第13話 過去を辿る

 明滅するパトカーの赤い光を見て、アリアは、炎のようだと思った。

 記憶の中にある泡が弾ける音を、火の粉が爆ぜるような音が遮る感覚。柳木病院での出来事から、何度も繰り返されているこの感覚の正体は、アリアにはわからない。

 ただ、火の粉が爆ぜるたび、頭のもやが晴れていく気がしていた。

 警察官に促されるままパトカーに乗ったアリアは、そのまま署で事情聴取を受けた。

 何があったのか、何故あそこにいたのか。

 アリアは、自分があそこにいた経緯を正直に語った。三森の居場所がわかったから話をしたかったと語れば、話を聞いていた刑事が奇妙な表情を浮かべた。

「今更、ですか?」

 その問いの意味がわからずに、アリアは無意識に俯いていた顔を上げた。

 そこで、目の前の刑事が、骨折で入院していた時にやってきた二人のうちの一人だと気づいた。

 刑事が浮かべる奇妙な表情は、疑念と侮蔑のそれだ。

 彼が知るアリアは、もっとも不安定だった瞬間と、様子がおかしくなった後だけだ。

 弁明したい気持ちを、アリアは机の下で拳を握り、ぎゅっと耐えた。信じてもらえるわけがない、という思い以上に、言い訳はダメだ、と戒める声が頭の中で響いていた。

 それはアリア自身の声だ。心に渦巻く悔しさは、刑事に誤解されたが故のものであり、弁明は言い訳にしかならないと、アリアは正しく理解している。ただ“だから、この気持ちは一人で飲み込まなくては”と思った瞬間、母親の言葉がフラッシュバックした。

 ——ひとりで抱え込んじゃダメ!

 その言葉だけを見れば、その通りとしか言えない。ただ、その発言に至る経緯を抜けば、の話だ。このセリフは、落としてしまったガラスのコップを、アリアが掃除しようとした時のものだ。割れたコップを見て不機嫌のまま「なんでよぉっ!」と叫んでいた母に怯えて、当時小学生だったアリアが破片を拾おうとした。「拾わなくていいっ!」と言われたが、それが怒声と同じトーンだったせいで、子どもだったアリアは早く片付けなくてはと却って焦ってしまった。さらに破片を拾おうとした瞬間、平手と共に先の言葉が飛んできたのだ。

 ガラスで子どもが指を切るかもしれないから、心配だった。母の言い分はそうなのだろう。実際、ガラスは危ない。アリアも、仮に息子が不用意にガラスの破片を拾おうとしたら間違いなく止めるのだ。

 ——それでも、お前は間違っている。

 ふつふつと沸き立つ頭の中で、パキン、と何かが割れる音がした。

 焚き火が点てるようなその音で、アリアの意識は過去から今へと戻ってくる。

「話は以上になります。何か気になることは?」

 刑事の声にハッとして、目の前に座る彼の顔を見る。眉間に皺を寄せ、いかにも面倒そうな表情だった。

 母親が浮かべていたそれと、よく似ている。アリアはそう思った。

「……大丈夫です」

 アリアが何とかそう答えると、刑事は愛想なく「ではもう結構です」と言って立ち上がった。


 警察署を出た時、日はもうほとんど暮れかかっていた。ファミレスで双子と話し、弁護士事務所で篠山の話を聞き、三森のところへ行った。渦中にいる時は意識していなかったが、思いのほか時間が経っていたようだ。

 篠山はどうなったのだろう、と今しがた出たばかりの警察署を振り返る。誰かが出てくる気配はなかった。容疑者として、アリアとは別のパトカーに乗せられた松井智子とは、もちろん会えていない。三森は救急車で運ばれていった。どこの病院にいるかもわからない。アリアは、警察から何も聞いていなかった。ただ、弁護士であり、加害者と被害者両方の関係者である篠山は別だ。彼なら、警察から詳しい話を聞いているかもしれないと、アリアは考えた。

 連絡してみようか、と、スマホが入っているハンドバッグに手を伸ばしたが、結局踏ん切りがつかず、アリアは警察署の前を離れた。

 警察署からアリアの家までは、歩いて四十分程度の距離だ。バスは出ているが、何となく歩きたい気分だったアリアは、たまには歩くのもいいか、と徒歩の家路を選んだ。

 車も人もあまり通らない道をぼんやりと歩く。上を見上げれば、ぽつぽつと白い点が見えた。星である。ひときわ強く輝く星が、三角形に並んでいる。夏の大三角だと、アリアはすぐに気づいた。わし座と、こと座と、はくちょう座。するりと出てきた星座の名前は、アリアが小学生の時、社会見学で行ったプラネタリウムで聞いたものだ。

