一ヶ月と少しの親密度③

 本談義であれば、予測を立てることもできるし、回路は即座に繋がる。それはお互いの経験値が等値だからだろう。

 だが、リアルな交流を繋げるコミュニケーションは天秤が傾いている。置いてけぼりを食らうこともあった。話の流れを止めてしまうことに申し訳なさはあるが、文葉は気にした様子もない。そうしたナチュラルさもまた、経験の差だろう。


「その本屋に行くつもりでいるんだよね。章人くん、よかったら一緒に行かない?」

「……いいのか?」


 お互いに、本を物色するときには相手を放り出す。自由行動がデフォルトだ。ついていったところで、別行動になりかねない。そんなものがついていって、面白いことがあるのか。

 その疑問が大幅を占めた。残りの数パーセントを占めているのは、異性という要らぬ区分だ。

 文葉にとっては知ったことではないのかもしれない。俺だって、それを理由に文葉を隔絶する気は更々なかった。だが、目撃されて噂になる厄介事を抱え込みたいとも思わない。その迷惑を文葉にかけるつもりもなかった。

 そんな漏らしたこともない思惑が文葉に通じるはずもない。文葉は不思議そうに小首を傾げた。


「あたしが誘ってるんだけど?」

「……そうだな。文葉がいいなら、お供させてもらうよ」

「何か心配事でもあるの?」


 言い回しの取り逃しが少ない。いいなら、と条件をつけたことを過敏に嗅ぎ取ってくる。文葉との会話が心地良いのは、こうした言葉への嗅覚もあるのかもしれない。


「噂されたりするかもしれないけど、いいのか?」

「棚田さんに見つかると嫌?」

「クラスメイトのほうだよ。気にしないのか?」

「んー、困ることないかな」

「面倒かもしれないぞ」

「あたし別に好きな人いないから、噂されても別に。章人くんと話すことは多くなりそうだし、どっちにしろって感じじゃない?」

「消極的選択じゃん、それは」

「開き直りとも呼ぶ。でも、気にしないのは本当だし、あたしはいいよ。章人くんがよければね」


 同じ意味で応戦されて、苦笑になる。あくまでも杞憂しているに過ぎず、それで文葉との関係を壊したいわけじゃない。


「いいに決まってるだろ。出かけよう」

「やった! うろうろしようね。時間かけてもいいでしょ?」

「ああ」


 時間をかけないことなど不可能だ。本屋に行くと時間が溶ける。頷くと、文葉は輝度を上げてご機嫌になった。


「五駅先ってさ、中学時代だとお小遣いではしょっちゅう行けないし、家族に連れてってもらえることはあったけど、そんなときに心ゆくまで時間を使うって難しいじゃん? いい加減にしてって言われるし。だから、一緒にうろうろしてくれる人と回れるのは面白そう」


 なるほど。

 言われると、こちらも似たり寄ったりだ。家族で遠出して本屋へ行けるのは嬉しいが、満喫できるかと言われると物足りなさはある。


「それじゃ、心置きなく回ろう」

「うん!」


 ありふれた相槌だ。その中でも、飛び抜けてシンプルだろう。それをとびきり輝いたものに昇華させられる文葉に、瞳が焼かれそうだった。




 サーモンピンクの襟付きシャツに淡いクリーム色のロングカーディガン。ブラウンを基調にしたチェック柄のショートパンツに、ソールの高いスニーカー。いつもは流しているだけの髪の毛が、くるりんとお団子のように結ばれている。耳元には、星屑のチェーンピアスが揺れていた。

 GWにも私服を見たが、そのときとも雰囲気が違う、周囲の目がその子を捉えていた。人目を惹く存在。その文葉が俺を見つけて寄ってくる。

 こちらに流れてくる周囲の目に値踏みの色を感じることは苦い。確かに、月とすっぽんでもまだマシだ。

 俺は黒のスラックスに、白いシャツ。渋い緑の大きめのシャツジャケット。これでも整えているほうだった。けれど、文葉を前にすると不十分だ。元が違うのだから、どうしようもないと言えばそれまでだけど。


