第9話
セレスティアの夜は静かだった。
雲海を切り裂く風が、時計塔の周りを冷たく撫でていく。
数日前の戦いの傷跡が、塔の表面に残っている。
その塔に、見知らぬ男が足を踏み入れた。
彼の名はレイヴン。
灰色の翼を持つ男が、埃っぽいジャケットを羽織りながら、塔の最深部へと進む。
「ここが……噂の場所か」
彼は低い声で呟き、周囲を見回した。
巨大な結晶が浮かび、光が微かに揺れている。
その中央に、ガラスの中に閉じ込められた少女がいる。
その少女の名前は知らない。
彼女は穏やかに微笑み、まるで眠っているかのようだった。
レイヴンは近づき、彼女の顔をじっと見つめる。
「お前がこの都市を救ったのか?」
彼の声は掠れ、どこか懐かしさを感じさせた。
でも、彼には彼女の記憶がない。
初めて会うはずの少女なのに、心の奥がざわついている。
「何だ? この感覚……」
彼は首をかしげ、ガラスに手を触れそうになる。
その時、足元に小さな欠片が転がっているのに気づいた。
杖の結晶だ。
彼女が手にしていた星屑の杖の一部のようだ。
レイヴンはそれを拾い上げ、指先で確認する。
「これは……」
彼は欠片をじっと見つめ、頭を振る。
「……もしかして、俺に何かを伝えたいのか?」
彼女の微笑みが、少しだけ深くなった気がした。
でも、それは錯覚かもしれない。
レイヴンは欠片をポケットにしまい、塔を後にする。
夜風が吹き抜け、歯車が一瞬だけ軋む音を立てた。
その時、微かな声が彼の耳に届く。
「ありがとう……」
レイヴンは立ち止まり、周囲を見回す。
「……!?」
だが、そこには誰もいない。
幻聴か、それとも彼女の意志の残響か。
彼には分からない。
「なんだか、不思議だな……」
レイヴンは振り返らず、雲海の向こうへと歩き出した。
月光が時計塔を照らし、ガラスの中のリコが静かに微笑む。
彼女の真実は永遠に隠され、知られざる守護者として存在し続ける。
——はずだった。
その夜、レイヴンは家に戻り、疲れた体をベッドに投げ出した。
眠りに落ちた瞬間、夢が彼を襲う。
雲海の上に立つレイヴン。
隣には銀色の翼を持つ少女、リコがいる。
「レイヴン、私たち、黙層を救うんだよね?」
彼女の声が優しく響く。
夢の中で、彼はリコと共に戦っていた。
歌姫との戦い、灰色の結晶、そして「音の牢獄」。
「俺の音で、お前を止める!」
彼の叫びが雲海に響き、結晶が輝く。
だが、その代償に、彼の翼が結晶に吸い込まれていく。
「レイヴン! やだよ、戻ってきて!」
リコの泣き声が耳に刺さる。
そして、彼は息絶え、彼女を残して逝った。
夢はそこで終わらず、次にリコが雲海の端に立つ場面になる。
「レイヴンを救いたいよ……!」
彼女が灰色の眼に回帰を願い、消えていく。
レイヴンは夢の中で目を開け、冷や汗にまみれていた。
「何だこれ……俺が、リコを?」
彼の手が震え、胸が締め付けられる。
別の世界線での真実が、頭に流れ込んでくる。
自分が死に、それがリコを回帰させたトリガーだったこと。
そして、セレスティアの存続のために、リコが自らを犠牲にしたこと。
「俺が……俺のせいで、リコが……!」
レイヴンはベッドから飛び起き、床に膝をつく。
初めて涙が溢れ、頬を伝う。
「何でだよ……俺が死ねばよかっただけなのに!」
彼の声が部屋に響き、嗚咽が止まらない。
「リコ、俺……お前を置いて、逝っちまったんだな……ごめん、ごめんな!」
なぜ今、この真実の夢を見たのか。
それは——誰にも分からない。
だが、その痛みはレイヴンの心を切り裂いた。
---
翌朝、彼は雲海へと向かった。
冷たい霧が漂う中、レイヴンは立ち尽くす。
「灰色の眼……お前がリコを回帰させたんだろ?」
彼の声が霧に溶け、雲海が微かに揺れる。
すると、渦の中心から「灰色の眼」が現れる。
「レイヴンか。久しぶりだな」
その声は低く、深く響いた。
レイヴンは眼を見上げ、涙を拭う。
「お前、リコを過去に戻したんだよな? 俺にも同じことをしてくれ」
彼の声は震え、決意が込められている。
灰色の眼が静かに答える。
「この結末を後悔しているのか?」
「当たり前だ! リコが犠牲になるなんて、俺は自分を許せない!」
レイヴンが叫び、拳を握り締める。
「俺だって……やり直したい。納得した結末を迎えたいんだ!」
眼が雲海を揺らし、しばらく沈黙する。
「回帰は可能だ。但し、条件がある」
「何だ?……言ってくれ!」
「黙層の民を必ず救え。それが盟約だ」
レイヴンは深呼吸し、眼を見つめる。
「——分かった。俺、約束するよ。黙層を救う。……そして、リコも救うんだ」
彼の声に力が宿り、灰色の翼が微かに揺れる。
「ならば、新たな盟約を結ぼう」
眼が光り、雲海が渦を巻き始める。
レイヴンの体が灰色の光に包まれる。
「リコ……もう、お前を一人にしない!」
彼の叫びが響き、光が視界を覆う。
---
レイヴンは光の中で目を開ける。
雲海の中央に立ち、周囲を見回す。
「ここは……戻った、のか?」
遠くにセレスティアの輝きが見える。
彼の灰色の翼が疼き、心が熱くなる。
「リコ……生きているのか?」
レイヴンは雲海を歩き出し、小さな希望を抱く。
だが、雲海の奥から灰色の眼が再び現れる。
「自由に動いていい。だが、盟約を忘れるなよ」
その声が低く、彼に警告する。
「——分かってる。黙層を救う。それが俺の役目だろ?」
レイヴンは頷き、決意を新たにする。
雲海が揺れ、セレスティアが近づいてくる。
「リコ……今度こそ、お前を救ってみせる」
彼の声が響き、過去の世界が動き出す。
月光が雲海を照らし、レイヴンの足跡が霧に溶ける。
そして、どこかで微かな歌声が聞こえ始めた——。
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