 小学校でもいろいろあったなぁ、と、アリアは回顧する。

 給食の配膳の時、隣の子がごはんをこぼしたら、隣に立っていたというだけで片付けを強制されたこと。

 運動会でこけてビリになり、その後周りから文句を言われたこと。

 日直だったから、授業の後すぐに黒板を消したら、ノートをとり忘れていたらしいクラスメイトから「ありえない」と毒づかれ、睨まれたこと。

 気分が悪くてぐったりと机に突っ伏していたら、居眠りしていると勘違いしたらしい教師に名簿で頭を叩かれたこと。

 母の趣味で伸ばしていたロングヘアを、クラスの男子に引っ張られたこと。

 仲良くなったと思った子が、次の日、別の子と遊んでいて、口もきいてもらえなくなっていたこと。

 どれもこれも、思い出すだけで胸が苦しくなり、怒りが湧き上がり、泣きたい気持ちになる記憶ばかりだ。アリアはため息をこぼした。

 ひとつひとつは、子ども時代にはありがちなことかもしれない。本当の大人なら、どれをとっても「あの頃は自分も周りも子どもだったから」と笑い飛ばせるようなことかもしれない。これらの記憶は、傷と呼ぶには小さすぎる。それは、アリアもわかっている。それでも、忘れられるかと自問自答すれば、答えはひとつしか出ないのだ。

 ——無理だなぁ。

 アリアは、夜空を見上げたままため息をついた。未だに、当時のクラスメイトたちや教師の顔も声もはっきり覚えているし、いま目の前に本人がいたら、殴り飛ばしたい衝動にかられるだろうという確信がある。せめて文句のひとつは言いたいし、怒鳴ってやらねば気が済まない、というのが本音だ。

 親なり仲のいい友人なりに愚痴ることができたなら。親しい人々に「それは大変だったね」や「それは向こうがひどいね」といった言葉を言ってもらえたならば、消化していけるのに、とアリアは思う。嫌な過去を昇華する術を、アリアは他に思いつかない。

 けれど、それほど気軽な会話ができる相手はいないのだ。

 やっと見つけたと思った三森も、すぐにいなくなった。それも、裏切りという最悪の形で、だ。

 疲れた。

 アリアの心身は休息を強烈に欲している。今すぐ横になって、朝までぐっすり眠りたいという強い欲求が湧き上がった。靴越しに伝わるアスファルトの固さが、余計にその思いを刺激している。けれど、それより強い感情があった。

 ——あの子に会いたい。

 不思議なもので、一緒にいる時は、泣かれるのが鬱陶しいことや、わがままに辟易していたことの方が多かったに違いないのに、いざ思い出そうとすると、蘇るのは、抱っこした時の小さな体の温もりや、駆け寄ってくる元気な姿や、無邪気な笑顔ばかりだ。

 会いたい、会いたい、会いたい。

 腹を痛めて産んだ我が子。どこかで聞いた表現を痛感する。紛れもない、自分の血肉を分けた存在。他人とはまるで違う、強いつながり。自身の一番大事な部分と繋がっている感覚。あの子がいなければ己という存在は欠けたままなのだと、本能が強烈に訴えている。

 その本能を抑え込むように、親と子は別人格だ、という育児書に幾度も出てきた文言が意識に飛び込んできた。親子は共依存になりやすく、その果てに幸せはありえない。わかっているとも、と、アリアは自嘲めいた笑みを浮かべた。

 それは、三森親子を見れば、嫌と言うほど理解できる事実だ。けれど、と、同時に思う。

 親子は一緒にいるのが一番だと言う。

 親子といえども距離感は大事とも言われる。

 子どもは自由にのびのびとしているのがいいと言う。

 大人に従わない子どもは生意気だとも言われる。

 辛さや孤独を一人で抱え込んではいけないと言う。

 愚痴ばかりこぼす人間は嫌われるとも言われる。

 できない時は人に頼るのが大事だと言う。

 自分のことは自分でやるしかないとも言われる。

 怒りをあらわにしたら嫌われると言う。

 きちんと怒れない人間は舐められるとも言われる。

「どうしろっての」

 思わず口からこぼれた言葉は、夜の中へと消えていく。アリアはもう一度ため息をついた。

 アリアは、自身の母の在り方を、不揃いなパッチワークのようだと思った。言っていることとやっていることが矛盾だらけ、ひとつひとつは綺麗で正しいようでいて、全体としてはちぐはぐなばかり。どうしてあんな人間が出来上がるのかと、長年疑問だった。だが、アリアは今、その答えがわかったような気持ちになっている。

 母親の顔を思い出し、アリアは夜空の下で、一人頷いた。

 あの人は、正論をコレクションしていただけなのだ、と、何かが腑に落ちる感覚を覚える。世間には、正論と呼べる正しい言葉はいくらでも転がっている。それは、それぞれが発言した人間の経験や知見に基づく言葉で、どれもそれなりの根拠や説得力を持っている。しかし、元は別々の人間の意見だから、組み合わせればちぐはぐになってしまう場合もたくさんある。親子関係に関する意見など正にそうだ。

 親子は仲良くした方がいい。

 親子といえども距離感は大事。

 それはどちらも真実で、だからこそ、どちらを選ぶのか、人は決めなくてはいけないのだ。それも一度選ぶだけではダメで、その時々に応じて細かく選択していく必要がある。

 幼児を相手に親が「距離感が大事だから」と目を離せば、最悪の事態も起こりうる。

 中学生や高校生になった子どもに、幼児の時と同じ感覚で接すれば、当然嫌がられるだろう。

 友達との喧嘩なら、親が出るかは迷うところだ。子どもたちが自分で解決できるかもしれないからだ。

 しかしクラスの大半を巻き込んだいじめなら、すぐにでも大人が介入しなくてはいけない。そこで距離感や自立性などと言っても、意味をなさない。

 正しい選択はその時々によって変わる。だから常に考え続けなければいけない。ずっと周りを見ていなければいけない。そうでなくては、踏み外す。

 アリアの母は、踏み間違えてばかりだった。都度思考するのではなく、最初に覚えた正論をひたすらトレースするだけだったからだ。

 そして、間違えてばかりなのは、自分も同じだ、とアリアは思う。

 仕事が続かなかった理由も、今ならわかる。アリアはとにかく怒られたくなくて、言われたことを忠実にやることだけを考えていた。そのせいで、相手が本当に何を求めているのかに気づかなかった。

