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@tsukiareci
全
一
わたしたちは待合室にいた。誰もが荷物を抱いて椅子に座り、風のなかから電車の音を聞き取ろうと耳を傾けていた。いつまで経っても到着のベルは鳴らなかった。やがてあきらめて立ち去る者もいたが、去った者の数だけ入ってくる者がいた。彼(仮にAと呼ぶことにする)は、はじめからそこにいて、いまもそこにいた。
Aは両手をにぎり、ひらいた。その単調な動作の繰り返しを眺めて暇を潰していたが、ふと目を上げたときに、永劫に変わりえないと思われた景色のうちに塔に似たものを捉えた。ホームの階段を上がり、駅の西口に出ると黄色いタクシーが停まっており、その車体にもたれかかるようにあぐらをかいて座る運転手がいた。運転手はAが近づいても気づく様子はなく、ぶつぶつと独り言をつぶやきながら地面の砂を掬っては落とすという動作を繰り返していた。
「あそこまで、おねがいできますか」
運転手は顔をあげ、鬱陶しそうな表情で太った身体を起こすと、車体越しに荒野を眺めた。Aは灌木と小石、それにいくつかの廃墟と人のほかには何もない砂原をあらためて眺めた。遠くに建つ塔は蜃気楼にぼかされて、蛇行する蛇のように一刻一刻その姿を変えた。先端から煙ものぼっていなかったのでAは、
「父の葬式なんです」
と補足した。しかし運転手の表情は晴れず、元の位置に座り込んで砂をいじりはじめた。
「わたしはね、保証できませんよ。ガソリンは満タンじゃないし、スタンドがあるかもわかりません。タイヤだっていつまでもつか。それにあそこが葬儀場だってどうしてわかるんです」
「煙突があるじゃないですか」
「電波塔かもしれません。あるいは……おおきな木なのかも。あなた、ここで待って、どれくらいです」
「かなり……もう憶い出せません」
「それなら慎重にならないと。はじめの一歩をまちがえば、結果もまちがうことになりますからね。わたしも慎重なほうでね、次の仕事は最後の仕事と決めているんです。しかるべき客を、しかるべき土地へ連れていく。それがわたしの仕事です。だからあいまいな依頼はお断りしているんです」
「近づくだけでもいいんです」
「遠のく可能性もあるでしょう」
埒があかないと判断したAはその場を離れ、塔に向かって小走りで進んだ。すぐに喉が渇き、自販機を探したが見つからず、商店らしい店をたずねても店主はおらず、砂に侵された廃墟が風に吹かれているだけだった。うつむいて通り過ぎていく人に声をかけ、塔についての情報を得ようとしたが、誰もが不気味がって足早に去っていった。そうこうするうちに日が落ちた。振り返るとかなりの距離を歩いたようで、駅の灯りは見当たらなかった。しかたなく空き家で夜を明かすことにした。
翌日も晴天で、しばらくは塔を目指して歩いていた彼だったが、やがて喉の渇きと空腹が限界を迎え、出会う人たちにその旨を訴えはじめた。しかし誰一人として足を止める者はおらず、自暴自棄になった彼は性懲りも無く塔に向かうほかなかった。陽が地平線に隠れ、意識が遠のきはじめたころ、一軒の建物が目に入り、彼は吸い寄せられるように近づいた。硝子窓からなかを覗くと、部屋の中央に立てられたイーゼルに向かう初老の男がいた。壁には無数の絵が掛けられており、そこには海や山といった景色が描かれていた。肖像画もあったが、それらもこのあたりの人を描いたものとは思えなかった。Aは扉を叩いた。
すると男は扉を開けたが、差し出された金を受け取る様子はなく、しばらくのあいだAの顔を身体を眺めた。
「入ってくれ」
男はAを椅子に座らせると、台所から魚の漬物の缶詰めとパンを持ってきて食べるよう促した。これはなにかの罠だ。そう感じたAだったが、対面に座った男が何度も勧めるうちに空腹に負けた。約二日ぶりの食事を味わっていると、
「君の考えている通り、わたしは詐欺師だ」
と男が告白した。
「だからこれは善意じゃない。それは君もわかっていると思う……なにが欲しい。なにも飯のためだけに詐欺師を頼る必要はないはずだ」
