第18話

志堂寺の住むマンションは、都内の高級住宅街にあった。

UPMAの社宅と呼べるもので、高いセキュリティと静寂さが保たれている。

エンドゲームという特殊な立場にあった彼女に与えられたのは、贅沢と呼べる広さと設備を備えた部屋だった。


カードキーで解除されたドアを開け、志堂寺は無言で室内に足を踏み入れた。


「お疲れ私……」


返事が返ってくるはずもない空間に、小さな声が吸い込まれていく。

部屋の中には必要最低限の家具しかない。

いままで、そんなこと気にしたこともなかったのに……。


広い空間が妙に殺風景に感じられた。

志堂寺は玄関に立ったまま、ぼんやりと部屋を見回す。

何年も住んでいるのに、まるで初めて見る光景のように、すべてが新鮮に映った。


「なんか……違う、かも」


同じ部屋なのに、まるで別の場所のように感じる。

闇喰いが消えてから、明らかに自分の中の何かが変わったのだ。


リビングに足を踏み入れると、床に積もったほこりが目についた。

クローゼットから真新しい掃除機を取り出し、電源を入れる。


「最後に掃除したのって……いつだっけ?」


掃除機の音が静かな部屋に響き、志堂寺は無心で床を往復する。


「ふぅ……」


軽い汗をかいた後の心地よさが体を満たした。

そのとき、お腹から音がした。


「ぎゅるるる……」


――空腹。

それはひどく不思議な感覚だった。


「お腹…減ったのかな」


志堂寺にとって、それは新鮮な発見だった。


闇喰いが居た頃は、常に吐き気に襲われ、それを抑えるのに精一杯だった。

必死で闇喰いに意識を持って行かれないよう集中するだけで、食事など二の次だった。帰宅しても眠るだけ。それも、本当の意味で眠れていたのかさえ定かではなく、ただ目を閉じて朝を待つような生活だった。


ずっとそれが普通だと思っていた。


今ならわかる。


あれは普通じゃなかった。


「ぎゅるるる……」


再びお腹が鳴る。

意を決して台所に向かう。


冷蔵庫は空っぽだったが、棚には非常用の備蓄米があった。

いつも食べずに古くなったら交換するだけだったけれど、突然の思いつきで、お米を炊いてみたくなった。


「よしっ……!」


スマホを取り出し、お米の炊き方を検索する。


「えっ、手で洗うんだ?」


米を研ぐこと数回、いつまでも白く濁った水が出てくる。


「これ、いつまで洗うの? あ、いいんだ? へぇー」


炊飯器の釜に米を入れ、水を目盛りまで注ぐ。

あとは蓋をして、ボタンを押すだけ。

やったね、おめでとう! みたいな感じで、ピーッと作動音が鳴った。


「なーんだ、簡単じゃん。ふふっ」


志堂寺の顔にほんのりと笑みが浮かぶ。


炊けるまでの間、お風呂に入ることにした。

いつもはシャワーで済ませていたが、今日はお湯を張ろうと思い立つ。


洗面所で制服を脱ぎ、鏡を見つめる。

こうやって、自分の素顔をちゃんと見るのは、どれくらいぶりだろうか。


闇喰いがいた頃、鏡には常に自分の影として闇喰いが映っていた。

怪異を喰らうたびに大きくなっていくのを見るのが、ずっと怖かった。


あの蠢く闇を目にするのが嫌だった。

UPMAに入ってからは、捕食する数も増え、みるみるうちに自分よりも大きくなっていった。


でも、もうあの闇に怯える必要はない――。

忘れかけていた空腹感や、色、匂い、音。

すべてがまるで初めて経験するかのように鮮やかだった。


灰色だった世界が、色づき始めている。


浴室に入り、体を流したあと、ゆっくりと湯船につかる。


「あぁ……き、気持ちいい……」


控えめに言っても最高だった。

冷え切った体の芯から、じんわりと温かさが広がっていく。


「ふぅ……」


湯船に浸かりながら、志堂寺は考える。

これから、私は何をすればいいんだろう。


いままでのように、UPMAで働く?

でも、いまなら普通の世界に戻る選択肢もある。


お洒落もしてみたいし、メイクやネイルにも挑戦したい。

格好いい彼氏とデートだってしてみたい。


友達と遊びに行ったり、恋愛相談に乗ったり……。

まあ、相談はちょっと私じゃ経験不足か……。


ふと、亮の顔が浮かぶ。

志堂寺は慌てて湯船に潜る。


「ぶはっ!」


もう、なんで亮が出てくるのよ……。


湯船から出て、体を拭く。

髪を乾かして、新品のまま押し入れに置いてあった部屋着のスウェットに着替えた。


リビングに戻ると、信じられないくらい良い匂いがした。

思わずお腹が鳴る。


「きゃーっ! ホントに炊けてるぅ!」


人生初、自分で炊いた米! なんだか、とってもめでたい気分だ。


「あ、お皿しかないや……ま、いっか」


ファミレスみたいにお皿にご飯を盛る。

湯気がもくもくと立ち上り、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。

リビングの床に座り、ご飯を口に運ぶ。


「んっ……んまっ!?」


お米がこんなに美味しいとは思わなかった。

これは何杯でもいける!

夢中で食べていると、頬に何か暖かいものが伝っていくのを感じた。


「んあ、あれ……?」


ご飯を食べながら、涙を拭う。


おかしいな。


何でこんなに、涙が……温かい……の?


「うう……うわぁあああーーーん!!」


誰もいない部屋で、志堂寺は声を上げて泣いた。


悲しくはない。

理由なんてどうでもよかった。


心が産声をあげている。

とにかく声を出して泣きたくて。


この感情を表に出したくて。


いまはただ、涙が溢れて止まらなかった。

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