 食器を拭いておいてと言われれば、がんばって綺麗に拭いたけれど、棚に戻すことはしなかった。

 掃除をしておいてと言われれば、渡された箒で掃き掃除はがんばったものの、拭き掃除まではしなかった。

 余計なことをしてはいけないという強迫観念は、ただの思考放棄でもあったのだと、ようやく気づけた。だからこそ、どれほど自分が間違い続けたのか、嫌と言うほど痛感する。一体何人の人間を不快にし、失望させてきたのか、考えるまでもなくわかってしまった。

 挙句、息子を、自分自身が「いい母親になるため」の装置として、ひいては自身の母を超えるための道具として利用しようとした。

 同類だ、と、アリアは目に涙がたまるのを感じた。

 自分は、母親と同類だ。親子だから似るのは当然なのだ。

 気づけば、周りの景色は見慣れたものに変わっている。家の近くまできたのだ。もう少しで、ベッドで休むことができる。

 それがわかっていながら、アリアは足を止めた。

 疲れたからではない。ある記憶が頭をよぎったからだ。

 確か、名刺をもらったはず。

 ハンドバッグから財布を取り出し、レシートやポイントカードの束の中を探って、ようやく見つけた。

『児童相談所 相談員 生野恵美』

 息子に会おう、と、決意を新たにするアリアは、同時にこうも思った。

 これが最後だから——と。



 児童相談所の対応は、冷ややかなものだった。ただ、それはアリアが受けた印象であり、実際は忙しさと疲労による、感情の薄い事務的な態度である。

 アリアは面談室らしき個室に通された。机の正面に座っている生野は、どこか難しい顔をしている。

 警察の取り調べみたいだ、と、アリアは思った。

「息子と、会わせてください」

 出たのは、絞り出すような、縋り付くような、そんな弱々しい声だった。生野は呆れとも困惑ともつかない表情を浮かべている。

「すぐには無理です。息子さんはここではなく、親元を離れた児童を預かる専門の施設にいます。面会の予約を申請することは可能ですが……」

「お願いします。どうしても会いたいんです」

「……恐れながら、心境の変化の理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか」

 その問いで、アリアは生野の複雑な表情の意味に気づいた。

 彼女は探っているのだ。一度「子供には会わない」と言った母親が、突然面会を希望した理由を推しはかろうとしている。子どもを巻き込んだ残酷な事件は、何度も繰り返し起きてきた。その中には、一時保護された子を強引に引き取り、無理心中を計ったような、信じがたい悲劇も存在している。

 アリアは、ぎゅ、と歯を食いしばった。正気ではなかったとはいえ「会わない」と言ってしまった事実が重くのしかかる。諦めて帰ってしまいたい気持ちを必死に押さえ込み、口を開いた。

「……あの時は、いろいろなことが重なって、私は限界でした。もし息子と会っても、あの子を傷つけるだけだと思ったんです」

「今は余裕ができたから大丈夫、ということでしょうか?」

 余裕などない。そう叫びたいのを堪えて、アリアは頷いた。

 生野は机の上で指を組み、視線を床に落としている。考えているのだ。アリアの言葉がどこまで真実か。本当に子どもと会わせていいのか。その表情は真剣で、幼い命を守ろうとしていることがひしひしと伝わってくる。

 いい人なんだ、と、アリアは思った。

 生野が顔を上げた。

「……お話はわかりました。確認したいのですが、ご希望なのは面会なのですね? 引き取りではなく」

「はい。せめて、顔だけでも見たいんです」

「……承知しました。面会申請の手続きはしておきます。ただ、上の判断如何によっては、申請が却下されることもございます。そこはご承知おきください」

「わかりました」

 会える。あの子に会える。

 その期待だけで、アリアの心は上向いた。叶わなかった時のことは、今は考えたくなかった。

 あの子に会って、顔を見て、声を聞いて。

 そうしたら、もう満足だ。

 アリアは生野に向かって「ありがとうございます」と頭を下げた。



 児童相談所は、アリアの住む地域からはやや遠い。バスに揺られ、窓の外の景色をぼんやり眺めていたアリアは、生野とのやりとりを反芻していた。

 いい人だった。真面目そうな人だった。

 あの言い方はダメだっただろうか。不快にさせてはいないだろうか。

 お礼はちゃんと言えてよかった。

 そう噛み締めて、ふとアリアの頭に疑問がよぎった。

 母親が誰かに頭を下げているところを、見たことがあっただろうか、と。

 謝罪にせよ、感謝にせよ「申し訳ありませんでした」や「ありがとうございました」と、人に向かって真摯に頭を下げる母親の姿を想像しようとしたが、どうにもうまくいかない。その光景を知らないのだ、と気づいて、アリアはしばし愕然とした。

 アリア自身、母から「ありがとう」や「ごめんね」と言われたことがあったかと思い出す。

 思い出せなかった。

 唯一思い出せたのは、夕飯の手伝いをやった後、母がアリアの顔を指差して、満面の笑みで言った一言。

 ——役に立った!

