第1話 おまじない
フローリングの上に敷いたカラフルなウレタンマットを眺めていると、ふと、自分が誰なのかわからなくなる瞬間がある。
ミニカーや積み木が散らばった部屋の中で「朝ごはんを食べたくない」と駄々をこねる息子を眺めては、すっかりぬるくなったコーンフレークを横目に、アリアは疲れ果てた気分になった。
いい加減にしてほしい、という苛立ちを、子どもなんだからしょうがないという理性が無理やり押さえつけた。
子ども。
子どもと大人の境界は、はっきりしているようで、とても曖昧だ。
服に跳ねる泥が、勲章から汚れになるのはいつからなのか。
駐車場の縁石を跳んで遊ばなくなるのはいつからなのか。
道端で石を拾う気にならなくなるのはいつからなのか。
雲を数えることが、虚しくなるのはいつからなのか。
どれも、いつの間にか興味をなくすものだ。そして、そんな小さなことではしゃぐ小さな子を眺めては、「子どもだなぁ」と大人ぶる。
大人になんかなっていないのに。
勉強しろという言葉を疎んでは、友達と無邪気に街を駆け回り、夜ふかしをしては怒られて、けれど最後は必ず許しの言葉が与えられる。
そんな子ども時代こそを天国だと思い、その頃に帰りたいと願っている人間は、この世に何人いるだろう。
数えても数えても足りないに違いない。
それでも、手足が伸び切ってしまった大人には、そんなことを思うことすら許されない。誰が許さないかといえば——。
「……うるさい」
目の前で泣き続ける息子を前に、アリアはぽつりと言葉をこぼした。
ハッとして、これではいけないと頭を強く左右に振る。この子はまだ三歳だ。何が気に入らないか、きちんと説明することなどできない。それを誰よりももどかしく思い、一番辛い思いをしているのは、息子なのだ。そう言い聞かせて、アリアは床に倒れて足を暴れさせている息子に手を伸ばす。
「司、どうしたの。泣かないで」
つとめて出す、優しい声。柔らかい声。怖がらせないように、威圧しないように、怒っているなんて、誤解されないように。
伸ばした手を、小さな指が絡めとる。
「……大丈夫、お母さん、怒ってないからね」
息子はようやく叫ぶのをやめて、大きな瞳で、母を見返した。すがっているようにも、責めているようにも、品定めしているようにも見える目。
アリアは、ため息をつきたくなるのをぐっと堪えた。
——大人がこどもになりたがることを、子ども達は、決して許しはしないのだ。
*
コーンフレークを、くまのスプーンで食べたかった。息子があんなに泣いていた理由がわかった時、アリアは体中から力が抜けた。そんなの何でもいいでしょう、と言いたいのを我慢して、教えてくれてありがとうと微笑んだ。くまのスプーンを握らせて、自転車で幼稚園に送り届けた時には、息子の機嫌はすっかり直っていた。
自転車を押しながらとぼとぼと歩いていると、数組の親子連れとすれ違う。無言で会釈を交わしながら、その子どもたちの様子にアリアは思わずため息が出た。皆、息子よりもずっと落ち着いていて、大人びているように思えてならないのだ。
司は、何か問題を抱えているのだろうか。
アリアの中では、その不安が日に日に強くなっていく。
最近は、発達が遅れる子どもが増えていると聞くし、その確率が我が子に当たる可能性は、決して低くない。三歳になっても、スプーンひとつであんなに騒ぐ息子の姿を思い出して、不安はさらに強くなった。
専門医の受診を決意したものの、親ならば不安に思うことは皆同じのようで、予約は数ヶ月待ちが普通である。先月に取った予約は、二ヶ月先の日程だ。
子どもの成長には大きな個人差がある。看護師から、保育士から、幾度なく言われた言葉は不安を消すことはなく、むしろ「わかってくれない」という他人への不信感を募らせていた。
朝の町は忙しなく、車や自転車や通行人とひっきりなしにすれ違う。その誰もが自分よりも充実しているように思えて、アリアはアスファルトに目を落とした。
高度経済成長の折に、山を切り崩して作られた住宅地は、作られた当初、立ち並ぶ家々の向こうに天然林があることを売りとしていた。自然と文化の共存というキャッチコピーを掲げ、ショッピングモールも完成し、結果として、それなりに人で賑わう町となった。
しかし、人が順調に集まっていたのは、住宅地ができてから数年の間だけである。中心地から遠く離れた地域はどうしても不便であり、五年十年が経つにつれて、転出する人間もちらほら出るようになった。今の人口は千人前後である。