Aはパンを齧りながらポケットから有り金すべてを取り出してテーブルに置いた。
「絵を描いてほしい」
「どんな絵だ」
Aは男を窓際に連れていき、地平線にわずかに見える塔を指差した。
「葬儀場。煙を足してほしい」
「どうして」
「証拠がいる。父の葬儀にでないといけない」
「なんのために」
Aは答えられなかった。
「かわりにおまえの肖像を描かせてくれ」
「冗談ですか」
「冗談なもんか! おれはおまえを描きたい、何の理由も無しにな! こんなのはじめてだ。いや、落ち着け、いやあ、困った」
男の気分の乱高下を不気味に思いながら、Aは男が椅子をイーゼルのまえに運ぶのを眺めた。
「さ、座ってくれ」
「まだ食べ切ってません」
「いいから座れ!」
その怒号におどろき、Aはしかたなく椅子に座った。男は画材を運びつつも時折Aを見やり、感慨深げな表情をし、そのたびに首を傾げた。やがて準備が整うと、画家はAの背後にまわり腕や足を捻り、頭の向きまでを無理矢理変えさせた。しかもいつまで経っても思うような姿勢をつくれなかった。Aの悲鳴と懇願は聞き入れられず、数時間を要してやっとのことで男が満足げな表情をみせた。
下書きをはじめた男を怒らせないようにと、右腕を背中にまわし、左手を後頭部にあて、全身をくねらせつつ両脚をひらくとあう奇怪な姿勢からくる痛みにこらえた。表情にも指定があり、目は細めて口角をあげ、そのくせ笑みをつくらないよう心がけつつ、斜め上に傾けられた首を動かさず部屋を眺めると、画家の作品群が自然と目に入った。湖畔に佇む日傘をさした女、鍬を振るう農夫、髭を伸ばした貴族らしい男の肖像など、どれもがいつかどこかで見た、という印象を与え、最初こそその腕前の華麗さにうっとりしたAも次第にその構図の完璧さや色遣いの正統性に飽きてしまい、たとえもし自分が家をもっていてもこんな作品は飾りたくないと思った。画家に目をやると、彼は画板とAを何度も見比べ、やっとのことで描きはじめたと思うと、間もなく消しゴムで線を消し、しばらく落胆した様子だったが、やがてむくりと顔をあげるとまたおなじことを繰り返した。そうして過ごすうちにAは、無理な姿勢からくる身体の節々の痛みを感じはじめ、全身がぷるぷると震えるのを抑えられなくなった。それでも耐えようとした。ほぼ同時に、画家が筆を床に放り、顔を両手でを覆ってうなだれたので、Aは心配するふりをして彼に駆け寄った。
「無理だ、なにを描けばいい」
「ぼくを描きたいんじゃないですか」
「そうだ! そうとも……でも、描けない。聞いてくれないか、話を」
このままでは葬儀場の絵ができる前に画家が憔悴してしまうと考えたAはうなずいた。
「そうか、君は不躾なうえに身なりも貧相なのにやさしいんだな。おれはな、注文通りの絵なんてもうまっぴらなんだ」
「どうしてです」
「観察してそれを仔細に描写する、そんなものは描くに値しない、そう思わないか。かといってありもしない空想を描く気にはなれない。自分の頭のなかにある嘘を描くほど厚顔無恥じゃない。そうなると残るのは描きたい、なのに描けないという気分だけが残る。途方に暮れることも許されない」
「描きたくないと」
「そうであったらどれほどよかったか! 君のその空洞のような顔……なんの特徴もなく、どこから来てどこに向かうのかも想像させないその真っ白な顔を見た時、君を描く価値が限りなくゼロに近いことを理解したんだ。それなのに描きたいと思った。こんなことははじめてだ」
価値がないなら描く必要もない、思わずそう言いそうになったAは思いとどまった。なんとしてもこの男に自分の絵を描かせ、報酬としてその嘘を、煙の昇る葬儀場の絵を手に入れないといけない。
「待ちますよ」
「おれは老いぼれだ、時間がない」
「描けないなら待つしかないでしょう」
「それはたしかだ」
画家は会話によって気分が落ち着いたらしく、これまで見せたことのない柔和な表情でAにコーヒーを注いでくれた。しかし一口味見してみて、あまりにひどい味だったのでAはカップを脇に置いた。画家はカップを両手で包み込むように持ち、すこしずつ飲み、やがて語りだした。
