アレキタイプ
塩上 涼
アレキタイプ
俺が抱きかかえる葵の息は細く、その間にも絶えなく体温が流れていく。ただ一心不乱に葵の名を叫び、朦朧とする意識の中で葵はきっと辛うじて答えてくれている。葵の腹は真っ赤に染まって、強く傷口に当てたハンカチもどろどろに濡れていた。
サイレンの音も、周りの喧噪も遠くに聞こえてくる。葵以外の全ての情報は要らない。必死を振り絞って「陽斗」と囁くその声だけが、俺の耳に届く。
分かってはいる。もうじき葵は息を引き取るだろう。滲む視界で、薄らに苦悶の混じった笑みを向けてくれる葵を見て、ひたすらにその名前を叫ぶしかできない。
はっと上体を起こし目が覚める。どくどくと心臓は跳ね、背中は嫌な汗で気持ち悪く、喉も粘つきを伴って渇いていた。喘ぐように息を繰り返して、隣に居る彼女を確認してようやく平静が戻ってくる。
嫌な夢だ。彼女が通り魔に刺されて、死んでしまうだなんて。そんな風に理不尽にこの幸せが奪われてしまうことへの恐怖。そんなことあるはずが無いのに、はっきりとしたイメージがまるで手のひらの上にあるようだった。
でも大丈夫。全ては悪い夢だ。彼女は俺の隣で穏やかな顔をしてすやすやと寝たままだ。時計の針はまだ四時過ぎを指していて外は暗い。大人しく毛布をかけなおす。
そっと両腕を彼女の背に回して、優しく抱きしめる。暖かな彼女の存在、血の通った温もりが失われることなどないとわかる。首元に顔をうずめて、すこし擦り付ける。
ゆっくりと、肺に空気を取り込めば、俺の鼻腔は彼女の匂いで満たされる。とても落ち着く、俺にとっては甘美な心地に満ちる。
ずっと自分の傍に居て欲しいと、この幸せがずっと続いてほしいと、願わずとももたらされるだろうことでも、願わずにはいられない。
俺だけに許された幸せに包まれて、もう一度眠りへと戻っていく。
葵が死んでから一週間が経っていた。死んでからではなく、殺されてから。葵と茜、あまりにも安直だが双子の名前なんてそんなものだろう。一卵性双生児とはいえ一応葵は姉にあたる。そんな葵の死は、妙に受け入れがたくもあり、だが私の心は嫌に凪いでいた。
必要なことは、葬儀までとんとん拍子で済んでしまった今、周りの人間はこの事柄を受け入れて前に進むことを強制されている。
ただ唯一、葵の彼氏だけが気がかりだった。そもそも私たちとは小学校のころから幼馴染で、葵と陽斗が付き合い始めたのは中学二年のころから。もう二十四になるのだから、十年も続いている。よく三人で遊んでいたあの時から、今思えば私だって陽斗のことが好きだった。でも陽斗は葵を選んだし、葵の方が私よりもちゃんと陽斗のことが好きだったから不満だったわけではない。
それに二人が恋仲になったからと言っても、結局三人で遊ぶこともよくあったから私にとっては三人のままだった。
でも就職を機に、二人が同棲を始めると言って私だけが実家に残るっていた。
最後に生前の葵に会ったのは二週間前、死ぬ一週間前。三人でご飯を食べたっきり。遺体を見たのだからその事実は揺るがないはずなのに、どうしてか二人の家に行けばまた会えるような気がしてしまう。
その現実味のない葬式で会った陽斗は憔悴しきっていて、私なんかよりもずっと葵の死にうちひしがれていた。あるいはそれも当然かもしれない。陽斗は葵を愛していたのだから。
そんな陽斗の状態を見てしまった以上、彼の様態を確認しに行かなければ、彼までどこかへと行ってしまいそうに思う。だから、二人の家に私が上がるのは特段おかしな行動ではないはずだ。
葵から借りていた合鍵で、二人の家に入る。玄関の革靴は乱雑に脱ぎ捨てられているが、「おはよう」と声を張っても返事がない。
居間の扉を開けて、陽斗を見つけた。コンビニで買ってきたであろう弁当や総菜、カップ麺のごみと、中身のない安いウイスキーの瓶、安酒の缶が散らかった部屋の中、ソファに陽斗は横になっていた。
毛布もかけずに、エアコンはつけっぱなしで寝ていたら風邪をひくのではと陽斗に起こそうとしたが、できない。譫言に、葵の名前を時折呟くその姿は余りにも痛ましく、近くの毛布だけかけるに留まった。
部屋をひとまず片付けて、冷蔵庫の中身を確認するが野菜もしなびているしで大体の物は捨ててしまう。行きがけにスーパーで軽く買ってきておいてよかった。
ご飯を炊いて、みそ汁と鶏の照り焼きとを拵える。その匂いに釣られたのか、陽斗が目を覚ましてきた。酷い顔色のまま、髭は不精に伸びているしきっと風呂にも入れていない。
「陽斗、おはよう。ごはん作ったから。とりあえず食べよう。そしたらお風呂沸かしてるから」
活力と焦点を失った虚ろな顔のまま陽斗は反応しない。ただ人として空腹には勝てないようで、前に並べた料理には手を伸ばしてくれる。
「よかった。お酒ばっかりで、ちゃんと温かいご飯たべなきゃだめだよ、陽斗」
「おいしい。おいしいよ、葵」
私の茜色の心に、冷たい葵色の棘が突き刺さったような気がした。陽斗の目の前には私がいないのだと。葵の死を受け入れられていないのだと、理解した。
「それなら、よかった」
そうとだけ返事をして。私に過った罪の構想を押し流すように、陽斗を風呂場に押し込んだ。
皿を流し、あるいは先に刺した魔を水に流したいだけかもしれない。シャワーが遠くに流れているのが聞こえながら、私は私を律さなければいけない。
ソファに腰掛けて、彼が上がってきた後のことを覚悟する。葵のことを言わなければだめだ。私が葵の死を受け入れられているとは到底言えないが、だとしても陽斗の今の状況はきっと彼の心を歪めてしまう。
浴室から戻ってきた彼の顔を見て、そんな覚悟は容易く打ち砕かれた。
「ちゃんと髪は乾かした?」
「ああ、着替えまで用意してくれてて、わざわざごめん」
いくらか生気の戻った彼を見て、さっきまでの彼を思い出して、言えるはずがなかった。
そんな私の葛藤も知らずに彼は隣に掛けてくる。肩が、腕が、腰がぴったりと横にくっついて陽斗の体温がよくわかる。
これは許されないことだ。世間に、あるいは人として、正しく在りたいのであれば、今すぐ抜け出さなくてはならない。
だけど、陽斗の手が私の手に重なってくる。
「葵」
「どうしたの、陽斗」
「とても恐ろしい夢を見たんだ。君を失ってしまう夢だ。目の前で、君が殺されて、ただ何もできずにそれを目の当たりにするだけの」
夢なんかじゃない。それは、夢なんかにしてはいけない。
「とても不安になるんだ。きっとそんなことは無いけど、それでも」
葵、ごめん。誰のためにもきっとならないことは分かっている。それでも、目の間の彼を見て。私の、茜色の恋慕に気づいて、自分の浅ましさのせいで、あなたのことを裏切ってしまうけれど、少しだけ、少し、だけ。
「大丈夫、私はどこにもいかない。ここにいるよ」
彼と自分を騙すために、私はやわらかく微笑んで。そっと、彼の唇に触れて、重ねる。
彼が望むのであれば、私が望んでしまったものを。
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