書を読む間の仲③
スマホが鳴ったのは深夜のことだ。こんな時間にメッセージが来ることなんて、ほとんどない。
たまに、宿題が終わらない! と千賀浦が泣き言を喚いてくるが、今日は切羽詰まるような宿題もなかった。読書を邪魔されたかすかな不快を孕んで、本を閉じてスマホを手に取る。
通知と一緒に確認できる内容に、苦笑いが零れた。同時に、不快は空気に溶ける。邪魔された感覚が絶無になるわけではない。だが、メッセージの中身は自身にも覚えのある感情だ。それを疎ましく思いはしない。
『章人くんのオススメしてきたミステリーが面白過ぎて今夜は徹夜になりそうなんだけど!』
と、怒った猫のスタンプが続く。こちらに責任をなすりつけられるのは心外だが、気持ちは分かった。
『ほどほどに』
不平めいた報告にどんなメッセを返せば正解なのか。迷わなかったと言えば嘘になる。こんなふうに距離を縮めたものがいない。手探りばかりだ。
それは穂架さんとはまた別のベクトルのもので、それを稼働させたのは恐らく初めてだった。千賀浦とも流れだったが、木元とは違う。
明確な差は、同志であること。そして、無意識的ではあるが、異性であること。性差に拘泥するのは愚かしい。そんな測り方は、同志として歓喜してくれる木元に失礼だろう。俺だって、不必要な点を切除した思考を結びたい。
けれど、残念ながら、俺はそこまで器用ではなかった。どうしたって、異性のクラスメイトへの対応、という試行錯誤を消すことはできない。
結果として、ぶっきらぼうなところに着地する。結局、俺は穂架さんでないにしても、どこかで見栄を張らずにはいられないらしい。苦味を噛み締めながら、自分の中で苦心して返したメッセには
『章人くんもほどほどに寝ないとダメだよ』
と気遣いが返ってきた。
これが陽キャとの差か。根明の差かもしれない。続いて眠った猫のスタンプも送られてくる。
なるほど。スタンプとはこうして使うものか、と体得した。分かっていなかったわけじゃない。だが、千賀浦とのやり取りにこんな微笑ましいものはなかった。
『気をつけるよ』
それにはグッドのスタンプだけが返ってくる。こちらも、元より入っているスタンプを送り返しておいた。
やはり手探りだったが、それから木元から散発的にメッセが来るようになっている。会話がぷつんと途切れることもあったが、相手も読書に没入していると分かっていれば、気が楽だった。
そうして、プライベートを割く時間が増えていく。増えてはいくが、密度が増したかと言われると、一定のラインは越えない。意図したわけでもなく、そうした付き合いの幅を同じように持っているようだった。
それは心地が良い。時間を割いているという重荷でもなかった。本談義が弾むからか。読書と引き剥がされる不信がないというのはでかい。お互いの優先順位が分かっているからこそ、俺たちの交流は続いていた。
図書館での時間も増えたはずだが負担はない。不思議な感覚だ。その半分は、木元が一人上手なこともあるだろう。
だから、俺の館内での過ごし方は変わっていなかった。穂架さんに意識を取られることも変わっていない。
木元は俺の動きに気を払わなかった。そりゃ、近くにいるのだから、一切合切払っていないということはないだろう。
木元はマイペースではあるが、他人を意識から除外しているわけではない。読書への集中力はある。だが、他を忘れ去って迷惑にならないようには心がけているようだ。
俺だって、自覚を持って浮上を意識の上澄みに置くことがあった。千賀浦なら、スルーしたって後でフォローのしようがある。しかし、館内では司書に声をかけられることもある。主に時間について。それに気がつかないわけにもいかない。
そういう気の払い方というのはある。木元もそれくらいは備えていそうだった。けれど、俺が司書の一人に見惚れていることに気がつくほどではない。
というよりは、常識的にそんな変質者めいたことをしているとは思わないだろう。俺だって、そんな疑いをかけられたくはない。行動を改めるべきだと反省している。それでも、目が惹きつけられるのは止められない。
穂架さんだって、目が合っても笑うだけで済ませてしまうものだから、俺はあっけなく反省を翻してしまうのだ。
……穂架さんのせいにするつもりは毛頭ない。そんなつもりはないのだけれど、環境要因はある。