都会では待機児童が問題になっているらしいが、子どもが少ないこの町では、むしろ園児募集のチラシを見かけることの方が多い。
そんな都会と田舎の狭間のような住宅地の隅に、アリアが暮らす家はある。
グレーの屋根瓦に、アイボリーのモルタル壁。家を囲むコンクリートブロックの前に立てば、二階の窓を見上げることができる。手入れをしていない門扉はすっかり錆びていて、開くたびにギィギィと嫌な音が鳴る。一階には、玄関から見て右手にリビング、廊下を挟んだ隣室がキッチンだ。廊下の奥には階段があり、その階段からさらに奥に進めばトイレがある。二階には部屋が二つあり、ひとつは寝室にしているが、もう一つは空き部屋だ。息子が大きくなれば自室として使わせるかもしれないが、今のところ使い道はない。
昭和の世界に取り残されたかのような家だ。
最初に見た時、見窄らしい家だ、とアリアは思った。今でもその思いは変わらない。
当時、この家に住んでいた彼氏も、アリアの感想には同意してくれていた。
今は、もういない。
この家は、アリアと息子の司、二人の家だ。
真っ白だったリビングのソファーは、今は灰色に薄汚れていた。
洗う気にもならない。
そのソファーに腰掛けて、リモコンでテレビをつける。何かのバラエティー番組が映った。
芸能人が流行りのテーマでトークを重ねる番組だ。画面右下のテロップには“スピリチュアルブーム”とあった。
『ああいうのを信じる人は、心が不安定になっているんだと思うんですよね』
『エンターティメントですよ。そんな本気で信じてる人なんかいませんって』
『えー、でも、占いとか、結構当たることもあるんですよ?』
中年の男性の声、若い男性の声、女性の声が、順番に鼓膜の上を走っていく。チャンネルを変えるのも億劫で、アリアはぼんやりと画面を眺めた。
『スピリチュアルって、ようは精神的かつ直感的なんですよ。難しい理屈も根拠もいらない、ただ“そうなんだからそうなんです”って言える世界。理屈はいらない、って、なんかすごくかっこよくないですか?』
『感覚的なアンテナが強い人にとっては、専門用語の並ぶ理屈の方が胡散臭く感じるわけですしねぇ。まあ、科学にしろスピリチュアルにしろ、問題なのはそれを利用して詐欺まがいのことをする人がいることであって、それ自体は別に良いも悪いもないのではないでしょうか?』
男性にしては高く、女性にしては低い、そんな声だ。画面には並んで座る二人のタレントが映っている。最近、見かけることが増えた双子タレントのようだ。ジェンダーレスだかなんだか、そういったものを売りにしているとアリアは記憶している。
占いなら、アリアも好きだ。今はインフルエンサーの中にも占いを売りにしている者も多く、アリアが気に入っているアカウントもある。
直感的で、理屈のいらない世界。
悪いのは詐欺師であって、占い自体は良いも悪いもない。
「……いいこと言うなあ」
そう呟き、アリアはソファーにぐったりと横になる。疲れ切った体は、数分もしないうちに睡魔に負けてしまった。
*
きんきんと頭に響く金切り声。
がんがんと耳を刺す怒鳴り声。
女の声。男の声。
うるさい、うるさい。
もう、みんな会うことはないんだ。
親だろうが恋人だろうが、もうとっくに他人なのだ。
この人生にはいらない存在だ。
入ってくるな、帰ってくるな。
出ていけ、出ていけ。
消えろ、消えろ。
——お願いだから消えて。
ひどい、悪夢を見た。
*
「ただいまー!」
息子は叫ぶようにそう言いながら、靴を脱ぎ捨て、家の中へと駆けていく。アリアは、ひっくり返った小さな靴を揃えながら、夕食の段取りを考えた。
また適当な材料を砂糖醤油で煮込もう、と考えた時、いつだったか息子に言われた「あきた」という一言が胸を刺す。アリアが必死に作った食事より、レトルトのカレーの方が息子の食いつきがいいのだ。
レトルトカレーのストックはある。
アリアも、子どもの頃は、レトルトのカレーが出た日は嬉しかったのだ。しかし、その喜びの記憶には、罪悪感がついて回る。カレーだとはしゃぐ娘を見て、アリアの母はとても不機嫌そうな顔をしていたのだ。
ご飯は手作り。それが愛情。世間一般に強く根ざすその価値観に、正直なところアリアは疑問を抱いている。だが「レトルトでもいいじゃない」という思いを「お母さんの料理が一番でしょ」という言葉が抑え込む。アリア自身の母の言葉だ。もっとも、オーガニックに傾倒していた母の料理は独特な味わいの上、非常に手間暇がかかっていたから、夕飯の時間はいつも夜の十時を過ぎていた。
