エピローグ
エピローグ「なんでいるんだよ」
ピッ……ピッ……ピッ……ピッ……。
うるさい。この音が脳の中でずっと響いている。話し声もする。ああうるさい。せっかく綺麗に終わったのに、もうなんだってんだ。
声は出るだろうか? 声を出せば、この音は止まるだろうか? 誰かが鳴らしているなら、その可能性はある。
声を出すことに決めて、特に言いたいこともなかったので「あー」と言った。喉を久しく使っていなかったからか、それは綺麗な音にならない。上擦った高音に息が混じっているような、そんな音。
それを聞いて、話し声がやんだ。ピッ、ピッ、ピッというあの音はまだ収まらない。誰かが駆け寄ってくる足音がする。そうだこの人に止めてもらおう。この人は何者か、この目で確かめよう。
目を開ける。
「……マ……マ?」
声は自然に溢れた。口には何かが取り付けられていて、吐いた息が口の周りを温めた。目の前にはママが立っていた。というより、私の顔を覗き込んでいた。異常なのはその表情だった。驚いて目は点になっていて、それでもこちらをしっかりと見つめていて、その目尻にどんどんと涙が溜まり、こぼれ落ちる。その間、全く瞬きをしない。まるで、片時も目を離したくない何かが目の前にあるかのように。
「みぞれ……みぞれ……!」
私がぼんやりしていると、突然私の名前を呼びながら肩を揺すってきた。あー、この感じ、ちょっと懐かしいかも。ママはよく私の肩をゆするのだ。それが無事かどうかの確認の手段らしい。
「お母さん! お母さん! 離れてください!」
目を向けると、知らない白衣の男が私とママとを引き離そうとしている。そして、その後ろから十何人という男女の援軍がやってきて、私が驚いている間にママは引き離されてしまった。
そして、自らを主治医だと称する医者が計器を確認し、それを終えた後いくつかの状況説明を行った。それによると、私は新型コロナウイルスと肺炎の合併症を発症してICUに運ばれ、半年にわたって意識不明のままでいたらしい。「にわかには信じ難いことだと思いますが、事実そういう状況にあったんです」。これが主治医の言葉。その後もいくつかの問診をされ、主治医は私の健康っぷりに驚き、こんな例は初めてだからとりあえずしばらく入院して何事もなかったら徐々に退院、という方針を打ち出した。
つまり、これは私が向こうの世界に長期滞在していたため帳尻を合わせるために世界が施した病なのだ。私が向こうの世界に長居しているので、臨死体験をさせ続けるためにコロナが発症し、意識不明に陥った。
そんな理解を入院の期間中にゆっくりと進めつつ、当たり前のように順調な経過でコロナは完治し、結局一ヶ月ほどの追加入院のあと退院する運びとなった。
しかし、私は気まずかった。家に帰れば、またママと二人だ。ママは結構感情が豊かな方で、よく泣いたりするしちょっとしたことでショックを受けたり悲しんだりする。怒ることはないのだが、それが却って苦手だった。起こってくれれば直せることも、怒られなければ続けてしまう。その結果、待っているのは「私のことが嫌いなの」という問答。私の察しも悪いのだろうけど、こればかりは好きになれない。
今日が退院の日。特に仲良くなることはなかむたお医者さんに軽くお辞儀すると、隣ではママが泣いている。私はこれ以上迷惑をかけるのが嫌で、「ママ、行くよ」と泣いているママの手をとって病室を出た。
大学病院だから、当然人がいっぱいいる。特に会計は混み合っている。そんな中、声をあげて泣いている女とそれを引っ張る少女に視線が注がれるのは当然のことなのだろうが、すごく嫌だった。
「ママ、お会計」
「うん……うん……」
しばらくしてママは持ち直し、自動精算の会計ではなく友人の受け付けの方に行った。私も後ろについて行った。
会計が終わる。
「それでは、これで……」
信じられない額が告げられた。時が止まる。思わず、一歩進んでママの横顔を覗いた。ママは平然と「はい」と返答し、会計を済ませた。
「あんなに……かかるんだ」
未だ衝撃が抜けきらないまま、病院の外でそう呟く。
「申請すればいくらかは戻ってくるみたいだから」
「そういう……レベルじゃなかったよ」
浅はかだった。私は意識を取り戻して一ヶ月のリハビリと入院をしている間、常に何をする気にもなれず、ママの負担なんて考えていなかった。毎日のように会いにくるママを鬱陶しいとすら思っていたし、実際に冷たい態度をとったけど、ママはやってきた。お金の話なんて、おくびにも出さずに。
私は安い女だと思う。ママがその代金を支払ってからというもの、考えは変わり始めた。ママは会計を終えた後、「帰ろう」と私の手を引いた。こんな風に、ママに先導されて帰るのは何年ぶりだろう。ママは感情豊かな人だ。けれど、今はただ穏やかに、私の手を引いている。そんなママの姿を見るのもずいぶん久しぶりだった。
私たちは家に帰ってきた。手を洗い、うがいをして、なんだか落ち着かずもう一度手を洗う。その理由は、奥のこたつにママが入っていたからだった。きっと、何か言われるだろう。多分、「良かったね」みたいな。だけど、私はひねくれているから、それを素直には受け止められない。そうしたら、またママを悲しませてしまう。悲しんでいるママを見ると、私はママのことを嫌いになってしまう。
蛇口を捻り、タオルで手を拭う。病院はコロナの影響なのか基本的に全て使い捨てのペーパータオルで、ざらざらではなくごわごわしたタオルの感触に、「ああ帰ってきたんだ」という実感が湧いた。
同時に、岬や驚異と過ごした日々が無くなってしまった気がして、胸がスカスカになって、目から涙が溢れてきて、立っていられなくなった。嗚咽を漏らしながらしゃがみ込む。その異常事態を察知して、ママが駆け足にやってくる。
「みぞれちゃん! 大丈夫、怪我してない?」
そう聞かれても、私は涙するだけだった。だって、話したってわかってもらえないから。
ママはそれ以上の質問をせず、背中を撫でてくれた。それが、私にはなんだか意外に思えた。以前のママはなんというかもっとヒステリックで、私に何かあれば駆けつけて徹底的に理由を探るような人だったから。それか、「ごめんなさい」と責任を放棄したように謝るだけの人だったから。どんな心境の変化があったのだろう、ととめどなく溢れる涙を拭いながら考える。
「ママね、前はずいぶん都合が良かったと思うの」
ママがそう話し始めた。
「どうしてパパがみぞれちゃんを連れて行っちゃった時にすぐ取り返しに行かなかったのか、全然話さなかったでしょう? 質問されても、謝るだけで……。それなのに、娘思いだと思われたくてみぞれちゃんに何かあったらすぐそれに首を突っ込んだ」
その言葉を聞いて、私は心底驚いた。それはきっと、彼女が墓に入るまで変わらない、一生言及されない事だと思っていたから。
「ママね、何を言っても言い訳になると思って、パパとみぞれちゃんのことは謝ることしかしてこなかった。だけど、考えたの。みぞれちゃんがオーバードーズをして病院に運ばれた時、どうしてだったんだろう、って。そこで、ようやく気が付いた。みぞれちゃんが聞きたかったのは、謝罪じゃなくて理由だったんだよね」
そう言って、ママは背中を撫で続ける。涙も枯れて、私はただしゃがんで丸くなっているだけになっているが、動こうとは思わなかった。
ずっと望んでいた言葉が、聞けるかもしれない。
「怖かったの。これは言い訳。娘を危険な状態に晒しておく理由になんて、絶対ならない。ママは、一生をかけてみぞれちゃんに償わなきゃいけないと思ってる。だけど、若い頃の私にとって、パパの暴力は度を超えた恐怖だった」
「そう……」
自分の中で急速に何かが冷めていくのを感じた。怖かったら、娘を何年も放っておいて良いんだ。私、そんな母親にはなりたくないな。なれるとも思わないけど。
「それから、パパは毎年、ママの実家に脅迫状を送ってきた。『みぞれに危害を加えられたくなかったら関与するな、警察にも相談するな』って……。怖かった。愛する娘を失うのが、一番怖かった」
「え……?」
思わず、目を見開く。
「だから、結局パパが死ぬまでママはみぞれちゃんに会いに行けなかった。本当に……本当に……ごめんなさい」
今度は、ママが涙を流す番だった。さすっていた背中に体重を預け、声を殺して泣いている。
「ママ。もういいよ」
立ち上がってそう言うと、ママが顔を上げた。
「もう、謝罪はいらない」
鏡に映るママの顔が急速に虚になっていく。
「ママ、私学校行くよ。でも、私だけの力じゃすぐ行けなくなると思う。だから、ママも頑張って。私に力を貸して」
この鏡は、あの時お父さんが割った鏡と同じだ。都合の良いことでも、悪いことでも、真実を写す。お父さんはきっと、そこに映った自分が気に入らなかったからそれを割ったのだろう。
「それから、心配かけてごめん。何度も自殺未遂して……ごめん。今なら、謝ることしかできないっていう状況もわかる。それを責めてごめん。いつか、いつか本当にママと一蓮托生の関係になれたら言う」
私の、妹のこと。
私は、ゆっくりと右手を上げ、右目にかかるようピースした。
「ママにとっては、特別な愛娘なんでしょ」
きっと、すぐにママのことを完全に信頼することはできない。本音をずっと隠して、何も言わずに不登校を続けてきた。それは、少しでもママの気を引きたかったから。普通の優等生より不登校の方が幾分特別な気がしたから。特別でないと愛してもらえない気がしていたから。
でも、私は普通の人間だ。それでいい。それでも大切な人の特別になれるのだから。
「私、塩沢みぞれっ! ママの愛娘っ!」
だから、今日も大見得を切る。
「みぞれちゃん、合格おめでとう!」
「恥ずいって……誰でも入れる通信制だよ? ケーキなんて別に……しかも、高校留年してるし」
「内定おめでとう!」
「これはちゃんと『おめでとう』だ。まぁ、求人いっぱいある業種だけどさ」
「お母さん、あのね」
「どうしたの?」
「変な話をするけど、いい?」
「ええ」
「私、妹に会ったんだ」
今日は出社一日目。窓口で最早意味のなくなった学生証を出すなんてポカをしながらも、昨日なんとか通勤定期を買い、今日初めてオフィスビルに行く。介護職というといきなり現場なのかな、というイメージがあったが、まずは初任者研修というのが先らしかった。
電車を乗り換え、浅草にある本社ビルを目指す。私は都営大江戸線なので、蔵前駅というところで浅草線に乗り換えて、一駅で浅草駅だ。
出社は朝9時。まだまだ余裕がある。そう思っていたが、蔵前駅の乗り換えは非常に複雑で、私は道に迷い、スマホをチラチラと見ながら青になったのを確認して交差点の道路を走った。
「あっ」という誰かの声が聞こえたかと思うと、私の体は宙を舞っていた。衝撃音が骨に響き、視界が真っ暗になる。
これ、覚えてる。死ぬ時のやつ。あー、せっかく就職して、お母さんとも打ち解けたのに、ここで終わりか。
せめて、死後の世界くらいは楽しいところであれよ、と私は目を開いた。
思わず、ふっと笑ってしまった。
「なんでいるんだよ」
「……そっちこそ」
そこは、教会。割れていたタイルや穴の空いていた天井は綺麗に直され、ずいぶん変わっていたが、確かにそれはあの日、愛を誓い合った教会だった。
そして、愛を誓い合った相手が目の前で箒でタイルを掃いていた。あの日よりずいぶん大人びて、美人さんになった岬がそこにいた。
「なんていうか……なんていうんだろう、その……おかえり?」
「ふふっ」
「なんで笑うの」
「だって、いつか帰るし。『死後の世界どんなもんや』って思ったら普通に臨死してるだけっぽいし」
「でも、おかえりはおかえりでしょ?」
「あははっ」
「なんでー!」
「いや、なんかすっかり妹っぽくなったなと思ってさ……あはは」
「でも、会えて嬉しいのは一緒でしょ?」
私は何かつまらない言葉を口にしようとして、辞めた。
その代わり右手を上げて、胸の前で寝かせた。そして、上下左右に手のひらを波打たせたのだった。
花冠は草原のすみ やみくも @Yamikumo1223
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます