第3話
「ただいま」
明るい声がする。華の顔が玄関にあったが、今日はその顔を見ても疲れが吹き飛ばない。
午後八時。
「門限は午後七時よ」
「ごめんなさい。つい楽しんじゃって」
心底楽しそうにそう言って靴を脱ぐ。楽しい気分をぶち壊して悪いけれど、手を洗い終えたら言おう。
「華、手を洗い終えたら話があるの」
「うん、何?」
「そこに座って」
華は手洗いうがいをすると、涼花の雰囲気からただ事ではないと悟ったのか、真顔になる。
「お母さん、どうしたの。怖い顔している」
「ごめんね。あなたの部屋にエルメスのバッグが置いてあるのを見ちゃったのよ。私からした約束を破って本当に悪いと思ったのだけれど、見過ごせなかった。説明して。誰からもらったの」
華は嫌そうな顔をするわけでもなく平然と言った。
「……とある会社の社長さん」
「いつもらったの」
「先月。いらないって言ったのに」
涼花の心が凍り付きそうになる。バッグを見たときに一瞬だけ頭をかすめたことを言う。
「まさか、パパ活しているんじゃないでしょうね」
すると華は、なんとも言えない顔をした。
「パパ活とは違う」
「詳しく説明して?」
「うん。友達の紹介で異業種交流、っていうのをやっていたの。高校生でも参加できる」
涼花は首を傾げる。
「高校生が参加できる異業種交流ってなに」
「どちらかというと高校生、大学生に向けた異業種交流だよ。様々な企業で働いている人が集まる飲み会みたいなところに参加して、お仕事のお話を聞くの。もちろん、お酒は飲んでないよ。で、見込みがある高校生は、その企業にスカウトされたりもする。普通に就職するより手っ取り早い、就活みたいなものだよ」
今はそんなこともできるのか、と感心する。
「その話が本当なら、自分を企業に売り込むこともできるってこと?」
「そう、そこで知り合った大学生は自らアピールして就職を勝ち取ってたかな。口約束みたいなものだから、実際はどうなるかわからないけど、名刺を貰ったり」
「華も名刺を頂いたりしたの?」
頷き、華は財布の中から名刺を十五枚ほど取り出す。有名企業の名刺がずらりと並んでいた。
それを見て、安心した。ネットでの出会いは危ないけれど、そういう話ならばまあ、いいだろう。
「女子高生は本当に人気ある。なにもしなくても人が向こうから来るもん。就職を決めるかどうかは別として」
「で、華はその集まりの中で入りたい会社はあったの」
「……なかった。話を聞けば聞くだけ、興味が薄れちゃって、結局自分がなにをしたいのかわからなくなっちゃった」
だから進路にこんなギリギリまで迷っていたのだろうか。
「それで、エルメスの件は」
「ある社長さんにものすごく気に入られて、食事に誘われて。ほら、十一時に帰って来た時だよ。その後も断り切れなくて何度か昼間に食事して、先月まで誘われてたからもらったの。断ったんだけど、これプレゼントするから、将来うちに入ってくれって。しつこいからげんなりしちゃって、返したいけどもう会いたくないしどうすればいいのかわからなくて」
企業名を訊ねてみると、有名どころだ。なんで言ってくれなかったのだろう。
いや、そもそも華の年頃では親に言えないのかもしれない。
「つい最近までその社長さんに会っていたのね? その集まりに参加してたの?」
「……うん、まあ。うちは母子家庭だから、進学より働いたほうがいいのかなって高二の初めまで思ってた……けど」
それは、子供なりの気遣いなのだろう。
「けど?」
「働きたいところも今は決められなくて。というか」
「というか?」
「なんでもない」
変な間がある。追及したら怒るだろうか。そう思ってそれ以上は訊かないことにした。
「お金はあるから、進学していいって言っているじゃない。なにも心配しなくていいのよ?」
「それは、そうなんだけど……。バッグはどうしたらいい?」
「丁重に断りの手紙を書いて、会社に送り返しなさい」
「でもそんなことしたら、社長さんの、社員からの心証が悪くならない? なんか私を特別扱いしていた感じだし」
社長と言えど、多分、若い子に手を出したかったのかもしれない。逆に華に気に入られようと必死になっていたのかもしれない。
その下心に、華を傷つける気も、ひょっとしたらあった可能性もある。そんな会社には入らなくて正解だ。
「……それも、気にしなくていいと思う」
心証が悪くなったところで自業自得だ。
「でも、今はもうやっていないのよね? やめなさいね、そういう集まりに行くのは。どんな人がいるのかわからないから」
「……もう、バッグの件で懲りた」
「それで今日は? 本当に友達と会っていたの?」
華は知られたくないことを知られたかのように顔色を変えた。
「彼氏?」
ゆっくりと頷く。聞いてほしくなさそうなので、これ以上は追及しないことにした。
それとも聞いておくべきだろうか。迷う。どんな人だけかは聞いておこう。
「どんな子?」
「優しい人だよ」
「他校の子?」
うん、と華はまた頷く。受験が終わったら、とりあえずゆっくり聞いてみよう。
責めるでもない調子で。高校生なら彼氏の一人や二人、欲しい気持ちだってわかる。
母親である自分に話してほしかったけれど、仕方がない。華の帰って来た時の浮かれ具合からして、今日は本当に楽しかったのだろう。
「まあいいわ。寒いでしょうし、お風呂に入ってきなさい」
華は質問攻めから解放されたという表情でお風呂場へ行った。
今は、華の心を乱すのはやめておこう。受験の大事な時期なのだ。
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