第8話
セレスティアの空は曇っていた。
崩落の音が遠くで響き、リコの耳に刺さる。
時計塔の最深部では、巨大な結晶が不気味な光を放ち始めた。
歌姫の声が、ふっと途切れる。
彼女の白いドレスが風に揺れ、身体が砂みたいに崩れていく。
その瞬間、「時の歯車」がガリガリと異音を立てて動き出した。
金属が軋む音が響き、光の渦が目の前で渦巻く。
リコの頭の中に幻視が流れ込む。
歌姫の力が歯車に吸い込まれていく。
その力が、「楔」としてリコに宿る光景だった。
彼女は目を閉じて、深く息を吸った。
「これで……きっと……」
覚悟が胸をじんわりと満たす。
でもその時、結晶から淡い光が溢れ出した。
リコの前に、ぼんやりとした人影が浮かぶ。
歌姫の幻影——だけど、どこか違う。
柔らかな声が、静かに響いた。
「——リコ、私の話を聞いてくれる?」
リコは目を見開いた。
杖を握る手に、思わず力が入る。
「あなたは……歌姫なの? でも、ちょっと違うよね?」
幻影が、ふわりと微笑んだ。
「私は彼女の残響だよ。かつての彼女が切り離した記憶の、その一部なんだ」
「今、あなたに真実を伝えるために出てきたの」
リコは一歩近づいて、幻影をじっと見つめた。
歌姫との戦いが頭をよぎるが、この存在に敵意は感じない。
「……分かった。あなたのお話、私に聞かせて」
歌姫の過去を語る声。
幻影が、静かに話し始めた。
「私、歌姫——アストラル・シンガーはね、人間じゃないんだよ」
「時計塔の、小さな『時の歪み』から生まれた存在なんだ」
リコは黙って頷いた。
幻影の言葉を、頭の中で追いかける。
「ずっと昔、セレスティアが雲海に浮かぶ都市として生まれた時さ」
「塔は時間の流れを整えて、都市を支える心臓だったの」
「その力は純粋で、みんなに翼をくれたんだよ」
「……そうなんだ……」
リコが小さく呟くと、幻影が続ける。
「歌姫は、その守護者として生まれたんだ」
「反音者って設計者と一緒に、天鳴を創って、セレスティアを盛り上げたの」
「でも、その『時の歪み』が大きくなりすぎちゃって……」
幻影の声に、哀しみが滲んだ。
リコは目を細めて、歌姫の冷たい笑みを思い出す。
「歪みがひどくなって、都市を維持するのに膨大なエネルギーが必要になったの」
「その時、彼女は黙層の民の『音』を吸収する道を選んだんだ」
「反音者を裏切って、彼を塔に封じちゃったんだよ」
「うん……」
リコの声が、少し震えた。
「そう。彼女は感情を切り離して、支配者になることを選んだの」
「私——彼女の罪悪感や優しさは、その時に捨てられたんだ」
「でもね、最初は彼女だって、みんなを救おうとしてたんだよ」
幻影が目を伏せる。
リコの胸が、ぎゅっと締め付けられた。
「歌姫も……本当は、苦しんでたの?」
「うん。彼女は——歪みに飲み込まれちゃっただけなんだ」
幻影が優しく頷いた。
「あなたと戦う中で、彼女は自分の虚構に縛られていたんだよ」
「レイヴンの灰色の翼とか、あなたの星屑の杖が彼女を追い詰めた時にさ」
「初めて恐怖を感じたんだ。あの叫びは、消えることへの抵抗だったのかもね」
リコは杖を手に持って、じっと見つめた。
「……でも、黙層の民を犠牲にしたのは、許されないことだと思う」
幻影がそっと頷く。
「分かるよ。でも、彼女も時の歯車に縛られた囚人だったんだ」
「そして……あなたが彼女を封じたことで、その鎖は解けたの」
「私から、最後の贈り物をあげるね——彼女の記憶だよ」
歌姫の記憶とリコの決意。
幻影の手が、リコの額に触れた。
暖かい光が、リコの意識に流れ込んでくる。
そこには、歌姫の視点からの記憶があった。
雲海の上に浮かぶ、昔の頃のセレスティア。
反音者と笑い合いながら、天鳴を奏でる歌姫。
「お前と一緒なら、この都市は永遠だよ」
彼女の歌声に合わせて、翼が輝く。
子供たちが空を舞って、笑い声が響く。
しかし——やがて歪みが膨れ上がった。
歯車が軋み始めて、反音者が警告する。