 ぎり、と、歯を食いしばり、やがて大きなため息が出た。

 

 通りがかった公園に入り、ベンチに座る。平日の夕方だからか、人はほとんどおらず、砂場に一組の母子がいるだけだった。

 することもなく、カバンからスマホを取り出す。すると、知らない番号から着信が入っていることに気づいた。警察だろうか、とアリアは思わずため息をついた。

 三森と松井智子の件があったのは、つい昨日のことだ。

篠山とは、まだ連絡をとっていない。

 連絡した方がいいだろうか、とアリアもずっと考えていた。そもそも、篠山が三森の話を出したのはアリアがいたからだ、と思えば、若干なりとも自分に責任がある気もしてくる。謝罪をしなければ、という焦燥感が急に湧いてきた。しかし、連絡しても、仕事中なら迷惑かもしれない、という不安も同時に浮かんでくる。

 スマホを握ったまま、固まってしまったアリアの耳に、子どもの声が届いた。

「まま……? ままー!」

 その声に顔を上げてみると、砂場には小さな男の子が一人だけ。先程までいたはずの母親がいない。驚いたアリアが立ちあがろうとした時、物陰から女性が出てきた。

「ほら、早く帰るよ」

 そう言った女性と、アリアの目がばちりと合う。女性は気まずそうに目をそらすと、子どもの側に行って「おもちゃ片付けて」と苛立ちを隠さない声で言っている。

 ああ、とアリアは納得した。

 子どもが公園から帰りたがらないのだ。だから、母親は一度隠れて、「このままじゃダメだよ」と教えようとしたのだろうと、アリアは想像した。親は早く帰って夕飯の支度をしたいけれど、子どもはもっと遊んでいたい。そして、だだをこねる子どもとそれを叱る親という構図が出来上がる。

 親がスコップやバケツを片付けようとするが、子どもが「ちょっとまってー」と抵抗している。親は「もう待ったよ」と更にイライラした様子だ。

 きっと、親がよく「ちょっと待って」という言葉を使っているのだろうな、とアリアは思った。子どもが使う言葉は、親の真似がほとんどだからだ。

 一方で、あの親の気持ちも、アリアは重々理解している。もう日は傾いているのだ。やらなければならないことが沢山あるんだろう、とアリアにはよくわかる。

 同じ親だから。

 その時、また彼女とアリアの目が合った。

「……早く片付けて!」

 彼女は更にイライラしているようだ。アリアが見ていたことで、「うるさい」と文句を言われたり、ダメな親だと思われたりするのを恐れているのかもしれない。

 その気持ちがありありと想像できた。

 子どもの行動は、親の成績表。はっきりそう言ってしまえば反論は多いに違いないし、誤解も生む。実際、子ども自身が生まれつき特性を持っている場合は、躾の問題と言い切ってしまうことはできない。

 しかし、現実に、親が抱えている問題が子どもに影響を及ぼすことはある。たくさんある。だから、子どもの行動で親が推しはかられるのだ、という言葉は、本来、親の責任は重いのだという戒めに過ぎない。

 それでも親の側が「怒られたくない」「褒められたい」という思いに囚われれば、その戒めは枷となって足を重くし、刃物になって心を貫く。そして、その皺寄せは子どもに行く。

 アリアは砂場にいる親子を見、目を細めた。

 母親の方が怒鳴っている。

「いい加減にして!」

 子どもがわんわんと泣き出した。

 アリアは胸が苦しくなった。

 母と子、どちらの気持ちもわかる。「子どものため」と少しでもたくさんのことをこなしたい今と、泣くしかなかった子ども時代。心の中には、大人になった自分と、子どもの頃の自分が同居している。そして、お互いに正反対のことを叫んで暴れているのだ。

 違う。

 正反対ではない。そんな感覚が火花のように頭をよぎった。

 大人のアリアと、子どものアリア。二つに分かれた自分自身が、心の中で痛々しいほどに叫んでいる。主張している。訴える言葉は、どちらも同じだ。

 ——私はかわいそうなのに。

 はは、と、アリアは思わず笑みをこぼした。その脳裏には、自身の母の姿が浮かんでいる。感情のままに娘を振り回し、ことあるごとに被害者ぶっていた人間。小さな子ども相手に、大きな大人が被害者になれるわけがないのに、と、アリアは常々母を嘲笑していた。

 その嘲笑は、今、自分自身に向いている。

 同じじゃないか。

 堂々巡りの思考は、結局いつも同じ場所……自己否定の結論に着地する。親子の姿を見ているのがいたたまれなくなって、アリアはベンチから立ち上がり、公園を出た。

 足早に道を進み、公園が視界から消えた頃、スマホが鳴った。画面には発信者の名前が出ておらず、登録されていない番号からの電話だとわかる。

 普段なら無視するのだが、この時のアリアは、疲労と混乱で、何も考えることができなかった。

「……はい、もしもし」

『ああ、よかった繋がりましたね。突然のお電話失礼します。篠山です』

「……ああ」

 篠山の穏やかな声に、少しだけ安心した。なぜこの番号を、と思ったが、松井智子に連絡するため、弁護士事務所に電話をしたことがあるから、その控えがあったのだろうと、アリアは一人で納得した。

