鏡像に夢現をみて
冷える空気から逃れるように、布団を引っ張って縮こまる。心地の良い温もりを探して、隣に彼が居ないことに気が付いた。未だに明瞭としない視界に時計を収めると、時刻は既に十一時を回っていた。だから観念して布団から起き上がる。
リビングに入ると香ばしい小麦の匂いがした。本当は甘い米の匂いが理想だけど、これもやぶさかではない。
キッチンに立つ彼に後ろからぎゅっと抱き着いて背中に顔を埋める。フライパンから手を離して大きな手が私の頭を撫でてくれる。
「おはよう……もう、あと少しでご飯できるから待ってって」
一拍、思い切り息を吸い込んでから彼を腕から解放してやった。ひとまず、満足した。
ブランケットを握りしめて二度寝に至らない程度にソファで微睡んでいると、彼が目の前の机に朝ご飯を持ってきてくれる。
こんがりと焼けたパンと、ソーセージに目玉焼き。なんてことのない普通の朝食。一緒に出されたバターをパンに塗りつけて、そういえばジャムを切らしていたかなと思う。心地の良い音を立てながらパンにかぶりつけば、小麦の甘みとバターの塩味との相性は抜群だが、やはりたっぷりと甘いイチゴのジャムが恋しくなる。
「コーヒーも淹れるね」
「あーもらおうかな」
他のおかずに手を付けるために、彼が淹れるインスタントのコーヒーの芳香を隣に冷蔵庫の扉を開ける。
ケチャップがない。牛乳もない。
「ごめん、やっぱりお茶で大丈夫」
彼には申し訳ないが、私は牛乳無しでは到底コーヒーが飲めない。ないものは仕方ない。
仕方なくマスタードと醤油を手にして戻る。向かいに座った彼はコーヒーを啜りながら、トーストにかぶりついている。いつもの日常だ。あの日、荒み切った彼からは到底想像もつかない程、穏やかな午前の時間。
こうして彼が安寧に包まれていられるなら、私もそう在ってほしいと思う。
そんな彼を確かめてから、自分の目玉焼きを割る。とろりと零れる半熟の黄身に醤油を垂らして口に運ぶ。ふわふわのスクランブルエッグが恋しくなることもある。
次いでマスタードと合わせてソーセージを噛めば、いい音と共に口の中に肉汁が弾ける。マスタードの辛味は肉の脂と絶妙なのは分かるが、皮肉にもそれでケチャップの酸味のありがたみを再確認してしまう。
食べ終わった食器を洗って、彼に「先に用意するね」と洗面台に立つ。顔を洗って、髪を梳かして。鏡に映る私は当然だが姉にそっくりだった。
爽快感の足りないシトラスの甘い香りで歯を磨いている最中に彼が洗面器の鏡から覗いてきた。
「もうシャワー浴びた?」
「昨夜浴びたから大丈夫、入っていいよ」
彼のシャワーは朝、あるいは外出前。そう時間がかかるものじゃないからいいけれど、朝の忙しい時間に私は入る気になれない
私の姉が亡くなってから三年。無情なほどに時の流れは早く、今日はその命日だった。
秋の涼しい風の中で階段を進む。汗を滲ませる夏の陽の残滓を連れ去った後の心地よい日に姉は亡くなった。
道中で買ったカステラを添えて、二人で向き直ってから墓石に刻まれた私と違う姓の前で彼と並んで目を瞑る。
どうしてこうするのかなど考えることもないただ形式的な所作だとしても、故人を想いされどその人に執着し続けないために、もう居ないのだと理解するためにはきっと必要なことなんだろう。
墓石を見つめる彼の瞳は、そこに居るはずの人を見つめている。決して私を見ない彼の目が唯一見つめる者。
彼の名の通り、陽のように暖かな表情が、私も愛おしい。その隣に居られるならそれだけで良い。けれどその優しい横顔は私が居たからではないと知っている。
だからどうか、姉さんもそれくらいは許してほしい。
朝はパン派、塗るのはバター。目玉焼きは半熟、かけるものは醤油。ベーコンよりソーセージ、それにつけるのはマスタード。コーヒーはブラック、シャワーは朝に浴びて、歯磨き粉はシトラス。彼を愛し、彼が愛した。
私の姉は、葵はそういう人だった。
アレキタイプ 塩上 涼 @Shiogami_ryo
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