「このままじゃ、都市が持たない!」
歌姫は黙層の民の音を吸収し始めた。
「ごめんなさい……これしかないの」
涙を流しながら、彼女は自分に言い聞かせる。
記憶が途切れて、リコは涙をこぼした。
「歌姫……あなたも、苦しんでいたんだね」
「私と同じように、みんなを救いたかったんだ……」
幻影が優しく微笑む。
「彼女の名前は……記録に残らないよ」
「でも、あなたがその意志を引き継ぐなら、彼女の歪んだ夢も……きっと報われる」
「リコ、あなたはどうする?」
リコは目を閉じた。
歌姫の苦悩と願いが、心に染み込んでくる。
冷酷さは許せなかったけど、その奥の想いを理解した。
「私、歌姫の代わりになるよ」
「彼女が救えなかったものを——私が守る」
「歪みを癒して、みんなに未来を託すんだ」
幻影が光の粒になって消えていく。
最後に、囁くような声が響いた。
「ありがとう、リコ。あなたが——彼女の救いになるよ」
彼女の犠牲と新しい始まり。
リコはゆっくりと杖を掲げた。
結晶に光を注ぐと、塔が眩い光に包まれる。
セレスティアの崩落が、ピタリと止まった。
空が澄み渡って、雲海が静かになる。
黙層の民の生命維持装置が動き出し、低い唸り音が響く。
「やっと……止まったんだ」
リコの体が、透明に変わっていく。
彼女の手の中で、星屑の杖が歯車と一体化した。
時の流れを安定させ、彼女が新しい「楔」になる。
「これで、みんな……もっと、生きて」
小さく呟いて、リコは目を閉じた。
戦いの音が消えて、塔は深い静寂に包まれた。
歯車が止まり、リコの姿がガラスの中に閉じ込められる。
彼女の微笑みは穏やかで、まるで守護者のようだった。
遠くで、都市が安定を取り戻していく。
黙層の民が息を吹き返して、空を見上げた。
「空が……きれいだね」
一人のおじいさんが、涙をこぼしながら呟く。
塔の周りに、黙層の人々が集まり始めた。
「歪んだ時間が、止まったんだ」
若い男が、震える声で叫んだ。
「誰かが、奇跡を起こしたのよ!」
別の女が、期待を乗せて付け加えた。
リコの意志が、確かに果たされた瞬間だった。
伝説と未来への祈り。
時計塔は、「時の守護者」として祀られることになった。
リコの姿はガラスの中で輝き、英雄として語り継がれる。
夜が訪れて、星が空に瞬き始める。
黙層の民は希望を見つけて、都市が復興へと動き出した。
塔の前には、祈りを捧げる人々が集まる。
「彼女って、神様みたいだよね?」
小さな男の子が、母親の手を握って呟いた。
「うん、そうかもしれないね……」
母親が優しく微笑んで、塔を見上げる。
リコの犠牲は伝説になり、神聖な存在として残った。
塔の壁に、新しい文字が浮かんだ。
『歪みを癒した者』
その言葉が、静かに刻まれる。
都市が平和を取り戻す中、リコの微笑みはガラス越しに輝き続けた。
彼女の名前は記録に残らない。
ただ、「守護者」として後世に語り継がれるだけだ。
塔の前で、少女が友達に聞いた。
「ねえ、彼女って幸せだったのかな?」
「きっとそうだよ。だって、みんなを救ったんだもん」
友達が優しく答える。
夜空に星がまたたいて、セレスティアが再び輝き始めた。
人々は塔を見つめて、未来を語り合う。
「これから……どうなるんだろうね?」
誰かがぽつりと呟いた。
ガラスの中のリコは、静かに微笑んでいる。
まるで、全てを見届けたみたいに。
都市が動き出して、新しい時間が刻まれていく。
「私たちのために……ありがとうね」
男が塔に手を合わせて、静かに祈った。
その祈りは風に乗って、夜空に消えていく。
塔の光が微かに揺れ、まるでリコがそれに応えているようだった。
「見ててね、これから、きっと良くなるから!」
少女が空を見上げて、無邪気に微笑んだ。
でも、その笑顔の裏で、塔の奥から微かな音が響き始めた——。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます