第11話

時計塔の最深部は、重苦しい静寂に支配されていた。


巨大な歯車が不規則に回り、金属の軋む音が冷たい空気を震わせる。


レイヴンは設計図を手に持つ。


その紙は埃っぽく、彼の手の中で微かに震えていた。


「反音の結晶……これが、歯車の再調整に必要な鍵か」


彼は呟き、目の前に浮かぶ巨大な結晶を見上げた。


灰色に輝く結晶は、太い鎖に封印され、触れる者を拒むように光を放つ。


「封印されてる……これを使うんだな」


レイヴンは一歩踏み出し、設計図に目を落とした。


そこには、結晶の封印を解く条件が書かれている。


膨大なエネルギーが必要だと。


「俺の反音なら、いけるはずだ」


彼は灰色の翼に目をやり、深呼吸した。


「やるしかない」


設計図をポケットにしまい、彼は結晶に近づいた。


手を伸ばすと、鎖が軋み、光の渦が彼を押し返す。


「くっ……簡単には解けないか!」


レイヴンは、もう一度設計図を確認した。


「結晶の封印を解くには、反音だけじゃ足りない……?」


彼の目が設計図の細かい文字を追う。


そこには、はっきりと書かれていた。


歌姫の天鳴が不可欠だと。


「歌姫……お前が必要なのか」


レイヴンは唇を噛み、塔の奥を見据えた。


暗闇の中から、白いドレスが風に揺れる姿が浮かび上がる。


歌姫だ。


彼女は冷たく微笑み、レイヴンを見下ろした。


「また会ったわね、灰色の翼の少年」


その声は鋭く、空気を切り裂く力を持っていた。


レイヴンは設計図を握り、一歩前に出た。


「お前を敵とは思わない。俺と一緒に歪みを正そう」


彼の言葉に、歌姫が低く笑う。


「協力ですって? 私が? 笑わせるわ。私は歪みそのものよ。そんな提案、無意味だわ」


塔が震え、レイヴンの足元が揺れる。


だが、彼は目を逸らさず、さらに近づいた。


「お前が支配者になったのは、『時の歪み』がひどくなったせいだろう?」


「俺はお前を自由にしたいんだ」


その言葉に、歌姫の瞳が一瞬揺らいだ。


「……自由?」


彼女の声が小さく震え、記憶が蘇る。


雲海の上で、反音者と笑い合った遠い過去。


「お前と一緒なら、この都市は永遠に続くよ」


あの時の自身の歌声が、頭をよぎった。


レイヴンは彼女の動揺を感じ取り、声を強めた。


「お前だって、本当はみんなを救おうとしていた。……違うか?」


歌姫の手が止まり、視線がレイヴンに固定される。


「本当に……私を救えるの?」


彼女の声が掠れ、初めて脆さが顔を覗かせた。


レイヴンは力強く頷いた。


「できるさ。——俺とお前で、歪みを終わらせよう」


その瞬間、天鳴が柔らかな旋律に変わり、優しい音色が塔を包み込む。


結晶が反応し、灰色の光が強く輝き始めた。


「何!? この音……!」


歌姫が驚き、結晶を見つめた。


封印の鎖が軋み、少しずつ緩んでいく。


レイヴンは結晶に手を伸ばし、反音の力を注ぎ込んだ。


「今だ! 天鳴と反音を合わせれば……!」


彼の灰色の翼が共鳴し、結晶がさらに輝く。


鎖が一本ずつ外れ、封印が解けていく。


だがその時、歯車が激しく軋み、低い警告音が響いた。


「時の歯車の安定には、記憶の代償が必要だ」


その声は冷たく、レイヴンの心に突き刺さる。


「記憶の代償……?」


彼は一瞬立ち止まり、設計図を再び確認した。


そこには確かに書かれていた。


歯車を安定させるには、誰かの記憶が犠牲になると。


レイヴンは息を呑み、すぐに決断した。


「——俺だけでいい。俺の記憶で十分だ」


彼は結晶に手を押し当て、力を強めた。


「レイヴン!?」


歌姫が叫び、初めて焦りが声に滲んだ。


「あなたの記憶が消えたら、意味がないわ!」


彼女の声が震え、天鳴が不安定に揺れる。


レイヴンは振り返り、静かに微笑んだ。


「意味はあるさ。お前が自由になれるなら、それでいい」


彼の言葉に、歌姫の目から涙がこぼれた。


「……なに、言って……」


彼女は自分の頬に触れ、信じられない表情を浮かべた。


天鳴がさらに柔らかくなり、塔全体が光に包まれる。


結晶の封印が完全に解け、灰色の光が歯車に流れ込んだ。


「これで……歪みが抑えられる」


レイヴンは呟き、全力で反音を注ぐ。


だが、記憶が少しずつ薄れていく感覚が襲ってきた。


「リコ……黙層のみんな……」


彼の声が弱まり、頭がぼんやりする。


歌姫が叫び、彼に駆け寄った。


「やめなさい、レイヴン! 私が代わるわ!」


彼女の手がレイヴンの腕を掴む。


だが、彼は首を振った。


「お前は自由になるべきだ。——これは、俺が選んだ道なんだ」


レイヴンの瞳に、揺るぎない覚悟が宿っていた。


結晶が爆発的な光を放ち、歯車の軋みが止まる。


塔が静寂に包まれ、歪みの力が弱まっていく。


「レイヴン……あなた……!」


歌姫の声が震え、彼を見つめた。


彼の記憶が光に溶け、頭の中が空白に近づく。


「あとは……任せたぞ」


レイヴンは小さく笑い、力を振り絞った。


記憶が消え、彼の目が虚ろになっていく。


「待って! レイヴン!」


歌姫が叫び、彼の手を掴んだ。


その時、彼の体はそこにあった。


記憶だけが結晶に吸い込まれ、彼自身は消えていない。


塔が完全に静まり、歯車が安定した回転を始めた。


セレスティアの空が澄み渡り、雲海が穏やかに揺れる。


歌姫はレイヴンの手を握り、涙をこらえた。


「あなたが……私を救ったのね」


彼女の声が小さく響き、天鳴が静かに消えた。


レイヴンは目を閉じ、ぼんやりと呟いた。


「……あれ? 俺、なんでここに……」


彼の記憶は失われ、ただ体だけが残っていた。


歌姫は彼を抱き寄せ、静かに泣いた。


「お前はレイヴンよ。私を自由にしてくれた人」


彼女の涙が床に落ち、光を反射する。


塔の外では、黙層の民が空を見上げていた。


「歪みが……止まったのか?」


誰かが呟き、希望の声が広がっていく。


だが、歌姫の心には深い痛みが残った。


「私が自由でも、あなたが覚えててくれなきゃ……」


彼女はレイヴンの顔を見つめ、目を閉じた。


その時、結晶から微かな音が漏れ始めた。


レイヴンの声じゃない。


何か別の、深い響きだ。


「何!? この音は……?」


歌姫が目を開け、結晶を見上げた。


光が揺れ、塔の奥から何かが動き出す気配がした——。

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