 電話の向こうで、篠山が『連絡がついてよかった』とこぼした。

『ご連絡が遅くなって申し訳ありません。事情聴取以外にも、いろいろごたごたしていまして……いま、お時間はありますでしょうか』

「はい、大丈夫です」

『ありがとうございます。そして、遅ればせながら……この度は、ご迷惑をおかけしてしまい、誠に申し訳ありませんでした。あなたを巻き込むべきではなかったし、松井さんと彼を会わせるべきでもなかった。完全に私の失態です』

「いえ、そんな……」

 行くと言ったのは自分なのだから、これは自分の責任だ。そんな感覚がアリアの中にある。しかし、それを言葉にしようと思うと、どうにもうまくいかず、結局「気にしないでください」という有り体な言い方に留まった。

「篠山さんこそ、大丈夫でしたか?」

 話を逸らしたくて、とっさに出した問いに、篠山は電話の向こうで力なく笑った。

『大丈夫、と言っていいのかどうか。まず、義樹くんは重体です。傷自体は小さいのですが、刺された場所が悪かった。肝臓に傷が届いているようです。まだ彼と話はできていません。松井さんとも、面会を申し出たのですが、本人に断られてしまいました。千秋さんも意識は戻らないし……まったく、どうしてこうなったのやら……ああ、すいません。渡貫さんにお話するようなことではないですね。忘れてください』

「い、いえ」

 篠山は疲れている。それが、アリアにも痛いほどわかった。考えてみれば、一連の出来事の中心人物はすべて彼の縁者なのだ。義姉と甥。そして、甥の妻だった人であり今の部下である松井智子。その全員が非日常に陥っている。篠山は今、どれだけ逃げ出したくなっても、逃げられない立場なのだ、と、アリアは思った。

 スマホを握る手に力がこもった。

「あの、」

 衝動のまま話し始めようとしたが、すぐに言葉が詰まる。何を言えばいいのか、アリアにはわからなかった。

 篠山の状況に同情し、何かしてあげたいと思った。その情動を自覚すると同時に、では何ができるのか、という自問が湧き上がる。

 何もできない。

 電話の向こうから、アリアが言葉に詰まっているのを察したのか、篠山の声がした。

『はい、なんでしょう』

「え、っと……」

 見切り発車で動いてしまったことに、激しい自己嫌悪を感じた。助けてあげよう、というのは、時に傲慢にもなりうる。自分自身に感じたそれから、アリアは必死に目を逸らそうとした。

 何か誤魔化す方法は、と考えて、なぜかあのロリータファッションの女性が頭に浮かんだ。

「その……千秋、さんが入院されていた病院に、フリフリの服を着た女性がいたでしょう? 彼女は、大丈夫だったんでしょうか……あの人も警察に連れて行かれてましたから」

 言ってから、そんなことを篠山が知っているわけがない、と気づいた。ダメだ、怒られる。そう覚悟を決め、歯を食いしばっているアリアの耳に届いた、篠山の声は、驚くほど穏やかだった。

『フリフリの服……ああ、もしかして、星野さんでしょうかね。青いロリータ服を着たツインテールの女性でしょう? 彼女は大丈夫ですよ。とっても元気です』

「え、あ……そう、なんですね」

 怒られなかった、という安心。それと共に、篠山が言った「とっても元気です」のトーンにどこか諦観じみた雰囲気を感じ、アリアは少々不思議に思った。すると『ああそうだ』と篠山の声が跳ねた。

『彼女も渡貫さんのことを心配していたので、一度お会いになりませんか? 住所や連絡先を教えるのが憚られるのであれば、私の事務所を面会場所として提供しますが……いかがでしょう?』

「あ、え……でも、ご迷惑では」

『いいえ全く。むしろ、今は賑やかな方がありがたいんですよ』

「……それ、なら」

 少しでも力になれるなら。

「ぜひ、お願いします」

 そう言ったアリアの脳裏には、先程聞いた、わんわんと泣く小さな子どもの泣き声が響いていた。

 空回りばかりの気がする。そう思いながら、アリアは篠山との通話を終えた。


 

 日を跨ぎ、再び訪れることになった篠山弁護士事務所の前で、アリアはしばし立ち止まっていた。ビルの中に入ったものの、扉をどうしてもノックできない。呼ばれた時間まで、まだ二十分ほどあるのだ。早く着きすぎてしまった、と後悔した。こういうことが、アリアには多い。遅刻するという恐怖から、早く出発しすぎてしまうのだ。結果、遅刻はしないが、現地で時間を持て余してしまう。

 いっそもう入ってしまおうか、とも思うが、迷惑だろうという不安と、怒られるかもしれない、という恐怖が募る。

 篠山は穏やかな人物だ、とわかっているつもりでも、心の中に降り積もった恐怖はなかなか消えないのだ。

 結局、アリアは事務所の前でしばらくスマホを触っていた。SNSを覗き、お気に入りのインフルエンサーのアカウントを見に行く。体調不良で休んでいた、と言っていたが、復活したようだ。新しい話がアップされていたから、それを読み、時間を潰した。