「君を描きたいなんて願望を抱いたことをいまはひどく後悔しているよ。いや、そもそもこんなところに越してきたこと自体がまちがいだった。親を捨て、兄弟を捨て、最後には妻子まで捨てて……いや、これしか道はなかった! しかし結局は金儲けだ。ほら、このコーヒーだって金がかかるんだからね。空想は一文もうみださないが、嘘は商売になる。だから描いた。そのせいでここらでは画家と呼ばれる始末だ。言い返してやりたいもんだよ、わたしは罪人だとね」
Aはすこしねむくなってきたが、画家はそれに気づかなかった。
「同胞には事欠かない。誰もが何かを捨ててここに来る。途方のない夢を抱いてね。ところがしばらくすると気づくんだ。取り戻せない過去がどれほど幸福だったかを。そして過去は痛みとなる。痛みを和らげるためにわたしに絵を描くよう要求し、かつての生活を美しいまま記憶に保持し、自分にもそんな時期があったんだと慰め、ここにきた理由も忘れて隠遁老人になっていく。そうだ、誰もが老けていく。そして死ぬ。骸になって、消えてなくなるまで風に耐えなければならない。最高傑作? わたしの? そうだな……そこに女の絵があるだろう。そうだ、赤んぼうを抱いてる絵だ」
家の入り口のそばに飾られたその絵には、窓からさす陽光を浴びる母と娘の姿が描かれており、二人はおなじように窓の外を眺めてどこか恍惚とした表情をしてたたずんでいた。
「姉とその娘だ。それを描いて一ヶ月も経たないうちに交通事故で死んだがね。姉はちいさいころから寡黙で口数がすくなかった。夫は子供ができたとわかるとすぐ姉の前から姿を消した。家族は実家で暮らすよう提案したが姉は断った。わたしたちはずいぶん遠く離れて暮らしていた。しかし事故のしばらく前になってなにも連絡をよこさずいきなり帰省して、自分たちの絵を描かせるとそそくさと帰り、それきりになった。仕事と家事のためにやつれ、神経を病んだために細くなった姉に聞いた。どうしてこんなことになったんだと。すると姉は言った。そんなの知らない。金を握らせようとしても、しばらく休んで行けと提案しても姉は断り、ただ絵を描いて欲しいだけだと言った。わたしは理由を聞いた。すると姉は、思いついたから、とだけ言った。その絵はその時に描いたものなんだ。君はどう思う。構図、色使いに至るまでどう見たって素人の手によるその絵を見て姉が涙を流しながら高笑いした。理由を聞いても教えてくれない。わからない、わからない。そう繰り返して、最後にはありがとうと言ってくれた。わたしは後悔した。なぜならその絵は嘘だったから。絵を描きはじめた時、姉は泣き喚く子を床に置いて、自分は椅子に座ってまっすぐこちらを見ていて、窓はたしかにあったが曇りのために光は入ってこなかった。わたしたちは三人で薄暗い部屋にいて、向かい合った。わたしはある種の使命を感じていて、病んだ女とその娘の行く果てを思うまま描いてみようと、いや描かないといけないと感じた。だから実際にそうしようとしたが、いくらか描いているうちに気にいらずまた最初から描き直した。そんなことを繰り返すうちに夜になって、わたしは弱音を吐いた。姉は怒った。いいから描きなさい。いつまででも待つから。わたしたち二人をしっかりと描いて、あなたの思う通りに。あなたにはわたしたちが見えるでしょう。その最後の言葉の通り、わたしには姉と娘が見えていたはずだった。それなのに上手く描けない。そしてしばらくして気づいた。二人は光のなかにあると。これはひどく説明が難しい。なんというか……わたしの目は二人をそう捉えていたのに、実際の目に映るもののあまりの深刻さのために筆が止まってしまった。わたしは二重の像に苦しめられていたというわけだ。わたしは光のほうを選んだ。その絵のように姉の肌は潤っていなかったし、娘の身体もそんなにぷくぷくと肉がついていなかった。実際の二人の目には光など宿っていなかったし、姉は神経質な暗い表情で娘はひたすら泣いていた。服にしたってそうだ。姉はシミとシワだらけのワンピースを着て、髪の毛は絵のようにまとまっていなかった。娘の肌は発疹に覆われていたから、絵のようにつるつると光ってはいなかった。絵を見た姉は言ってくれた。おもしろい、あなたには才能がある、と。その絵はわたしのお気に入りだ。どうしてだ。それはあきらかに嘘なのに、嘘じゃないみたいだ。だからほんとうはしあわせなのに、苦しいのか。もう見ていられない……見たくない! ……ところで君はどこから来た」