「おはよう」

「おはよう。ごめんね。待った?」

「待ってないよ」

「ふふっ、なんか変な感じだね」

「待ち合わせするような状況になるなんて考えてもみなかったからな」

「章人くんはあたしに声かけるようなタイプじゃないしね」

「悪かったな。愛想が悪くて」

「他人に興味がないだけでしょ」


 真っ直ぐな言葉に、打つ手はない。興味は人よりも本に向いている。他人という前置きをされれば、反論する余地はなかった。文葉はそんな沈黙に構わずに、言葉を重ねる。


「自分の枠に入れた人にはちゃんと愛想も付き合いも良いじゃん」

「そうかな?」


 千賀浦と如才なく付き合っているか。それを考えると、大手を振って頷くには雑さを否定できなかった。けれど、文葉は躊躇なく頷く。


「じゃなきゃ、あたしに付き合ってくれないでしょ?」

「文葉は読書仲間だからなぁ」


 それは自分の枠の中でも、中心に近かった。文葉を身のうちに入れている感覚は薄いけれど、関連性は引き剥がせない。無意識下でそばに置いている。それは千賀浦とは別の立ち位置だ。同じ読書仲間でも、穂架さんとも違う。

 文葉は仲間の感覚を掴みきれないのか。首を傾げている。読書仲間がいなかった、という話はしてあったはずだが、理解には及ばないらしい。


「今までいなかったものだから、距離感を測りかねてるだけだよ」

「それじゃ、不服ながらもって聞こえるんだけど?」

「違和感が拭えないって話だ。さ、移動しよう」


 友人と遊びに行く。そんな経験は片手で収まるほどしかない。千賀浦と何度か出かけたことがあるが、学校帰りの寄り道だったりが関の山だ。

 だから、遠出というのは不思議な感覚がしてならない。ましてや相手が、クラスメイトの女子。

 読書仲間だとしても、クラスメイトの女子という枠組みから除外されるわけではない。その緊張感と呼ぶのか。違和感と呼ぶのか。気恥ずかしさと呼ぶのか。名称をつけがたい落ち着かない感情があった。

 それを抱えたまま、駅構内へと進む。五駅分。午前十時。日曜日の電車は、可もなく不可もない。

 ただし、座ることは難しくて、俺たちは吊革に並んだ。図書館では背丈を気にしていた文葉も、電車内では不安もない。車窓の景色を眺めながら、ぽつりぽつりと言葉を交わす。

 電車内のオムニバスをまとめた小説の話を投げられれば、風景を見る視線にも意識が混ざった。物珍しいものが見つかるかもしれない。そう好奇心が刺激されるほど、オムニバスは面白かった。

 そうして、緩やかな時間を過ごせていたのは、三駅分くらいのものだ。四駅目で、どっと人が増えた。五駅先には本屋の本店があるほどには、栄えている。

 だから、予想できないことではなかったが、予想以上の人数で人波に押された。俺だけなら、そこに留まっていられただろう。力があるわけではない。けれど、俺にはたっぱがある。だから、踏ん張っていれば良かった。

 だが、今は隣に文葉がいる。背丈が足りていると言っても、細身の女の子だ。吊革を掴んでいても、留まっていることが難しかったらしい。

 咄嗟に引き寄せるほどの強引さは持ち得ずに、文葉について流されることになった。扉の前の空間に放り出されたのはいいことか悪いことか。文葉は背中を車体に預けられているが、こっちは体幹だけに頼ることになってしまった。

 大丈夫と強がれれば、格好もつくのだろう。だが、万年読書ばかりの少年にそんな筋力の持続性があるはずもなかった。

 たったの一駅と言っても、揺れるしカーブも多い。振り回されている俺のシャツを文葉が引く。驚いて見下ろすと、苦笑している顔と鉢合わせた。距離は近い。だから、よそを向いていたのに。


「手、車体につきなよ」

「君なぁ」

「そういう展開に知識のある人間に何の躊躇がいるわけ?」

「話すのと実際にするのとではわけが違う」

「あとちょっとのことだし、あたしは誤解もしないし、気楽でしょ?」

「はぁ……緊張はするんだけどな」


 言いながらも、許可を得られたのならば辞退する理由もない。

 それでも、とんと手をつくと苦さが湧き上がる。パーソナルスペースを著しく侵していた。文葉がそれをどの程度に指定しているのかは知らないが、この距離で不具合がないというのは楽観視に過ぎる。

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