 リスが主人公の童話のようだ。読んでいるうちに、息子と行った動物園を思い出した。

 あの動物園に、リスはいたっけ。

 よく覚えていなかった。ふと時計を見ると、約束の時間の五分前になっている。そろそろ行かないと、と、アリアは事務所の扉を小さくノックした。中から「どうぞ」と笹山の声がする。ゆっくりと扉を開いたアリアは、恐る恐る事務所の中を見回した。

 目の前に広がるのは、受付と、その向こうにあるソファーとローテブルの並んだ応接スペース。そこに、二人の人物が立っていた。一人は篠山だ。

「ああ、渡貫さん。お待ちしてました。こちらが……」

篠山が紹介しきる前に、もう一人の人物が、アリアの前に駆け寄ってきた。

「お久しぶりでーす! スピリチュアル☆アナリズムの、星野七菜香でぇーすっ! お姉さん、お元気そうで、何よりでっす!」

「あ、はい。お久しぶり……です……?」

 改めて見ても、星野は、アリアの知らない人種だ。

 相変わらずのツインテールを、パステルグリーンのリボンが飾っている。リボンと同じ色のロリータ服は、胸元に大きな白い花飾りがついており、豪奢な印象を持たせる。西洋の貴婦人のようなシルエットにも見えるが、パニエスカートの丈は膝上で、少女らしさを強く主張している。全体の輪郭を縁取る白いフリルが蛍光灯の光を反射しているようで、アリアは軽いめまいを覚えた。

 久しぶり、と挨拶したが、最後に会ったのは数日前だ。不適切だっただろうか、と心をよぎった不安を、最初に言ったのは向こうだ、と無理に抑え込んだ。

 見ると、篠山は苦笑している。「では、ごゆっくり」と早々に奥の扉の向こうに入ってしまった。

 一緒に話すわけではないのか、と思いながら、アリアはソファーの近くに行く。星野に促され、彼女と向かい合う形で座った。

「お姉さん、いいえ渡貫さん! この度はお時間をいただき、ありがとうございまーっす! 私、渡貫さんのこと、すっごく心配してたんですよぉー。あの時もなんだか顔色が悪かったし……今もなんだか具合が悪そうです。大丈夫ですか?」

「は、はい。私は、なんとも……」

「それは何より! あ、私のことも心配してくださってたんですよねっ! 大丈夫でぇす! あれから雑誌の売り上げが上がりまくっててぇ、問い合わせも殺到してぇ、そっちの方が大変なくらいなんですよぉ。だからとぉっても元気です! ノープロブレム、です!」

「あ、はい」

 篠山が出していた諦観じみた雰囲気はこれか、と、アリアはひとり納得した。

 ちらり、と、アリアは事務所の奥に続く扉に目をやった。

 場所を提供しただけで、篠山はこの場にはいない。あの扉の向こうで、三森親子や松井智子の件で頭を悩ませているのかもしれないし、仕事をしているのかもしれない。大丈夫だろうか、と思った時、星野が突然パンっと手を打った。

「そうだっ! せっかくだから取材させてもらえませんかぁ? 私の雑誌はぁ、スピリチュアルの観点から色々な社会問題を分析し直す、っていう趣旨なんですぅ。何か記事にできそうなこと、ありませんか?」

「え、でも、私は社会問題とか、そんな、大したことは……」

「いえいえ、大げさに考えなくていいんですよぉ。私たちは社会の一員、その私たちが抱える問題は、ぜーんぶ社会の問題とも言えるんですっ! 子どもだって老人だってニートだって、すべての個人は社会に通ず! です!」

「は、はあ……」

「何かありませんか? 恋のお悩みとか、仕事のお悩みとか、いつも同じ壁にぶつかってしまうとか」

「それ、は——」

 アリアの心の水面に、石が投じられた。波紋が広がり、水底に沈んだ澱がかき混ぜられていく。

「……社会問題、とおっしゃいましたよね?」

「はい!」

「それって……いわゆる、毒親、とかでも、いいでしょうか?」

 話したい。聞いてほしい。湧き上がるのはその衝動のみだ。星野の個性に飲まれているのか、怒られる、という恐怖は不思議と出てこなかった。

 星野は満面の笑顔でピースサインをした。

「ぜんっぜんオッケーです! むしろいい記事になりそうです! ぜひ話してくださーい!」

 そう言って、星野はどこからか手帳とペンを取り出した。手帳はパステルピンク、白いペンにはロココ調のような金色の模様が入っている。

 アリアは、一度深呼吸をした。

「私の母は、ひどい人間でした。自分勝手で、わがままで、癇癪もちで、でも、その全てに無自覚で……世界の中心は自分だと、きっと本気で信じ込んでいたんです」

 記憶を掘り返す。同時にぶわっと膨れ上がる怒りを抑え込み、アリアはつとめて淡々と話した。

「最初の記憶は三歳か四歳くらいの時です。うちは母子家庭で、生活保護でした。だからか、近所に住んでいたおばさんがよく気にかけてくれていたんです。私にも、何度もお菓子をくれました」

