哂うペルソナ
ニニ
哂うペルソナ
喫茶ペルソナには、今日も新たな風が吹く。
「ねえ店主さん、こんな噂をご存じかしら。先週から来てる、スターの噂!」
午睡に微睡んでもおかしくない、土曜日の夕暮れ。赤い紅をひいた婦人がカウンターの奥にいる店主に話しかけていた。ピエロの顔を模したような飾りがついたヘアピンで長い前髪を留めている、肩ほどの髪をゴムでまとめた、まだ若い黒髪の男だった。
「スター?それは初めて聞いたな。よければ話してくれますか」
にこりと愛想よく微笑んだ店主の本名はだれも知らないが、奇怪で異質なものがよくやってくるこの街にそれを疑問に思う住人はいない。殆ど常連客しかいないのをいいことに、店主は婦人の隣に座った。
「ええ勿論、私はこれを話したくってって仕方がなかったんです、それなのに陽介は全然聞いてくれなくって」
勝手に機嫌を損ねた婦人は、無意識下の癖なの僅かに唇を突き出す。その様子に苦笑した店主は楽し気に口を開いた。
「そりゃあ、陽介君はたしか自営業だったでしょう、土曜日と言えど忙しいんじゃないですか?にしても、スターか。どんな方なんです?」
パッと顔を華やがせた婦人は、勢いよく語り始めた。
商店街のスタジオを借り切った麗人、三人組のバンドらしい、一人は仮面で顔を隠してドラムをしている、ボーカルの顔は異様に整っていて、街の女性は骨抜き、愛想が良いが、どこのレーベルにも所属しない個人で活動しているバンド。バンドの名前は「セイファート」聞いただけだから表記は知らない。
他にも次もと、矢継ぎ早に話される情報を興味深げに聞く店主の表情が僅かに曇ったが、それを意に介さず婦人はよく話した。珈琲が冷めてしまいそう、と言われてようやく婦人が我に返れば、店主は満足げに笑う。
「たくさん話してくれてありがとう、ミチコさん。おかげでとても楽しい時間でした。次はセイファートがどんな活躍をしたかもまた教えてください。珈琲、冷めないうちにどうぞ」
にこにこと笑う店主はどこか不気味だが、それを気にした様子もなくミチコと呼ばれた婦人はにっこりと笑う。
「ええもちろんよ。また来たら是非話を聞いてちょうだい。退職してから、話し相手がいなくて退屈で暇で仕方がないの」
「貴女の話は聞いていて面白いから、喜んで。珈琲のおかわりか、何かもう一つ頼んでくださるなら、僕からも一つプレゼントを渡せますよ。どうします?」
くすくすと邪気のない笑顔で笑うミチコはすっかり乗り気になったらしい。
「ふふ、それじゃあこのケーキをいただこうかしら?」
「ありがとうございます。季節のタルト、今はオレンジですね。リキュールを使っていますが、構いませんか?」
「あら、それは素敵ね。お願いするわ」
確認を済ませて、店主はカウンターの奥に下がった。数分もしないうちに現れた店主は、一ピースのタルトが乗った小皿を華奢な手に持っている。艶のあるオレンジ色が白いクリームの上に乗せられ、その下には荒いクッキー生地のタルトだった。食感の違いが如実に味わえるよう工夫されたそれを、ミチコは至極嬉しそうに受け取った。フォークには華やかなバラが彫金されている。
「ありがとう、ところで今日の貴方はなんていう名前なの?」
「今日の僕は……そうですね、さっきのスターに影響されたわけではありませんが、西洋風にアノンとでも名乗らせてください。さて、貴女へのプレゼントはこちら。先程偶々見かけた、セイファートが再来週執り行うライブの情報ですね。その調子だと、ライブがあれば参加するおつもりなのでしょう?メモは用意されてますね、流石、準備がお早い。日時は再来週の金曜日、午後六時半から。場所はマーメイドホールの地下一階のイベントホールだそうです、凝ってますね。同日二十時から天体観測会も行われるそうですので、よければそちらも良いのではないでしょうか」
流れるように朗々と告げられた情報は、ミチコの胸を躍らせるには十分だったらしい。顔を輝かせてボールペンを置いたミチコは声を弾ませた。
「まあ、まあ!ありがとうカールさん、早速チケットを取らなくちゃ。でも、最後の天体観測会は余計だったんじゃないかしら。行きたくなっちゃったのに大事な予定を入れてたの。セイファートには関係ないのだし」
「あっはは、すみません。知人が勤めているもので、つい宣伝をしてしまった。ですがまあ、僕はミチコさんの予定を知らないので許してくださいよ」
笑うカールとは対照的にややご機嫌斜めのミチコは、上品な仕草で珈琲を含んだ。砂糖もミルクもないブラックコーヒー。さして苦そうな顔をするわけでもなくタルトを口に運び、何も発さないままにまた珈琲を呷る。
「別に良いのよ、ごめんなさいね。空がもう暗いけど、冬はあっという間に夜になるのねそういえば」