モヤモヤはいくらでも湧いてくるのに、世間が言う「お母さんの手作りが一番」や「手間暇かけた料理こそ愛情」という言葉は、常にアリアの母に味方する。
考えれば考えるほど自分が悪者になる気がして、アリアはため息をついた。
レトルトはいけない。しかし、手作りにこだわり過ぎてもいけない。どちらに偏っても、かつての自分と同じ虚しさを、息子に与えてしまうことになる。アリアはそう思って、一人拳を握った。
息子には、同じ思いはさせない。させてはいけない。
ため息を飲み込んで、アリアはおもちゃが散らばるリビングから目を背け、キッチンの中へと入った。
風呂嫌いの息子は、湯船が一番嫌いだ。十秒だって入ることを嫌がる。しかし、シャワーで済ませるのも体に悪い。だから、毎日必死に言い聞かせて、数分だけでも湯船に入れている。
風呂から上がれば、バスタオルから逃げ回って、濡れた体で家の中を走り回る。フローリングはまだいいが、カーペットを濡らされると、いつもぐったりと疲れるのだ。おまけに、息子は母と鬼ごっこでもしているつもりなのか、入浴中とは打って変わってニコニコしている。
その笑顔を、可愛らしいと思えなくなったのはいつからだろうか。
最初から、かもしれない。
ようよう寝付いてくれた息子の隣で、アリアは、やっと体の力を抜くことができた。
どうにか、一日が終わった。
疲労を訴える体はすぐにでも眠りたがっているが、心の方はこの僅かな余暇を楽しみたいと叫んでいる。眠ってしまえば、すぐに朝が来て、また同じ一日が始まるのだ。
しかし、趣味も何もないアリアには、時間を消費する方法などスマホでインターネットを覗くくらいしかない。SNSを開き、雑多なトレンドには目を向けずに、お気に入りの占いアカウントをタップした。
ずらりと画面上に並ぶ投稿は、ほとんどがフォロワーからの相談への回答だ。『ユニレス』というハンドルネームのそのアカウントは、占いを使って皆の相談に答える活動をしている。ユニレスには、アリアも何度も助けられた。
息子のわがままについて、また相談してみようか。
そう思いながら、ユニレスの投稿を遡っていくと、ふと目に留まるものがあった。
「……おまじない?」
フォロワーへの回答ではなく、ユニレス自身の呟き。そこには「運気が上がる」と題されたおまじないの手順が書かれていた。箇条書きのそれは項目が三つしかなく、簡単に行えることがわかる。末尾には「幸せが始まる」とあった。他のフォロワー達のコメントもいくつかついていた。
『運気あげたい!』
『幸せほしい……』
『願いが叶うってこと?』
『もうこんな現実やだ。妖精の国にでも行きたい……』
「……妖精かぁ」
そんなものを信じる時代は、とうに終わった。
隣で眠る息子を見る。この子なら喜ぶだろうか。それとも興味を持たないだろうか。
アリアは首を横に振った。
最近、疲れていることは自覚している。そのせいで、息子への態度が不必要に厳しくなってしまっていることは否定できない。もしかしたら、息子のわがままがひどいのは、ストレスが原因なのかもしれない。そう思えば、いま大事なのは、アリア自身の息抜き。そう強く感じることができた。
スマホに映るおまじないの手順に目を通す。
日が暮れた後、ニレを燻し、ミズナラを砕き、ヤナギを混ぜて、庭に撒く。
ニレとヤナギはある。「精神を落ち着けるハーブ」として売られていたセットを買った覚えがあった。リラクゼーションを求めたものの、忙しくて手をつけていなかったセット。ハーブティー用のティーパックや、ポプリも入っている。
ミズナラはどうだろう、とスマホで検索してみると、オーク材のことだと出た。リビングにある、元カレが置いていった木の置物。南国の神か何かを象ったそれは、アリアの趣味ではなく、かといって捨てるほどでもなかったので、ずっと放置してあった。あれがミズナラかどうかはわからない、それでも、あれでいいかとアリアは思った。
どのみち、本気ではないのだ。
少しでも、気晴らしになれば、それでいい。
そう思って、アリアは息子を起こさないよう、そっと寝室を出た。
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