「ぼくにも妻と子供がいます」
「世捨て人も集まれば世となる」
「いえ、ぼくは戻ります。金が必要なんです。こんな土地には長居したくない……失礼」
「遺産か」
「ええ」
「その遺産がどれほどのものかはあえて聞く気もないが、それをどう使うつもりだ」
「養育費、食費、光熱費にすこしばかりの娯楽に」
「自分で稼げばいい」
「仕事を失いました」
「なるほど」
Aは平静を保とうとつとめたが、職場の事務所で自分の机だけがぽっかりと抜け落ちている様を憶い出さずにはいられず、その際に感じた興奮を話してみたくなった。最初こそ突然話し出したAの勢いに興味のなさそうな顔をした画家だったが、悲嘆に暮れるどころか嬉々として語るAの様子に次第に惹かれていった。
「物事は突然起こるべきで、それがぼくにはじめて起きたんです。だからうれしかった。なにしろこれまでの人生で試練らしい試練を経験したことがないんですからね。転機になると思うじゃないですか。でも、なにも変わらない。そうするうちに妻に疎まれるようになりました。なにしろわたしの存在意義だった収入が絶たれたんですから。わたしは悟りました。契機などない、と。だから戻る必要があるんです、小金を携えて。だからここに来たんです。なにより不幸なのは、わたしはいまだ不幸ではないということです」
「ここは、きびしい土地ですよ。そのうち戻れなくなるかもしれない」
「つまり」
「魅了されるということです。ここに来た誰もが最初はあなたのように言う。すこしだけ、目的を果たすため、自分には帰るべき場所がある、とね。ところがすぐに後悔する。ここには明確な道はないし、案内人もいない。地図があてにならないわけです。それに気づいたころには帰り方もわからなくなり、ここで今を生きることしか考えられなくなる。最後にはここに来た理由も忘れて彷徨うことになる」
画家はそれからも延々と訓戒を喋り続け、Aは彼を不機嫌にしないために眠気をこらえた。しかし午後になり、やがて陽が暮れても、彼はここで見た人びとのことを話し続け、終いにAは座ったまま寝てしまった。
Aが椅子のうえで目を覚ますと、画家はイーゼルを前にしてうなだれて目を閉じ、呼吸をやめていた。彼のそばには一枚の絵が置かれていた。そこには荒野とその先に聳え立つ煙突、そこから立ち昇る煙が描かれていた。Aは絵を脇に抱えた。立ち去る間際、イーゼルに置かれた真っ白なキャンバスが見えた。Aは駅に向かった。
二
運転手はロータリーにいた。タクシーのそばで砂をいじり、Aの姿を認めても気にしないそぶりをした。しかし煙突の絵を見るなり、揺らぐ塔と見比べた。
「これをどこで」
「画家から買い取りました」
運転手はまだ疑っているらしく訝しげな表情を崩さなかった。しかし絵の隅に描かれた画家の名前を見るなり青ざめて、しばらくの沈黙ののちに運転席に座り、後部座席の扉を開けた。
「言っておきますが、保証はできませんからね」
しばらく走ったあと、彼は言った。
「あなたのお持ちになった絵を見て確信しました。あれは葬儀場に違いない。あの煙突の形、それに黒い煙。認めましょう。わたしが間違っていた。ですが遠いことには変わりありません。ガソリンは半分しかない。途中でスタンドがあればいいのですが、それも確証がない。タイヤだっていつまでもつか……天に任せるほかないわけです。心配しないでください。わたしはあなたから全財産を受け取り、この依頼を承ったですから意地でも到着してみます。わたしが言いたいのは、それがいつになるかわからないということです。明日は……厳しいでしょう。あるいは一ヶ月後、一年後になるかもしれません。ですが契約は契約です」
「ずいぶん興奮なさっていますね」
「興奮、わたしが」
