第3話 下の名前で
サークルの入会希望は、四月が終わる頃にはいったん落ち着いた。説明会には一〇人ほどの新入生が来ていたが、短歌研究会に入会したのは私を含めて三人だけだった。
説明会に来ていた
いきなり作歌するのはハードルが高かったのだろうか。説明会に来ていた多くの新入生は、別のサークルに入っていた。映画研究会に入会した実来のように。
短歌研究会は男子学生の先輩が四人、女子学生の先輩が二人いるサークルだった。入会したその日に、私は柏子さんから短歌の入門書や、おすすめだという歌集数冊を貸してもらった。
歌集を読んでみると、私が今まで想像もしなかった言葉の世界がそこにはあって、私はページを捲るごとに引きこまれていく。誰の目にも明らかな優れた短歌に触れていると、私も短歌を作ってみたいという気持ちがムクムクと湧いてくる。
私は、ふとした瞬間に短歌のことを考える毎日を送っていた。それは今まで何か創作をしたことがない私にとっては、とても新鮮に感じられる時間だった。
「あの、柏子さん。今いいですか?」
もはや半袖でも過ごせそうな五月のある日。私はサークルの部室棟の前にあるベンチに座る柏子さんに話しかけていた。
柏子さんは「いいよ。何?」と言いながら、煙草を灰皿に押しつけている。
この部室棟は教室がある建物から少し離れていることもあって、あまり人がやってこない。だから、喫煙所にも衝立はなかった。
「昨日、また短歌を三首作ったので見てほしいんですけど」
「いいよ。絶好調だね」
微笑んだ柏子さんに、私は小さく頷きスマートフォンを取り出した。メモアプリを開き、「あの、これなんですけど」と柏子さんに見せる。
柏子さんは私の作った三首を、声に出して確認していた。自分が作った短歌が他人に読まれることは、まだ恥ずかしい。
それでも、三限目の最中だからか、部室棟の周りには私たちしかいなかった。
「うん。この一首目の『足早に……』って歌と、三首目のシクラメンの歌は私も好きだよ。よくできてるって思う」
「ありがとうございます」
「でも、この二首目の『霧の中……』って歌は、ちょっと推敲が必要だと思う。三句目の『ぐるぐると』と四句目の『忙しく回る』ってのは、ちょっと意味が重なってるから。だって、『ぐるぐると』だけで回ってる様子は分かるわけじゃない? だからどっちかは削って、その分新しい言葉を入れた方がいいと思うな」
「は、はい。ありがとうございます。今言われて初めて気づけました」
「うん。でも、毎日数首ずつでも作ってくるのは大したもんだよ。毎日地道に作って、トライ&エラーを繰り返すのが、上達への唯一の道だからね。七乃は凄いと思うよ。だって、大坪や森下って週に二、三首しか作ってこないじゃん。本当見習ってほしいよ」
「あ、ありがとうございます」
私の返事が揺らいだのは、柏子さんに褒められて恐れ多いからだけではなかった。
柏子さんは入会して次の週には、もう私のことを下の名前で呼んでいる。それに私はまだ照れくささを感じてしまう。それは私が中高と帰宅部で、こういったサークルに入るのが初めてだったからかもしれなかった。
「でも、私よりも柏子さんの方がずっと凄いと思います。この前も『毎日短歌』に三首も採用されてましたよね。私なんてまだ一首も採用されたことないですし、柏子さんに比べたら私なんてまだまだです」
「それはまあ始めたばっかりだからね。初めて送ったのが採用されたら、それはもう天才だから。でも、七乃は短歌始めたばっかりなんでしょ。まだ全然これからだから、そんな気にする必要ないと思うな」
「それよりも」
柏子さんがそこで声を区切ったから、私は小さく息を呑む。次にどんな言葉が来るかは、何となく分かる気がした。
「私、由白果って下の名前で呼んでいいって、言ってるよね。別にそんな気遣わなくてもいいんだよ? 何も考えず気楽に呼んでくれれば、それでいいんだから」
私は、ごまかすように笑う。予感は的中した。
柏子さんが下の名前で呼んでほしいと言うのは、これが初めてではない。それこそ私が入会したときから「よかったら由白果って呼んでね」と言ってくれているし、実際二回生以上の会員の人たちは全員、柏子さんのことを下の名前で呼んでいる。