「いえ、こちらこそ過ぎた真似をしました。そうですね、冬はすぐに夜になる。この道は街灯がありますが、ご婦人が歩きやすい道ではないでしょうし、お早めに帰ることを推奨いたします」
「そうね、そうするわ。ありがとう、またよろしくね」
「無論です。くれぐれもお気をつけて」
一礼して、ベルの鳴ったテーブルに歩いて行ったカールを見送り、ミチコはオレンジを一切れ、口に運んだ。苦くも甘い、甘さ控えめのクリームの滑らかさがオレンジを惹きたてて、ざくざくとしたタルトの食感が後に引いて苦味を和らげる。これを全てあの店主が作っているというのだから、世の中は考え物だ。残しておいた珈琲の最後の一口を飲み干して、ストールを巻きなおしたミチコは会計を済ませた後喫茶ペルソナを後にした。カランと鳴ったドアベルの音だけを耳に残して。
喫茶ペルソナの空気の流れが滞るのは、閉店後だけと決まっている。締め切られて鳴らないドアベル、換気のために空いていた窓は、夏には虫を防ぐため、冬は寒さをしのぐために閉じられ、薄いカーテンも同様、全てのカーテンが閉められている。店主だけが残る店内は客がいた時に比べて随分と薄暗く、カウンターの証明とところどころに置かれた間接照明だけがぼんやりとした空間を作り出していた。薄いカーテン越し、広い窓から月光が流れ込んでくる。
テーブルを拭いて、零された物があれば片付けて、伝票入れとメニュー表に汚れが付いていないかをチェックして消毒して、椅子に何か落とされていないかを確かめて荷物入れに忘れ物が入っていないかも確かめる。床を掃いてモップで拭いて、ようやっと終わったころには月が僅かに動いていた。
同様に、いやそれ以上にカウンター奥、厨房を丁寧に掃除して、次の日のために仕込みをして、やっとその日の仕事が終わる。明日の朝も早いのだが、それはそうとして店主は珈琲を淹れていた。
「……、…………飽きた」
ピエロの顔を模したヘアピンを外した店主は、無表情にそう言い切った。はらりと落ちた髪からは徐々に色が抜け落ち、濡羽の髪だったはずが見る間に荒れた斑に抜けていく。すっかり三毛猫カラーに染まった髪を解いて、ヘアゴムをくるくると指で回す。ぐしゃぐしゃと掻きまわした髪からひょっこり耳がのぞいて、エプロンの結び目の下からは長いしっぽが見える。
「っていうか、来るなって行ったのに来やがって。あの仮初野郎が」
セイファート、と名乗ったバンドのボーカルを店主はとっくに知っていた。チラシを見て気づいたのだ。ボーカルは自分が創り上げた器に過ぎないのだから。喫茶ペルソナ、怪しく得体のしれない店主の正体。
「そもそもこの街可笑しいだろ……。名前も出自も不明な怪しい喫茶店店主、美しくも歌以外で言葉を発さないバンドボーカル、顔を見せないモデルに手足を失っても問題なく働く理髪師。どれだけ奇怪な連中に慣れてるんだ、全く。いっそ常識的な奴になった方が怪しまれるんじゃないかと思ってランクを下げてもこれだ。商売はしやすいけどさあ!」
ずるり、と掃除をしたばかりのカウンターにもたれかかる。既にぐちゃぐちゃになった三色の髪をまたわしゃわしゃと乱暴に混ぜる。黒曜石かとも思われた瞳は翡翠を思わせる緑色と、花を思わせる青色に変色していた。頭から生えた猫の耳、腰から伸びて機嫌斜めに揺れている長いしっぽの先端は鍵尻尾。
「喫茶ペルソナ、店主の正体はただの××××‼」
そう言い切った途端、店主の外見が元のように戻る。艶やかな濡羽色の髪、黒曜石の瞳、長い前髪をまとめるピエロのヘアピンに、後ろでくくられた肩ほどの髪。シンプルな焦げ茶色のエプロンに、肘辺りまで捲られたストライプ柄のワイシャツ、黒のスラックスと運動に向いていなさそうな黒い革靴。後ろに飾りベルトが付いた、黒いベスト。
猫の耳も尻尾も、美しい色違いの宝石の瞳もどこにも無い、喫茶ペルソナの店主の姿。生きていたその姿からどこか生気は失せ、空っぽの、虚ろな無を宿した瞳で店主はこれきり動かなかった。
月明かりで出来た影が僅かに揺らぎ、猫の耳としっぽの生えた店主の影が一人歩いて、クローズの看板が下げられた扉をすり抜けて出ていった。そして、月光に誘われたかいざ知らず、やや丸い耳を生やした人間の影が入り込む。
「ああ、やっと依り代を買えた。名前……?じゃあ、そうだな。ネロとでもしようか。うん、僕は喫茶ペルソナの店主、ネロ。あ、コーヒーがある、ありがたいなあ」
そしてまた仮面売りは依り代を作り、喫茶ペルソナには明日も新たな風が吹く。
哂うペルソナ ニニ @shirahahumi
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