 そのおばさんの顔も名前も、もうアリアは思い出せない。

「でも、母は、そのおばさんへの愚痴を私に言っていたんです。お節介なかまいたがりの迷惑な人。こっちがお礼をしなきゃいけないのをわかってない。何も考えてないんだって」

 母親のその言葉も、その時の表情も、鮮明に刻まれている。

「だから、私、そのおばさんに挨拶をされても、返さなかったことがあったんです。お母さんが嫌っている人だから。仲良くしちゃいけない、って子ども心に思ったんです。でも、お母さんは、お菓子をたくさんもらってるんだから挨拶しなきゃダメでしょって、私に言ったんです……!」

 アリアがぎゅっと拳を握った時、星野がメモ帳から顔を上げた。

「あー、それ、ダブルバインドって奴ですねぇ」

「だぶる、ばいんど?」

「はい。ある時はやっちゃダメ、って怒ったのに、別の時はやらないとダメってまた怒る、って感じのあれです。やられた側は、矛盾しまくりでわけわんなーいってなっちゃうんですよねぇ。DV加害者がよく使う方法なんだとか。これ、モラハラになるそうですよぉ」

「もら、はら」

「はい。あ、すいません。お話の途中でしたね。どうぞぉ」

「ああ……はい。小学生に上がってからは、私、クラスで浮きがちだったんです。いま思えば、私の話し方や接し方は、母のそれによく似ていたんだと思います。子どもって、親の真似をして育ちますから。言い方だったり、無遠慮な言葉だったり、だーっと自分の話だけをしてしまったり、相手の話を遮ってしまったり、すぐに相手のことを否定したり。だから、私は学校でも独りぼっちでした。まあ、自分が悪いんですけど」

「うーん、それは違うのでは? 小さな子が親の真似をするのは当たり前ですしぃ……生まれた時から普通だと思ってたことが、おかしいってことに気づけっていうのは、大人でも割と難易度高い気が……それに、その話で悪いのって、子どもが真似したら嫌われちゃうようなことしてたお母さん、なのでは?」

 こてん、と首を横に倒す星野を見て、アリアは目を見開いている。

 悪いのは母親。子どもは悪くない。

 そうはっきり言われたのは、初めてだ。

 胸の底から何かが湧き上がってくるのを感じ、アリアはそれを誤魔化すように首を横に振った。

「……中学生になってからは、私も母にやり返すようになりました。ああ、母はよく私に手をあげていたんです。私が少しでも不機嫌な様子を見せると我慢できなかったみたいで……頬を叩かれたり、なんで余計なことするの、って怒鳴られたことがたくさんたくさんありました。宿題をしてたら覗いてきて、私の解答にケチをつけて、でも、答え合わせをすると母の方が間違っていることが多かったんです。それがわかってきたから、私もどんどんうざったくなってしまって……中学生の時、いつもみたいに宿題に口出しされて、思わず不機嫌な返事をしてしまったら、また叩かれて……その時、使っていたノートで叩き返しました。それから、自分でも自分が止められなくなって……」

「あー、思春期に、小さい頃から我慢してたことが爆発しちゃう……あるあるですねぇ」

「それからは、もう悪化するだけでした。母が何か言うたびに、怒りを我慢できなくなって、私は何度も母を殴りました。母も、ますます手を出してくるようになりました。たぶん、しつけないと、ってムキになったんだと思います。お母さんはあーちゃんが大事なんだから、大事にしてもらえなきゃ悲しいんだって、何度も言われました」

「あーちゃん、とは?」

「私のことです。母にはそう呼ばれていたんです」

「ああ、なるほど。でも、大事だから大事にしてほしいって、なんかめちゃくちゃですねぇ。じゃあ、あなたはどうなんですかって話ですしぃ。人のふり見て我がふり直せって言ってやりたいですねっ!」

 星野の言葉を聞きながら、アリアは目頭が熱くなるのを感じた。初めての感覚を噛み締めながら、「それから」と話を続ける。

「それから……母に、頭を押さえつけられたことがあります」

 記憶に刻み込まれた、母の手の感触。頭をぐいと押さえられた屈辱。

「小学生の頃です。私、お風呂上がりだったんです。ドライヤーは、母がうるさいって言うから使えなかったので、濡れた髪で部屋の中を歩いていました。うちは狭かったです。生活保護でしたから、広い部屋なんか無理でした。団地で、ベランダとかもなくて、だから洗濯物は部屋の中に干してあったんです。母は洗濯もあまりしない人でしたから、たまに部屋の中にずらっと洗濯物が並ぶ日がありました。その日もそうでした。私は、お風呂上がりに、濡れた髪で部屋の中を歩いていて……それで、私の頭が、洗濯物の何かに当たったんだと思います。母がいきなり、悲鳴みたいな大声をあげて、驚いて固まった私の頭をぐいって押さえつけて“干してたのにぃ”って。“濡れてないかなぁ”って。私の頭、押さえたまま。すぐにその洗濯物だけ取っていって、私には、何も、言わないまま」

 ぎゅうっと拳を握り込んだアリアは、自身の肩が震えていることを自覚していた。当時の記憶を思い出している。それはとても鮮明で、いまここで起きていることのように生々しい。でも、と、アリアは思っている。でも、この程度のこと、他人から見れば些細なことなのだろう、と。きっと「そんなこと気にしないで」なんて言われるのだろう、と覚悟している。

