「忘却のラブゲーム 〜ネオシニアの恋と陰謀〜」

ソコニ

第1話 プロローグ


「さて、これで完成ね」


美智子は満足げに微笑み、キーボードから手を離した。モニターには数行のプログラムコードが整然と並んでいる。深夜0時を回ったデジタル時計の青い光が、六十五歳の彼女の表情を静かに照らしていた。


「ミチコさん、今夜も遅くまでお疲れ様です」


部屋の中に響いた女性の声に、美智子は小さく頷いた。壁の一角に設置された小型デバイスから放たれる声は、AIアシスタント「マリア」のものだ。美智子自身が開発した、シニア世代に特化したパーソナルアシスタントだった。


「ええ、やっとバグを修正できたわ。明日のアップデートは予定通り行けそうよ」


マリアの声は、美智子が好んで選んだ、優しさと知性を感じさせる中年女性のトーンだ。AIとはいえ、まるで長年の友人と話すような安心感があった。


「素晴らしいです。『メモリーリンク』のダウンロード数は先週から15%増加しています。特に60代以上のユーザーからの評価が高いようです」


美智子は目を細めた。彼女が三年前にリリースした「メモリーリンク」は、シニア世代のための記憶補助アプリだ。日々の出来事を記録し、過去の思い出と紐づけながら、記憶の整理を手伝う。認知症予防にも効果があるとして、医療機関からも注目されていた。


「ありがとう、マリア。今日はもう休むわ」


美智子はゆっくりと立ち上がり、窓辺に歩み寄った。東京の夜景が窓一面に広がっている。タワーマンションの二十階からの眺めは、いつ見ても美しかった。


「おやすみなさい、ミチコさん。明日は八時に起こしますね」


マリアの声が消えると、部屋に静寂が戻った。美智子は窓に映る自分の姿を見つめた。還暦を過ぎてなお、彼女の瞳には好奇心と情熱が宿っていた。白髪交じりの黒髪はショートカットにして、最小限のケアで済むようにしている。化粧っ気のない顔には、年齢相応のしわがあるが、それも含めて彼女自身だった。


スマホを手に取り、アプリの最終確認をする。画面には「メモリーリンク」の青いアイコンが表示される。指でタップすると、美しいインターフェースが広がった。


「素晴らしい出来栄えよ」


独り言を呟きながら、データベースをスクロールする。ユーザーの記憶を整理し、タグ付けされた思い出が時系列で表示される仕組みだ。アプリを閉じようとした瞬間、画面が一瞬だけ乱れた。


「……?」


美智子は眉をひそめた。再度確認するが、何も問題はない。疲れからの錯覚だろうか。彼女はスマホをナイトテーブルに置き、ベッドに横になった。


***


朝日が差し込む窓辺で、美智子は朝のコーヒーを楽しんでいた。定年後の生活は、彼女にとって第二の人生の始まりだった。四十年間勤めた電機メーカーでのSEの経験を生かし、シニア向けアプリ開発に情熱を注いだ結果、今や「シニアテック界のカリスマ」と呼ばれるまでになっていた。


「ミチコさん、本日のスケジュールをお知らせします」


マリアの声に、美智子は顔を上げた。


「午前十時に株式会社フューチャーシニアとのオンラインミーティング、午後二時にメモリーリンクのアップデート配信、そして午後四時に雑誌『シニアイノベーション』のインタビューが入っています」


「ありがとう、マリア」


美智子はスマホを確認した。「メモリーリンク」のアイコンが点滅している。タップすると、見覚えのない写真が表示された。海辺で笑顔の男女が並んで写っている写真だ。男性の顔は見えないが、女性は明らかに若い頃の自分だった。しかし、美智子にはこの写真の記憶がない。


