第2話 過去の影


青山公園は初夏の日差しに包まれていた。美智子は指定された南側のベンチに座り、周囲を警戒するように見回した。昨夜からの緊張で、彼女は十分な睡眠を取れなかった。それでも、好奇心と不安が入り混じった高揚感が、疲れを忘れさせていた。


公園には散歩するお年寄りや、ランチタイムを楽しむビジネスマンの姿が見える。しかし、彼女を待ち構えているという「K」の姿はまだ見当たらない。美智子は時計を確認した——正午ちょうど。


「やはり来るべきではなかったかしら」


独り言を呟いた瞬間、背後から声がかけられた。


「美智子さん」


振り返ると、六十代後半と思われる男性が立っていた。整った顔立ちに白髪交じりの短髪、深いシワが刻まれた瞳には知的な光が宿っている。背筋をまっすぐ伸ばした立ち姿には、年齢を感じさせない凛とした雰囲気があった。


「あなたが...」


「健太郎です。懐かしいですね」


男性——健太郎は微笑み、美智子の隣に腰を下ろした。その名前に、美智子はどこか既視感を覚えたが、確かな記憶としては浮かんでこない。


「すみません、あなたのことを覚えていないの」


健太郎は悲しげに微笑んだ。


「ええ、わかっています。そうなるように仕組まれていたんですから」


美智子は困惑の表情を浮かべた。


「何が言いたいの?昨日の写真もあなたが送ったの?」


健太郎は周囲を警戒するように見回し、声を潜めた。


「ここでの会話は危険です。監視されている可能性があります」


彼はポケットからスマートフォンを取り出し、何かのアプリを起動させた。


「これは電波妨害アプリです。短時間ですが、会話を守れます」


美智子は眉を寄せた。彼女はITの専門家として、そのようなアプリが一般に流通していないことを知っていた。


「あなた、ただの一般人じゃないわね」


健太郎は小さく笑った。


「鋭いですね。以前と変わっていない」


彼は写真を取り出した。昨日美智子が受け取ったものと同じ、海辺での一枚だ。


「三十年前、私たちは恋人同士でした」


美智子は息を呑んだ。


「それは...」


「信じられないでしょう。でも、この写真はその証拠です。江ノ島での休日、あなたが三十五歳、私が三十八歳の時です」


美智子は写真を改めて見つめた。確かにそこには若い頃の自分がいる。しかし、健太郎との思い出は一切思い出せない。


「なぜ私はあなたのことを覚えていないの?」


健太郎は深く息を吐いた。


「美智子さんの記憶は改変されています。私たちは三十年前、ある極秘プロジェクトに関わっていました」


「極秘プロジェクト?」


「はい。当時、私は防衛省関連の研究機関に所属していました。あなたはシステムエンジニアとして、そのプロジェクトに関わっていました」


美智子は頭を抱えた。断片的な映像が脳裏をよぎる。白い実験室。緊張した面持ちの研究者たち。そして、大きなコンピュータ端末。


「でも、私が覚えているのは、過労で倒れて、記憶障害になったということだけよ」


「それは作られた記憶です」健太郎は真剣な表情で続けた。「プロジェクトで事故が起きました。その後、関係者の記憶は操作され、プロジェクトの存在自体が抹消されたのです」