 星野が何度かまばたきをして、声を上げた。

「それ、ひっどいですねぇ! 頭を押さえつけるって、暴力ですよ! 虐待ですよ! しかもたかだか洗濯物のためにって! ありえないですぅ! 私、姪っ子いるんですけど、超かわいくてかわいくて! 頭撫でることはあっても押さえつけるなんて! そのうえ、謝らなかった、ってことですよね!? もー本当にありえません! 超毒親じゃないですか! 渡貫さん、辛かったですよねぇ」

 アリアは目を見開いた。星野は「ひどいおばさんもいたものです」と怒っている。

 怒ってくれている、と、アリアは思った。

 否定されなかった。その程度のことで、と軽く受け流されることもなかった。

 普通の人間なら、会ったことがない相手を安易に批判することはない。こんな酷い目にあった、と訴えられても、確認できない限りは中立であろうとする。善人であればあるほどそう振る舞う。アリアはそれを知っているし、理解している。だからこそ、「そんなこと気にしないで」と言われるたび、湧き上がるものを無理矢理に抑え込んできた。

 それが、今、溢れようとしている。

「……ひどかったって、言ってくれますか」

 辛うじて絞り出した声は、自分でもわかるほど掠れていた。

「あの人のやってること、ひどかった、って、言っていいんですかね。あの人を、きらいだって、言って、いいんですかね」

「そりゃそうですよぅ! だって、もし他人様に同じことしたらどうなります? 他所のお子さんに同じことしたらどうなります? ぜったいケンカになりますし、なんなら警察沙汰ですよ! 弁護士呼ばないとって話です! なのに自分の子どもにだけはいくらでもしていいって、おかしいですよぉ! 親だろうがなんだろうが、嫌いになって当たり前! です!」

「そう、です、か。そう……ですよね」

 目頭が熱くなり、湧き上がった感情が、形になって流れ出す。頬を涙が伝う感触を覚え、アリアは慌てて顔を伏せた。

「す、すいません……」

「いえいえ、いいんですよぅ。それより、濃い毒親エピソードを聞かせてもらいましたので、私から見たスピリチュアル解釈があるんですけど……聞けそうですか?」

「……はい」

「ありがとうございまっす! えっとぉ……まず、渡貫さんのお母さんは……カルマから逃げてる人、ですね! そもそも、毒親って、自分で抱えきれないものを弱い子どもに押し付けて、代わりに処理してもらおうとしてるんですよねぇ。で、親の方はストレス発散みたいになるからちょっとはすっきりするかもですけど、子どもの方はすっごい辛い。子ども自身のカルマと親のカルマ、両方を背負わないといけなくなるわけですからねぇ。しかも、親から渡されたカルマって、利子がつくんですよぉ。専門的に言うなら、カルマの継承ってことになります。ずばり、毒親の問題は、カルマとの向き合い方の問題なんですよねぇ。親は子どもに押し付けることで逃げるけど、子どもは逃げられないから、戦うしかないんです。そうでなきゃ、自分も親になって、さらにその子どもにバトンタッチするしかなくなっちゃうんですよねぇ」

 きゅうっと、アリアの胸が苦しくなった。息子の顔を思い出し、自分自身の行いを振り返る。

 母と同じことを、息子に押し付けていないか。それをアリア自身が知ることはできない。わかるのはもっと先——息子が大人になり、彼自身の言葉で過去を語れるようになった時だけだ。

自分は違う、という確信こそが、子どもを踏み躙る傲慢なのだ。それを、もうアリアは知っている。

知ってしまったから、もうわからないふりはできなくなった。

 星野はパンっと音を立てて手帳を閉じた。

「だから、渡貫さんのお母さんも、自分では抱えきれないカルマを娘に押し付けて、解決した気になってたんでしょうねぇ。どうしようもない人です。あ、この話、なかなかいい感じになりそうなので、記事にしてもいいでしょうか?」

「は、はい。ご自由に……」

「ありがとうございまーっす! あ、そうだ。忘れるところでした! 私、今日はこれを聞きにきたんです! 渡貫さん、来週の金曜日って、スケジュール空いてますか?」

「え?」

 金曜日と聞いて、すぐに浮かんだのは息子の顔だ。

面会の許可が降りたのは、来週の土曜日なのだ。

「ほら、先日の柳木病院の件、ネットで大盛り上がりしてるでしょう? 有名なインフルエンサーとかも話題に出したりしてて、すごいことになってるんですよぅ。それで! なんと! ロン・ティータをテーマにしたテレビ特番が決定したんです! 一応渡貫さんも関係者ってことになるので、柳木病院で起きた出来事の証人として参加はできるんですけど……どうします? テレビに出れるチャンスですよ?」

「えっ、っと……」

 ずっと溜め込んでいた感情が解き放たれた直後だ。頭はどこかぼうっとしていて、アリアは何かを考えられる状態ではない。ただ、ここで頷いてしまっては、また流されることになる、ということだけはわかった。

「あの、私は……」

 アリアの言葉を遮るように、扉の音が響いた。

「星野さん、その話、私にも聞かせてもらえませんか?」

 音の方を見ると、篠山が、神妙な顔で立っていた。

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