十年と数週間③

 学校から図書館までは徒歩で十五分ほどだ。そこから駅まで五分。学校から駅までが十五分なので、図書館への寄り道は若干の遠回りにはなる。

 だが、たったの数分であるし、図書館に通うのは俺の日課で死活問題だ。極端に学力が不相応でもないことを理由に、図書館近くの高校を選んだほどに。

 そうでなくても通っただろうが、物理的な距離を歪められるわけではない。近場の高校を見つけられたのは僥倖だった。その恩恵を存分に与って、俺は今日も図書館に向かっている。

 いつも何かを読むわけでもない。物色で終わる日もある。言い方がストーカーじみているが、穂架さんを見ているうちに時間が過ぎていることもあった。これについては、数度にわたる反省と悔恨の結果、いくらかマシになったのだ。

 幼いころは、単なる憧憬だった。いや、もはやそんな言葉すらない。構ってくれるお姉ちゃんに懐いていただけだ。

 自分が好むものについて物知りな年上の女性。無垢な懐きでしかなかった。その感情が恋心だと気がついたのはいつだっただろうか。自分でも判然とはしない。

 本が好きだと掘り下げたとき、そのそばには必ず穂架さんがいる。ひとつになり過ぎていたそれに気がつくには、時間がかかった。

 けれど、館内で自分よりも年上の――穂架さんの同年代の男性と気兼ねなく会話する姿を見たとき、胸に巻き起こった独占欲は疑いようがない。

 まだ幼ければ、お気に入りのおもちゃを奪われたような。甘やかしてくれる存在を失ったような。成長するにつれ、独占欲と呼ぶにも満たない馬鹿らしい我が儘であったと切り離せたのかもしれない。

 しかし、そのころの俺はもう小学生の高学年で、そばに恋の話が点在していた。幼いままの未熟な独占欲と呼ぶには、俺は分別のつく自立心を育み始めた頃合いだったのだ。

 そうした環境にあれば、穂架さんに抱いている感情を認識できる。そうして自覚してからは、しばらくじたばたしていた。

 穂架さんは気さくに話しかけてくれたし、俺を異性と思ってもいなかった。距離が近いし、本を手渡す際に触れ合うことも意に介していない。実際、そんな触れ合いなど些細なことだ。今にしてみれば、自意識過剰過ぎて気恥ずかしい。

 だが、そうしてじたばたすることで、俺は自覚を強めた。そのうちに気持ちが落ち着いてからは、焦燥感が滲んだ。

 今まで、屈託なく使ってきたお姉さん。その呼び名に含まれた年齢差が、確然と横たわっている。

 物語の好悪は似通っているだろう。だが、価値観は違った。正式に確かめたことはない。けれど、今ようやく一介の高校生。それより以下であった俺と、出会ったころは大学生であったが社会人になっていた穂架さん。その差は確実にある。それを認識できる年齢になったからこそ、懊悩は消えなかった。

 自覚してから今日まで、その差を埋めようと悪戦苦闘しているのは変わらない。じたばたしているのも変わらないのかもしれない。その気忙しさが、大人になれない証左のようでまた泥沼に嵌まる。感情を飼い慣らすのは難しい。それを飲み込みながら、俺は図書館へ通うことを続けていた。

 これは、本への愛情が主軸だ。だが、穂架さんに会いに来ていることも否定できない。

 分離して、感情を探ったことがある。けれど、その二つはあまりにも密接していた。歳を重ねるほどに、きっぱりと割り切れるものではないと分かってくる。絡まり合って、どうにもならない。

 この日参に、苦々しさがないわけではなかった。けれど、やめられるわけもない。そもそも、やめようなんて考えたこともないが。

 館内は楽園だ。

 俺は気の向くままに回遊する。視界に入る穂架さんの姿も、自然なことだ。意図していなくても、長時間滞在していれば視界には入る。それを横目にしながら、歩き慣れた館内を見ていた。

 書架の配置も覚えているし、並んだ本の順番すらも薄らと記憶している。それでも、見落としている本というのは数え切れないほどにあるものだ。

 時々で、目に留まるものがあれば、排除されているものもある。俺は風任せに、いくつかの本を手に取る。

 通いつめているからこそできる、気ままなやり方だろう。時間のある高校生だからこそ、というのもあるかもしれない。

 学業がある。けれど、絶対的な業務と比べれば、重さは比較にならない。

 そりゃ、勉強の手を抜いていいってわけじゃないだろう。だが、それは自分にしか返らない。個人の責任。自業自得の範疇だ。仕事となれば、そうはいかない。その責任感を思えば、精神面を含め気ままな時間を過ごせるのは高校生の特権のように思える。

 すべての高校生がそうあるとは思わないが、俺に懸念事項はない。その分の時間を、こうして読書に捧げられている。

 一冊、二冊、と手に取って本棚を移動したところで、視界に飛び込んできた相手に足が止まった。穂架さんならば、躊躇などしなかっただろう。

 豊かな栗色の髪。木元さんはそこにしんと佇んでいた。

 本棚を凝視している。静けさは、教室にいるときとは違うものだ。それは今日に限った話ではない。

 図書館ですれ違うたびに、木元さんはこうした静々とした雰囲気を漂わせていた。ギャップを感じるのは、俺の偏見でしかない。それでも、違和感は消せないし、目は向く。

 近づくのに尻込みするのは、その雰囲気を壊してしまいそうだからだ。そして、相手が他ならぬ木元さんだからだった。赤の他人なら、気後れなどしない。

 挨拶でも業務連絡でも口を利いたことがないクラスメイト。だが、認識はしている。その気後れに、俺は不体裁に立ち止まって木元さんを見つめることになってしまっていた。無意識の停止に不審の思考も何もない。