でも、私はまだ踏ん切りがつかなかった。二歳も年上の先輩を下の名前で呼ぶことは、私の独りよがりな常識からは外れていた。
「えっと、いやでも、そんな恐れ多いと言いますか……」
「えー、いいじゃん。だって私が呼んでほしいって言ってるんだよ。実際に七乃にもそう呼ばれた方が私は嬉しいし。それとも何? まだそんなよそよそしい呼び方を続けるっていうなら、もう私は七乃の短歌、見てあげないよ?」
私に不利な条件を突きつけてくる柏子さん。でも、それが本気ではないことが、真剣になりきれていない目元から察せられてしまう。柏子さんは今までもこう言いながら、ちゃんと私の短歌を見てくれている。だから、今回もきっと軽い冗談の範囲内なのだろう。
そのことが分かっていながら、私は万が一の可能性を感じてしまう。柏子さんが本気で言っているという可能性を。
「えっ、それは困ります」
「でしょー。ただ呼ぶだけでいいんだよ? だから、ね?」
私に期待する柏子さんを、私は裏切れない。心を固めてから口を開く。
「えっと、じゃあ、由白果さん……?」
「うん、よくできました。まあ疑問形なのはちょっと気になるけど、それもこれから呼び続けてれば慣れるはずだしね。これっきりってことにはしないでよ。分かった、七乃?」
「は、はい。分かりました。由白果さん」
おずおずと返事をすると、柏子さんはまたにっこりと表情を緩ませた。私の全てを受け入れるかのような大らかな笑みに、私も頬を緩める。柏子さんに短歌を褒められたのも嬉しかったし、実際に口に出してみると由白果さん呼びは、思っていたよりもずっと私の口に馴染んだ。
空はぽかぽかとした様子で、三限はまだ半分も終わっていなかったから、私はまだ柏子さんと一緒にいられた。「タバコ吸っていい?」と柏子さんが訊く。私は首を縦に振る。
柏子さんはポケットから赤と白のパッケージが印象的な箱を取り出して、煙草を一本口にくわえた。少し吸うと、ふーっと息を吐いている。
今はまだ少し抵抗があるけれど、この匂いにもいつか慣れるのだろうと、私は柏子さんと話しながら感じていた。
街灯がちかちかと瞬いている。でも、一つ一つは半径一メートルくらいしか照らしていないから、かすかな安心感と強い心細さの間を行ったり来たりするようだ。
数分に一度、車が後ろから走ってきて、歩道を歩く私を追い越していく。道の脇にある建物にはどこも明かりがついていないから、ただのコンクリートの塊に見える。
夜はまだ明ける気配を見せず、肌に触れる空気は相変わらず冷たく、コートのポケットから手を出せない。
それでも身体を動かしているのが功を奏しているのか、少しずつ酔いが軽くなってきているのが、唯一の救いだ。
私たちの大学の最寄り駅から隣の駅までは、まっすぐ一直線に線路が敷かれている。二階にあるホームから目を凝らせば、隣の駅の屋根が見えるくらいだ。
そして、頭上を走る線路に沿うようにして、駅と駅とは一本の道で繋がっていた。スマホで地図を見なくても、迷いようがないくらいだ。
しかし、私はこの道を歩いたことが今までで一度もなかった。電車に乗れば二分で着ける距離なのだ。それをわざわざ歩こうとする人がいるだろうか。
それでも、由白果さんたちと別れた手前、今は歩かざるを得なかった。
暗く寒い道を進みながら、由白果さんたちは今頃ファーストフードチェーンで、コーヒーでも飲みながら暖まっているのだろうかと思う。かぶりを振っても、そのイメージが私の頭からは消えなかった。
だから、私は遠くにコンビニエンスストアの明かりが見えたときに、助かったと思う。
このペースだと駅に着いても、始発までにはまだ一〇分以上ある。この寒さのなか、ずっと待ち続けるのはいくらなんでも辛い。
私は煌々とついている明かりを目指して、歩みを続ける。たった数百メートルちょっとの距離が、いくら歩いてもなかなか辿り着かなかった。
(続く)
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