Aは運転手の表情が変化していくのを眺めていた。砂をいじっていた時にはいじけ、すべてを諦めきったような、そのくせすべてを見知っているような顔をしていた彼は、徐々に焦りとも喜びともつかない表情になっていた。ハンドルを握る力は強まり、車は砂埃を巻き上げながら荒野を走っていった。しかし遠景のうちに聳える塔はいつまで経っても蜃のうちでぼやけさせていた。
「その画家はどんな人でした」
Aは身構えた。
「名前は聞きましたか」
「いえ、初老の男性でした」
「どこで会ったんです」
「彼の一軒家で」
「どうして」
「腹が減ったから、助けを求めたんです。それで、ぼくが肖像画のモデルを引き受けることを条件にその絵をくれました」
それからもしばらく問答は続き、運転手は画家の細部を知ろうとした。Aはこれという理由もなく事実と嘘を混ぜ、そのくせ昂っていく運転手の気分が不気味で焦りを覚えた。画家が死んだことについては触れなかった。やがて運転手は黙ってしまった。Aはやっと終わったと思い、過ぎていく景色を眺めた。黒衣を着た集団が、車と同じ方向に歩いているのが見えた。灌木に腰を落として泣く女がいた。両手を掲げ何かを叫んでいる男がいて、そのそばで立ち小便をする老婆がいた。ちいさな集落のような場所もあり、一組の男女が言い争いをしていた。神父と三人で結婚式を挙げている男女が微笑みあうそばで、今にも事切れそうな黄色い肌をした少年が倒れていた。Aはそれらの光景に満足し、旅がこのまま続けばといつまでも眺めていたかったが、運転手が突然大声で言った。
「大変なことですよ、彼が生きていたなんて! あなたは祝福されたんだ」
「どういうことです」
「砂漠の画家、このあたりでは画家として有名ですがご存知ないようですね」
「知りません」
「逸話ならいくつでもあります。彼に肖像画描いてもらったある主婦はここから離れたある土地で富豪になったというし、ある子供はお気に入りの玩具を描いてもらって皮膚病が治ったといいます。こんな例は腐るほどある。ですが、あなたの場合はちがう。砂漠の画家みずから描きたいと言った。そんな例はこれまで聞いたことがありませんよ! つまり、あなたは選ばれんたんです」
「選ばれた」
「きっと……うん、わたしの解釈はこうです。それはわたしのための導きだったんです。わたしはあなたを乗せることを拒否した。頑なだったんです。あなたの指し示した塔。葬儀場と決めつけるにはあまりに遠くぼやけたあの煙突を見た時、わたしは思いました。もううんざり、なにもしたくない、と。わたしはちいさな農村に生まれました。農作業はもちろん牛や羊の世話なんてまっぴらごめんというわけで、結婚した身にもかかわらず早々に家族を捨ててここにやってきたわたしはたしかに誓いました。ここで、ほんとうの仕事をやってみせる、誰かの役に立ってみせる、と。ところがどうでしょう。実際には荒野の往復ばかり。電車から降りた客を乗せ、ガソリンやタイヤが悲鳴を上げる寸前まで、その客の指し示す土地を目指し、そして到着を果たせないまま駅に引き返す。待合室にたくさん人がいたでしょう。そう、ああいった手合い、途方に暮れた人びとを作りだすのがわたしの仕事だったわけです。彼らはあなたのようにあるかどうかもはっきりしない土地を目指していました。そして失敗した。不思議なことにその噂が待合室で広まっても彼らは自分だけは大丈夫とわたしに依頼する始末。学習というものを知らんのです。ですが金儲けにはなりました。わたしは彼らの大義を可能に見せかける詐欺師だったのです。馬鹿にしていました、彼らのことを。しかしいまは違う。そんな自分を悔いています。彼らとわたしは兄弟だった。彼らの叶えられぬ祈りは、わたしに教訓を与えてくれた。成功は失敗の上に成る、と。彼らは身勝手で野放図な空想を使命と勘違いしたわけです。しかしわたしはちがう。あなたをお連れするためにここまで生きてきた。そう確信しています」
喋るほどに調子が良くなる運転手が不気味でAは時々首肯しながら黙っていた。
「天に感謝ですな!」
運転手はそう言って音楽をかけた。あまりに大音量なのでAは気づかれないように耳栓をつけた。
窓辺に寄り窓外を見やった。そこで繰り広げられる光景が彼をなぐさめた。蝶が骸にとまっていた。蛇を愛でる女が求婚されていた。その女を弓で狙う女がいた。鬨の声をあげて走る騎馬隊がいて、そのそばで野草を喰む馬が頭を下げた。通行人が祈る老婆のそばに金を投げ、彼女はほほえんだ。景色は移ろい、それは幾夜もつづいた。時折塔を見やっても一向に近づいた気がしないのをAは気にしなかった。運転手が人を轢いても気にしなかった。ガラスについた血はにわか雨で流れ落ちた。この時間がいつまでも続くと思っていたわけではないが、終わるとは考えてもいなかったのでら鈍い排気音がして車が速度を落としはじめても、Aと運転手は嘆かなかった。車が止まってしばらくは黙って車内にいたふたりだったが、運転手が先に根をあげた。冷房が切れて耐えられないほどの暑さになっていた。
「この近くにわたしの家があります」
運転手は努めて笑顔を保ちつつAを案内した。いくつかの丘を越えると二階建てのアパートがあらわれた。二人が近寄っていくと、住人が扉の隙間からこちらを窺っていたが、
「感謝します」
と運転手が帰宅できたことを天に向かって感謝すると、不気味な微笑みを浮かべて顔をひっこめた。
「もうおしまいだ」
夜半過ぎ、寝床から起き上がった運転手は嘆いた。てっきりさきほどから続いている住人からの嫌がらせが原因だと思ったAは、壁を殴り隣人が黙らせたが、彼はうなだれたままだった。窓から覗き込む別の住人を箒の柄で突き飛ばし、床を踏み鳴らして階下の雑談を黙らせても変わらなかった。運転手は静かになった部屋の隅に身を寄せるように座った。やがて住人がまた騒ぎだしてもみじろぎひとつしなかった。
「わたしは決めたんです。あなたを連れていく、と。なのにこのザマだ。ガソリンがなくてはなにもできない」
「スタンドはどこにあるんです」
「スタンドがあっても金がない」
「一銭もないんですか」
「あなたも薄々気づいていたでしょう。ご覧の通りでぶですから、有り金は食費に消えました」
「ぼくの渡した金を使いましょう」
「それはだめです!」
運転手は両手で床を叩いた。すると騒いでいた住人は静まったが、しばらくして無数の足音が部屋のあたりを囲み、窓という窓から黒い影が覗き込んだので部屋は暗くなった。
「この金は契約の証です。わたしのものじゃないんです。だから使えない」
「じゃあここからはぼく一人で歩きます」
「だめです! わたしはどうなるんです。お願いです。一緒に待っていてください。なにか起きるはずなんです。時間はかかるかもしれません。でも絶対に」
Aは仕方なく了解し、眠れないまま朝を待った。運転手と野垂れ死ぬ気はなかったが、塔まで歩くというのも現実的ではなかった。結局三日三晩二人は黙っておなじ部屋に過ごしたが、なにも起こらないまま時が過ぎた。
Aは座るか床に寝そべるかして時間をやり過ごしていた。日が昇ると運転手の部屋はあらわになった。キッチンには食べたあとの缶詰が山積みになっており、窓の隙間から吹く風にのって異臭が鼻をかすめた。人一人がぎりぎりおさまるシャワー室のタイルは錆か垢のせいで赤黒く染まり、一定の間隔で落ちる水滴の音が空洞のような部屋にこだました。本棚があったが、本は一冊もなかった。床のうえに虫が這い、時折運転手の身体にも飛びついたが、彼は気にするそぶりも見せず、邪魔だと思えば踏み潰した。踏み潰された虫に蛆がわき、そのため室内には何匹もの蝿が飛んでいた。運転手の行動は一貫していた。朝になると缶詰を食い、そのままテーブルでうなだれたまま午後を迎えると、おなじ缶詰を食べた。夜までおなじようにテーブルで過ごして、また缶詰をスプーンで掻き込むと、眠ることなく座っていた。時折なにかの気配を感じ取るのか窓辺に寄り外を眺めていたが、やがて憂鬱そうな表情で戻ってくると次の食事まで微動だにせずテーブルに座っていた。それらの光景は最初こそ不快で、すぐにでもここから逃れたかったAだったが、次第に慣れてくると部屋のなかの営みを眺めること自体に楽しみを見出し、自分の身体を這うムカデや蛇も気にしなくなった。このままここで息絶えても仕方ないと思うようにさえなった。しかし、ふとした瞬間に運動したいという欲求が芽生え、
「散歩してきていいですか」
と運転手に聞いた。裏切るつもりはなかった。
「いいですよ。ただ、約束してください。戻ってくると」