 本棚を眺めていた木元さんの視線が、高い位置を見上げる。木元さんは際立って背が低くはない。だが、壁際の本棚は背が高かった。その上のほうを見上げている。

 それから、踵が浮いて手が伸びた。制服のプリーツスカートを短く着こなしている太腿が危うい。思わず、周囲を見回してしまう。誰もいないことに、胸をなで下ろした。

 盛況しているとは言い難い館内であっても、気は回す。嘆かわしいことだが、図書館や本屋でも痴漢はあるのだ。

 本に夢中になって、木元さんのように不用意な動きをしていることに気がつかない。そこにつけ込む悪漢はいる。カメラの入った鞄を床に置いて、スカートの中を狙うなどの手口もあるほどだ。

 なので、不意に無防備な子を見ると、心拍数が跳ね上がった。第一に卑劣な思考が浮かぶのは倦厭するが、穂架さんたち図書館員が煩わされているのを知っている。

 そんな心配をよそに、木元さんは本との格闘を繰り広げていた。規則正しく並んだ本には、上手く指の引っ掛かる隙間がないらしい。背表紙の上には手が届かないようで、指を滑らせていた。

 不安ではあったが、これを見続けている俺のほうがよっぽど痴漢なのではないか。その疑念が湧いて移動しようとしたところで、逆側からやってくる人の姿を視認した。

 男性だ。たったそれだけで何かをするなんて非道でしかない。木元さんだって破廉恥な行動を取っているわけでもない。このバッティングに俺が緩衝材になる理由などないだろう。

 だが、一方はクラスメイトだ。それを無視することは難しく、俺は怪しい動きになりつつある木元さんの後ろに立って本に触れた。木元さんが上を見上げたまま、ぎょっと目を見開く。

 まずい。

 咄嗟のことに、臍を噛んだ。手を貸すにしたって、もう少し穏便なやり方があった。動いてしまったら、下手に引き下がれない。そちらのほうが、不審人物だ。


「これで合ってる?」

「あ、うん」


 驚きを隠さないまま頷いた木元さんが、くるんとこちらへ振り返る。俺はすぐに本を引き抜いて、数歩後退した。

 見下ろす木元さんは、小さく見える。穂架さんよりも数センチ。けれど、この場合、成長期に竹のように伸びた俺が高い。一八〇を越えた大男と本棚に挟まれる心地はいかようか。考えただけで、申し訳なくなった。

 木元さんはぱちくりと長い睫毛を瞬かせている。自前だろうか。詮無きことを考えるのは、常軌を逸した自分の心を静めるためだったかもしれない。木元さんからは、驚き以外の感情を気取ることはできなかった。

 だからって、安心できるわけでもないが、怯えられたりしなかったことは不幸中の幸いだっただろう。


「えっと、ありがとう。椿くん……だよね?」


 一切の交流がない。入学から二週間。さほど名前を認識するようなイベントもなかった。名前を覚えられていなくても、不自然ではない。それを自然に繰り出されて、驚くのはこっちの番だった。


「あ、うん。急に驚かせてごめんね、木元さん」


 意味はない。それでも、呼ばれたことに応えるように名を呼んだ。実際に口にしたのは初めてで、口慣れないものを弄んだような気持ちになった。


「ううん。あたしは助かったから。取ってくれてありがとう。椿くん、背が高くていいね」

「木元さんだって低くはないでしょ? 無理せずに、踏み台を使ったりしたほうがいいよ。危ないし」

「そうなんだけどね……あの踏み台ってなんか館内を持ち歩くの遠慮しちゃわない?」

「まぁ、分からんでもないかな」


 中三になるまでは、本棚の高さに苦労していたこともある。理由もなく避けたい木元さんの気持ちも分かった。

 だから、頷くけれど


「でも、気をつけたほうがいいと思う」


 と口は動いていた。

 木元さんに念押しの見当はつかないようで、きょとんと小首を傾げる。髪の毛が揺れて、ほのかに差し込む日射しに煌めいていた。


「そんなに危なっかしかった? 本とか傷付けちゃったかな?」


 話ながら思いついたように、俺が手にしていた本へ視線を移す。俺はそれを木元さんに渡した。


「そんなことはないけど……スカート、気をつけて」


 直截に伝えるのは憚るべきだったのだろう。けれど、まごついても気色が悪い。木元さんは、受け取った本でスカートの裾を隠した。


「みえてた?」


 恥ずかしそうに見上げてくる上目は揺らいでいる。木元さんは可愛い。潑剌とした印象が強いものだから、か細い態度を取られると可愛らしさに拍車にかかる。

 仮に見えていたとして、それを聞かれて頷けるやつがいるのか。そして、否定したところで疑惑は消えないのではないのか。


「大丈夫」

「……」


 案の定、木元さんは今までのように相槌を返してはこなかった。測るような沈黙が流れる。

 否定を重ねるべきか。それもまた怪しいか。探られて痛い腹もないのに、要らぬ思考に絡め取られて無言になってしまった。伸びた沈黙を破ったのは、木元さんの咳払いだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る