美智子は信じがたい話に、言葉を失った。彼女の専門は記憶補助システムだ。皮肉にも、自分自身の記憶が操作されていたとは。


「どうして今になって私に接触してきたの?」


健太郎は周囲を再び確認してから答えた。


「あなたが開発した『メモリーリンク』が、かつてのプロジェクトの技術に近づきすぎたからです。彼らはあなたを監視しています」


「彼らって誰?」


「政府の影の組織です。プロジェクトを隠蔽した人々です」


ベンチに座りながら、美智子は昨日からの不可解な出来事を思い返した。アプリに現れた謎のメッセージ。監視カメラの映像の欠損。


「あなたの言うことが本当なら、私は今、危険な状況にいるってこと?」


健太郎は重々しく頷いた。


「その通りです。あなたの記憶が戻れば、彼らにとって脅威になります。だから私は警告しに来ました」


「でも、なぜ今あなたの記憶はあるの?あなたも記憶を操作されたんじゃないの?」


健太郎は苦笑した。


「私は...プロジェクトの責任者でした。だから、すべてを覚えています」


美智子の胸に怒りが込み上げた。


「つまり、あなたは私の記憶を奪った側の人間なの?」


「違います」健太郎は強く否定した。「私はプロジェクトの暴走を止めようとしました。でも力及ばず...」


彼の言葉は途中で切れた。スマートフォンが小さく震えたのだ。


「時間がありません。彼らが近づいています」


健太郎は素早く立ち上がり、美智子の手にUSBメモリを握らせた。


「これに証拠があります。あなたのアパートには戻らないで。彼らは既に監視しています」


美智子は混乱しながらも、USBメモリをしっかりと握った。


「どこに行けばいいの?」


「かつて私たちが秘密の場所として使っていた場所があります。あなたの記憶の中にそのヒントがあります」


健太郎は美智子の肩をそっと握った。その瞬間、鮮明なフラッシュバックが彼女を襲った。


_降り注ぐ雨。古い洋館。健太郎と手を繋ぐ自分。「ここは私たちだけの場所だ」と囁く彼の声。_


「江ノ島の...洋館?」


美智子が呟くと、健太郎の目が大きく見開かれた。


「記憶が戻り始めている」彼は驚きを隠せない様子で言った。「そうです、江ノ島の旧村井邸です。明日、そこであなたを待ちます」


彼はポケットから一枚の名刺を取り出し、美智子に渡した。表面には「鈴木健太郎 アンティーク時計修理工房」と記されている。


「必要な時は、この番号に電話してください。でも、スマートフォンではなく、公衆電話を使ってください」


健太郎は急ぎ足で立ち去ろうとした。美智子は思わず彼の袖を掴んだ。


「待って!私たちは...本当に恋人同士だったの?」


健太郎は一瞬立ち止まり、優しい表情で美智子を見つめた。


「あなたは私の人生で最も大切な人でした。今も、そうです」


そう言って、彼は人混みの中に消えていった。


***


帰り道、美智子は頭の中が混乱していた。彼女はタクシーに乗り、普段行かない場所——昔の友人が住む世田谷のマンションへと向かった。友人は海外出張中で、緊急時に使えるよう鍵を預かっていたのだ。


アパートに戻れない。そう言われれば、確かに昨日からの不可解な出来事が説明できる。誰かが彼女を監視していたのだ。


マンションに着くと、美智子は慎重に周囲を確認してから中に入った。友人の部屋に入り、ドアをロックすると、ようやく深い息を吐いた。


「どうすればいいの...」


彼女はUSBメモリを取り出し、見つめた。健太郎の言うことが本当なら、これには彼女の記憶が操作された証拠があるはずだ。しかし、見知らぬパソコンで開くのは危険かもしれない。


友人の部屋を探し、古いラップトップを見つけた。インターネットには接続せず、オフラインで起動させる。何かウイルスが仕込まれていたとしても、ネットワークを通じて外部に情報が漏れる心配はない。


USBを接続し、中身を開くと、一つのフォルダがあった。「プロジェクトM」と名付けられている。


フォルダを開くと、複数のファイルが表示された。実験記録、参加者リスト、そして「記憶操作プロトコル」と題された文書。美智子は震える手でファイルを開いた。


そこには信じがたい記録が残されていた。「選択的記憶抑制技術」と呼ばれる方法で、特定の記憶だけを抑制する技術の記録だ。そして、被験者リストに「佐藤美智子」の名前があった。


「本当だったのね...」


美智子は画面から目を離せなかった。文書によれば、プロジェクトMは防衛省の極秘事業として三十年前に始まり、記憶操作技術の開発を目的としていた。その技術は「国家安全保障のため」と記されているが、詳細は記載されていない。


さらに驚くべきことに、プロジェクトの中心技術が、美智子が開発した「メモリーリンク」の基本原理と酷似していた。彼女は無意識のうちに、かつて関わった技術を再現していたのだ。


「これが私のアプリが狙われている理由」


美智子はUSBの中の写真フォルダを開いた。そこには彼女と健太郎の写真が何枚も保存されていた。研究施設での二人。休日を過ごす二人。どれも確かに若かりし日の自分だったが、記憶としては思い出せない。


最後のファイルは映像だった。再生すると、それは三十年前の実験室の映像で、若い美智子が被験者として椅子に座っている。そして、実験を指揮する人物として、若い健太郎の姿があった。


「これで十分だ。佐藤さんの記憶は完全に操作される」


映像の中の健太郎は冷静に指示を出していた。しかし、彼の目には悲しみが浮かんでいるようにも見えた。


映像が終わると、美智子は深い衝撃に包まれた。彼女の人生の一部が完全に書き換えられていたのだ。でも、なぜ健太郎は今になって現れたのか。彼の真の目的は何なのか。


「明日、江ノ島で会えば分かるかもしれない」


美智子はラップトップを閉じ、窓の外を見た。夕暮れの空が赤く染まっている。明日、江ノ島へ向かい、健太郎と再会する。そして、失われた記憶の真実を突き止める。


ふと、彼女はあることに気づいた。スマートフォンを取り出すと、「メモリーリンク」のアイコンが再び点滅していた。恐る恐るタップすると、新しいメッセージが表示された。


『記憶を取り戻せば、あなたは再び標的になる。それでも真実を知りたいですか?』


美智子は深く息を吸い、決意を固めた。彼女は返信を入力した。


『はい、知りたいです』


送信ボタンを押した瞬間、スマートフォンの画面が突然真っ暗になり、再起動した。恐る恐る確認すると、「メモリーリンク」のアイコンは消えていた。アプリが完全に削除されたのだ。


美智子は震える手でスマートフォンを置いた。何か大きな歯車が動き出したのを感じた。これから何が起こるのか分からないという恐怖と、三十年間の嘘から解放されるかもしれないという期待が入り混じる。


明日、すべての謎が解けるのか——それとも、さらなる危険が待ち受けているのか。


(第2話 終)

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