「約束します」
マンションの裏手から、来た方向とは逆に進んでいくと、岩の丘があった。丘はかなりの高さで、登るのは一苦労だった。岩に穿たれた穴があり、覗き込むと暗闇が奥まで続いていた。洞窟のなかから声がしたが聞いたことのない言葉のため理解ができず、そのくせ音それ自体の響きに絆されて、気づくとAは暗闇のなかにいた。どうやら彼の四方を何者かが取り囲み話し合っているようだった。彼らの声を聴いていると、次第にその音の調子からなにを言わんとしているかがわかるような気がしたが、翻訳できるほどはっきりせず、自身の心と共鳴するその音にただただ耳を傾けていた。しばらくして、それが蝙蝠と虫の鳴き声だと知り、虫嫌いの彼は急いで洞窟を出た。
丘の向こう側にはだだっ広い荒野が延々と広がっており、心惹かれるものはなにもないと思われたが、よく見てみるとその最果てに教会らしき建物があり、Aは親切を期待して下っていった。着いてみると教会に扉はなく、窓ガラスはすべて割れ、内側には風の抜けるひゅーひゅーという音が反響していた。祭壇の十字架は折られ、銅像は倒れていた。かつては整然と並べられていた長椅子は隅に追いやられ、山のように重なっていた。その中心にひとりの子どもが座り、中央奥の割れたステンドグラスからさす光を見上げていた。
「こんにちは」
子供は振り返った。
「ガソリンスタンドがどこにあるか知りませんか」
子どもは困った表情をして立ち上がり、ゆっくりとAに向かって歩いた。
「待ってました」
「え」
「父なら知っているかもしれません」
「お父さんはどこにいるの」
「近くに。きっと耳を貸しませんが」
「連れていってくれませんか」
子どもはAの前を歩き、二人は荒野を進んでいったが、あたりには人気がなく、建物ひとつ見当たらなかった。Aは子どもの機嫌を取ろうと色々質問したがなにも答えなかった。しかし、
「どうして教会にいたの」
と問うと言った。
「祈っていたんです。見たらわかるでしょ」
「そうなんだ。なにを祈っていたの」
「火の雨」
その小さな身体から発せられる願いの強烈さにAはおどろいた。
「夢を見たんです。ぼくは倒れている。家族を捨てて、ひとりで。いい気持ちで。でもしばらくして夢だと気づく。空から火が降ってきて、家族が燃えている。夢じゃないのだと思いました。それからいくつも夢を見ました。現実になる夢も、ならない夢もありました。火の雨はまだです。あなたがここに来ることも知っていました」
子どもはポケットからちいさいノートを取り出して、そこに書かれた夢の記録からAの来訪に関するものを探した。
「あなたは丘を下ってぼくのところに来た」
「そうです」
「スーツの男……ほかにもあります。その夢によると、あなたは失敗する」
「失敗」
「落ち込んでいます。でも、泣いてはいません。火の雨からは逃れられる」
「どうして」
「わかりません。ほら、いますよ」
蜃気楼のなかに太く短い筒のようなものがあった。そのそばに誰かが立っていて筒のなかを見下ろしている。二人が近づいていくと、男もこちらに気づき、
「なんだ、またか、この詐欺師が」
と子どもを罵った。
「父です」
平気な顔をして子供は言った。すると父親はにたりと笑ってAを見やりながら、ポケットから金を取り出して子供のそばに投げつけた。子供は金を拾うと走っていった。
「あんたがカモか」
「ガソリンを探しているんです。それであなたのお子さんが」
「いいから手伝え」
「え」
「井戸を掘るんだよ!」
井戸掘りの男はつるはしを投げつけ、Aが拾い上げているあいだに彼の腰に縄を巻きつけた。
「井戸なんて掘ったことありません」
「振り下ろすだけだ」
「ガソリンは」
「どこかにあるかもな。どんなものでもどこかにはある」
男は笑って、Aを井戸の縁に座らせた。
「言い残すことは」
Aは男の背後に先ほどの少年がこちらに走ってくるのを認めた。少年のさらに向こう側には街があって、燃えていた。やがて炎は燃え広がり、少年の身体を包み込んだ。無数の叫びが荒野に響いた。父親は気づかず、
「今日からおれがおまえの上司だ。いいか、掘り続けろ」
