、「大学」や「就活」に押しやられて出てこなかったことに、私はより身体が震える思いがした。以前までの由白果さんだったら考えられなかったことだ。

 ただ「分かりました」と頷く。

 由白果さんの双眸が私に向いている。もう独り占めはできない。

「由白果さん。今日はありがとうございました」

「うん。こっちこそありがとね。疲れてると思うから、気をつけて帰りなよ」

 私は返事をして、由白果さんとサークルの皆にもう一度「ありがとうございました」と小さく頭を下げてから、踵を返して歩きだした。

 名残惜しい思いで振り返ると、他の人と話しながらも私に気づいた由白果さんが、小さく手を振ってくれている。

 私は会釈をして、再び前を向いた。アルコールが回った頭は重たく、睡魔も忍び寄っている。それでも、考えすぎないようにするためには、私は歩くしかなかった。

 少し歩いてから、また振り返る。すると、みんなは駅の反対側にあるファーストフードチェーンに向けて出発していて、振り返った私に気づいた人は、由白果さんも含めて一人もいなかった。




「ねぇ、七乃。どのサークルにするか決めた?」

 一号館の廊下を歩きながら、実来みくが話しかけてくる。広い廊下には多くの学生が行き交っていて、吹き抜けになった天井から、暖かな日の光が差しこんでいた。

「うーん、まだ。それはこれから決めるかな」

「だよねー。サークル選びで大学生活が決まっちゃうから、慎重に選ばないとね」

「それはさすがに大げさでしょ」そうツッコんでおきながら、実来の言うことも私にはよく分かった。

 講義に出て課題を提出するだけの大学生活は、味気なさすぎる。キャンパスライフと言うからには、サークル活動もひっくるめて楽しみたい。

 私たちは一号館から外に出る。すると、三号館へと続く広い道は、多くの人でごった返していた。簡易テントがいくつも張られ、スポーツのユニフォームを着た学生や、手作りと思しき看板を持った学生が、それこそひしめき合っている。

 声をかけられているのは、たぶん私たちと同じ新入生だ。大学に入学してから数週間が経ったこの日から、サークルへの勧誘は解禁されていて、この大学のメインストリートは活況を呈している。

 高校までだったら考えられないような光景に、これが大学なのかと、私は軽いカルチャーショックを受けていた。

 実来と一緒に人の間を縫うようにして、私は道を歩いていく。色んなサークルから何度も声をかけられ、ビラを渡されて、あまりの賑わいに目眩すら覚えそうだ。「ありがとうございます」と何度も言いながら、やっとの思いで進んでいく。

 すると、実来が「ちょっと、あそこのサークル寄ってみない?」と声をかけてきた。実来の視線の先にあったのは、あの手この手で勧誘しようとしてくる他のサークルとは違って、長机に手書きの看板と一冊の本が置かれただけの、簡素なサークルだった。

 短歌研究会。どこか格式ばった響きに、「実来ってこういうのに興味あるんだ」という声が、喉まで出かかる。

 でも、実来はそんな私を気にする素振りも見せずにずんずんと進んでいき、パイプ椅子に腰かけていた。私もついていくようにして、腰を下ろす。

 すると、私たちの正面に座った女子学生が、微笑みかけてきた。目の覚めるような金髪に、大学生だと至極当たり前のことを思う。

「これだけのサークルのブースがあるなかで、私たちの短歌研究会に来てくれてありがとう! 二人とも短歌に興味あるの?」

 女子学生の声は弾んでいて、私たちがブースに来たことを心から喜んでいるようだった。アーモンド形の綺麗な目が、にっこりと細められている。

「はい。せっかく大学生になったからには、何か新しいことを始めたいなと思いまして。今は色んなサークルを見て回ってる最中です」

 私たちを代表して答えた実来にも、女子学生は爛々とした表情を崩さなかった。いや、実来が興味を示したことで、さらに顔色が良くなったようにさえ思える。

「そう! じゃあ、ぜひウチに入会してよ! 短歌はいいよー。だって決まりごとと言ったら、五七五七七の三一音に収めるくらいしかないんだもん。凄くシンプルでしょ。でも、始めて見ると奥が深くて、ずっと楽しめる。さすが万葉集の時代から続いてるだけあるなって思うよ。それにさ、短歌は自分の身一つで始められるから。極端な話、スマホがあれば紙もペンも必要ない。こんなに間口が広くて、なのに掘ろうと思えばいくらでも掘っていける。こんなの他にはないよ。二人ともそう思わない?」

 一気にまくしたてるように言った女子学生に、私たちは「そ、そうですね」以外の返事ができない。

 確かに始めるにあたって何の道具もいらない、お金もかからないのは魅力的だけれど、それでも今まで短歌を作ったことがない私には、ハードルを感じてしまう。

「って、ちょっと一方的に喋りすぎちゃったかな。ごめんごめん。ところでさ、二人とも名前はなんていうの?」

 少し恥ずかし気に、はにかむように言った女子学生に、実来は何の気なしに「長束(ながつか)です」と答えている。私も少し思い切りは必要だったけれど、「漆谷(うるしだに)です」と続いた。私たちの名前を知って女子学生はよりいっそう表情を綻ばせている。

「そう。長束さんに漆谷さんね。私は柏子由白果(かしわごゆしか)。商学部所属の三回生だよ。よろしくね」

 せっかくの新入会員候補を逃してはならないと思っているのだろう。柏子さんの笑顔に、私はどこか必死な様相を感じる。

 でも、それを指摘できるはずもなく、私たちは「よろしくお願いします」と答えるしかない。

 柏子さんは話したくて仕方がないといったように実来と言葉を交わしていて、私はなかなかその会話に混ざることはできなかった。

 すると、視線は自然と机の上に置かれている一冊の本に向く。それは本と呼んでいいのか迷うほど薄く、黄緑色の表紙には「汐見大学短歌研究会合同誌 波 第一九号」と書かれている。

 私は二人の会話が一区切りついたタイミングで、柏子さんに「あの、これ何ですか?」と尋ねる。すると、柏子さんはよくぞ訊いてくれましたと言うかのように、得意げな顔を見せた。

「やっぱ気になっちゃう? これはねウチのサークルが半年に一度出してる合同誌なんだ。よかったら手に取って読んでみてよ」

 柏子さんに言われるがまま「では、お言葉に甘えて」と私は本を手に取る。

 今まで手に取ってきたどの本よりも軽いそれは、ページを開くと短歌研究会の名の通り、短歌が掲載されていた。一つのページに三つくらいしか掲載されていなくて、広大な余白がある。

 覗きこんでいる実来の視線も感じながら、ページを捲る。

 正直、国語の授業でいくつかの有名な歌に触れたことしかない私には、ここに載っている短歌の良し悪しは分からない。でも、柏子さんは合同誌を読む私たちを、興味深げに見つめていた。

「あ、あの、これって短歌研究会に所属されてる方々が作ったんですか?」

「うん、そうだよ。そうでもなきゃ表紙に『汐見大学短歌研究会』なんて書かないでしょ」

 当然のことを言われて、私は少し自分を恥じる。それからも騒がしい中で、決して流し読みではないペースで、私はページを捲った。

 短歌を読みながらも、私はこちらを食い入るように見てくる、柏子さんの視線を感じずにはいられない。何か言わなければという思いに駆り立てられる。

「あの、私この歌好きです。『コーヒーの苦味が好きになったよと君が微笑む朝日差しこむ』って」

「ありがと。それ、私が作った歌なんだ。その歌が好きなんて、漆谷さんセンスあるじゃん」

 応える言葉は「そうですかね……」だったものの、柏子さんの反応は私が狙ったものでもあった。ちゃんと柏子さんの名前が、同じページに載っていることを確認していたからだ。

 柏子さんは褒められてより気をよくしたのか、軽く身を乗り出してまで私たちに顔を近づけてくる。

「そうだよ! ねぇ、ウチのサークルの説明会が二三日に、七号館の七〇二教室であるんだけど、二人ともよかったら来ない? 歓迎するよ!」

 柏子さんが口にした日程は、今週の金曜日だった。きっと五限の講義が終わった後だろう。その日、私たちは何の予定も入っていない。

 だから、実来が「はい。じゃあ、お伺いさせていただきます」と言ったのも、自然な流れだった。

 柏子さんの勢いに押された部分は、正直ある。でも、柏子さんがいるなら入会するのもいいかもしれないと思えるくらいには、私は柏子さんと接していて嫌な気はしなかった。

「うん、じゃあ待ってるね!」と、柏子さんが言う。伝えたいことは伝え終わったのだろう。すっきりとした表情が、私の胸に飛びこんでくる。

 私たちは話が終わったことを察して、「ありがとうございました」と、席を立った。柏子さんは無理に引き留めることはせず、「うん、ありがと」と私たちを見送ってくれた。

 少し後ろ髪を引かれるような思いを味わいながらも、私は一歩前を歩く実来についていく。実来は三つほど先にある、映画研究会のブースで立ち止まっていた。



(続く)

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