緩く頭を振って、立ち上がった。じっとしているから問題がある。二つ隣の席でページを捲っている木元をよそに、本棚へと向かった。
こういうとき、鞄を置きっぱなしでも何の不安がないのは、木元と一緒になったことの分かりやすい利点だ。便利というのは無礼だろう。だが、木元もやっているのだから、イーブンのはずだ。
その恩恵に与って、本棚の隙間を縫う。穂架さんを意識しないと意識する不埒な思考も弛んだ。消滅することはない。自分や本に寄り添い過ぎている。それを剥ぎ取ることはできないし、受け止めていた。
本を戻して、次の本を探す。読み切れなければ借りて帰ればいいだけなので、分量は気にしない。脳内にメモしてある積ん読を探して周りながら、気になる背表紙を手に取ったりする。自由気ままだ。
一冊を抜き取ったところで、
「章人くんはそれ好きだと思うよ」
と声をかけられて、びくりと肩を揺らしてしまった。
他の誰でも驚いたが、穂架さんとなれば心臓も高く弾む。慣れているはずだ。そのくせ、いつも同じように躍る胸を押さえつけるのに苦労する。
「どういう話ですか?」
「和菓子を題材にした日常ミステリ」
「食べ物ミステリも増えましたよね。ファンタジーでも食べ物多かったりしますし」
「増えたというか、三大欲求のひとつだからね。色んなジャンルと掛け合わせられているよね。でも、最近の章人くんだともっと色恋のほうがいい?」
すらりともたらされた事柄に、心臓が止まった。
あまりにも、さりげない。穂架さんでなければ……木元に言われたのであれば、読書傾向として率直に受け取ることができただろう。
穂架さんだって、そうした意味だろうと理解していた。していたが、何か失態をしでかしたのではないか。気付かれるようなことを。または、何か誤解を与えるようなことを。急加速で脳みそが回るが、空振っている。
「最近、ラブコメっていうか、恋物語読んでるでしょ? 文庫をよく手にしてるし」
「穂架さん、よく見てますね」
「章人くん、常連だからね。目に入るし。気持ち悪かった?」
「そんなわけありませんよ」
それを言い出したら、俺のほうがよほど気持ちが悪い。感情込みであるのだから、穂架さんが利用者を視野に含むのとは意味が違う。
「そう? 最近、よく一緒にいる子のオススメかな~って思ってたんだよね。あの子も常連さんだから。返却のときに見えちゃうしね」
貸し出しは機械でセルフになっているが、返却は休日のポストを使わない限りカウンターへ差し出す形だ。
常連であれば、何となく傾向は読める。俺の近頃の傾向も、手続き時を参考にしたものだろう。俺のチラ見とは性質が違った。苦さが口内に広がる。それを飲み下したところで、ようやく事態の緊急性に気がついた。
最近、一緒にいる子。
恋物語。
ただの読書傾向で処分されているだろうか。馬鹿みたいな発想だと排している。一方で、不安がむくむくと膨れ上がった。
「オススメしてもらってるだけですよ。俺は元々、乱読派ですから」
「知ってるよ。章人くんは、時期で読んでいるジャンルががらっと変わったりするしね。ラノベ期間かと思ったら、急に本格ミステリを読んでるときもあるし。遊歩っていうのがよく似合うよね」
それは、奇しくも木元と話していた黒猫と呼ばれる教授が謎を解き明かすミステリのタイトルに含まれた言葉だ。そこから流用された確証はない。それでも、友好的な評価ではある。
「それで、今は彼女のオススメってわけね」
この彼女が人称なのか。名詞なのか。俺にはそれだけが肝要だが、決めかかって否定などできようはずもない。
端からその意味であれば必要かもしれないが、穂架さんにそんな内意がなければ墓穴だ。その穴の中には何の物体も実態もないというのに。可能性を与えてしまうという落ち度になりえる。
他の誰かに噂されるくらい、閉口こそすれダメージはない。だが、穂架さんとなれば、話は別だ。
「まぁ」
「読書仲間と一緒にいるなんて初めてじゃない?」
ああ、穴を掘らなくて良かった。
取り返しのつかない可能性の芽を摘めたことに安堵する。読書仲間という呼び名は、俺たちの関係を示すにこれ以上なく符合していた。
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