「これは……?」


画面をスクロールすると、写真の下に小さなテキストが表示されていた。


『30年前、湘南にて。あなたは本当に忘れたのですか?』


美智子は息を呑んだ。自分のアプリなのに、見覚えのないデータがある。しかも、三十年前というと、彼女が三十五歳の頃。ちょうど記憶の空白がある時期だった。


「マリア、このデータはどこから来たの?」


「申し訳ありません、ミチコさん。該当するデータは見つかりません」


美智子は眉を寄せた。「メモリーリンク」は彼女自身が設計し、プログラムしたもの。外部からの侵入は不可能なはずだ。しかし、この写真とメッセージは確かにそこにある。


「システムチェックを実行して」


「はい、実行します」


数秒後、マリアが報告した。


「システムに異常はありません。すべての機能は正常です」


美智子は不安を感じながらも、スケジュールをこなすため準備を始めた。しかし、頭の中では疑問が渦巻いていた。三十年前、彼女には思い出せない数ヶ月間がある。医師からは過労によるストレス性の記憶障害と診断されていたが、それ以上の詳細は誰も教えてくれなかった。


***


午後のインタビューを終え、自宅に戻った美智子は、リビングのソファに深く身を沈めた。雑誌のインタビュアーは、彼女の成功の秘訣について熱心に質問していた。


「技術の進歩に対する好奇心を失わないことですね」


そう答えながらも、美智子の頭には朝の不可解な写真が引っかかっていた。


「マリア、メモリーリンクのバックアップデータを確認して」


「はい、確認します」


美智子はタブレットを手に取り、バックアップデータを自分でも確認した。すべてのデータは正常だが、問題の写真とメッセージは見当たらない。まるで幽霊のように現れては消えたようだ。


「ミチコさん、玄関のセンサーが反応しています」


マリアの突然の声に、美智子は我に返った。


「誰か来たの?予定は入ってないはずよ」


「カメラには映っていませんが、センサーは確かに反応しています」


美智子は身を固くした。一人暮らしの身として、セキュリティには常に気を配っていた。警戒しながら玄関へ向かう。


ドアを開けると、そこには誰もいなかった。しかし、ドアマットの上に小さな封筒が置かれていた。宛名はなく、ただ「M」とだけ記されている。


中に入って封筒を開けると、一枚の古い写真が入っていた。朝、アプリで見たのと同じ海辺の写真だ。裏には手書きのメッセージがあった。


『美智子さん、私はあなたの記憶の中にいます。すべてが操作されています。明日、青山公園の南側ベンチで待っています。—K』


美智子の手が震えた。誰がこんな写真を持っているのか。そして「K」とは誰なのか。


「マリア、玄関のカメラ映像を過去一時間分チェックして」


「はい、確認します」


美智子はソファに座り、写真を凝視した。若かりし日の自分と、顔の見えない男性。海の青さと空の広さが、まるで別世界のように感じられた。


「ミチコさん、申し訳ありませんが、十分前のカメラ映像に十秒ほどの欠損があります。その前後は誰も映っていません」


美智子は身震いした。カメラの映像が欠損するなんて、高度な技術がなければ不可能だ。


「マリア、セキュリティレベルを最高に上げて」


「はい、セキュリティレベルを引き上げました」


美智子は再び写真を見つめた。そして、不思議なことに心の奥底から懐かしさが込み上げてきた。これは確かに自分だ。しかし、なぜこの記憶がないのか。


その夜、美智子は眠れなかった。窓の外の東京の夜景を見つめながら、明日会う「K」という人物のことを考えていた。彼は自分の過去を知っているのか。そして、「すべてが操作されている」とはどういう意味なのか。


ベッドに横になりながら、美智子は決心した。明日、青山公園に行こう。そして、失われた記憶の断片を取り戻そう。


スマホの画面を見ると、「メモリーリンク」のアイコンが再び点滅していた。恐る恐るタップすると、今度は短いメッセージだけが表示された。


『気をつけて、美智子。記憶は時に危険をもたらす』


メッセージが消え、画面は通常の状態に戻った。美智子は深い不安に包まれながらも、失われた記憶への好奇心が強まるのを感じていた。


三十年前、何があったのか。そして、誰が自分の記憶を操作したのか。


答えは明日、青山公園で待っているはずだ。


(第1話 終)

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