Aはここへ来てはじめて命令されたことがうれしく、はい、とうなずいた。しかし次の瞬間には蹴落とされた。彼は落下しつつ、円形の空から見下ろす上司の顔を眺めていた。炎は容赦なく男を包んだ。身体は黒い灰になり、Aとともに井戸を落ちていった。
三
つるはしなど使ったことのないAはほんの数分で根を上げた。なんとか手の痛みをこらえて続けたが、石を多く含み乾いた土は一向に掘り進められなかった。やがて灰を含んだ黒い雨が降り出し、底の窪みに雨水が律儀にたまり、どんどん水嵩を増すのを見て、Aは梯子を上った。
雨に降られながらも火は街のあちこちで根気良く燻っていた。人はみな焼けたらしく誰もおらず、建物の骨組みだけがむきだしの状態で置かれ、雨のために燃え切ることもできずにぱちぱちと音を立てていた。どこから来たのか数人の男たちがその様子を観察して、ある者はノートに記録し、またある者は祈り、感銘を受けている者もいた。Aが炎で焼けたパンを食べ、土瓶のなかで熱湯となった水を飲んでいると、彼らは軽蔑の目線を送ったが、それも長くは続かなかった。街の奥手にある石碑には〈われらは永遠〉と書かれていた。彼はそれを横目に街を過ぎていった。
視界に既視感を催す荒野があらわれた時、Aはうんざりしたが歩くことはやめなかった。このあたりは遠景では平らに見えても実際には起伏が激しく、それがいくらか彼の心を支えた。坂を登るうちはその先に期待し、やがて谷と別の丘があらわれ落胆するのだが、その丘を登るうちに自然と期待も復活するのであった。そうこうするうちに丘の上から建物が見えた。それはどこからどう見ても給油所だった。にもかかわらずAは、自分が浮き足立たないのを不思議に思った。
太った女店主は店内に入ってきたAに目を向けようともせず、手元の新聞を覗き込みながら言った。所持金は一銭もなく、ポケットには街で拾った小石のほかにはなにも入っていなかったので、彼は気まずい思いで会釈をして店内を巡った。ラックにまばらに、乱雑に並べられた食料や飲料はかなり高価で、運転手に渡した金すべてを使ってもチョコレート一枚も買えないほどだった。今手元には一切金のない彼は思わず苦い顔をしそうになったが、すんでのところで表情を抑え、努めて笑顔を保ちながら店内を物色しつつ、女店主に対する言い訳を考えていた。すると彼女は、空咳をした。一度では済まず何度も繰り返し、しまいにはAに敵意のある目線を向けた。洞穴に追いやられた小動物さながらに、猛獣の目から隠れようと身を低くして商品棚に身を隠し、なおも思いつかない対策に四苦八苦するうちに彼の肘がガラスのコップに当たった。コップは重力に従って回転しながら落ち床で粉々になると、分解して宙を舞い、ぱらぱらと小さな音を無数に重ねながら落ちた。新聞を勢いよく閉じ、カウンターに叩きつける音がしてAが思わず目をやると女店主と目があって、後ずさる彼の視界のなかでどんどん大きくなった。
「なんでもします」
「金は」
「ありません、ちっとも」
女店主はAをじろじろと見下ろし、彼はそのあまりの巨体に気圧されて、それ以上言葉を継げず息が止まりそうだった。
「働く気はあるかい」
「いくらでも!」
「ならそうしてもらおう! 立て!」
勢いよく立ち上がったAだったが、指示の声をあげると思っていた女店主はすでに踵を返してカウンターにその巨体を運んでいた。なにをやればいいか、と尋ねそうになった彼はすぐに思い直し、辺りを見まわし箒を手に取るとガラスを片づけた。それが終わると店内を隅から隅まで掃き、雑巾で窓を拭き、陳列を整えた。やれることをやり尽くしたと感じた彼は疲れのため壁に身をもたせかけようとしたが、またしても女の空咳が店内に響き、仕事を探した。狼狽える彼に怒号が飛んだ。
「仕事をするんだろう、さっさとやれ!」
「指示をください」
「そんなのは自分で考えろ」
Aは女店主の肩を揉んだり、空き箱を外に運んだりしてなんとかやり過ごし、やがて夜になると便所の片隅に寝床を与えられた。疲れ切った彼はそのほどこしが有り難く頭を下げた。
翌日もおなじように、それを数日繰り返すうちに仕事にも慣れた。女店主の機嫌を損ねないために彼女の肩を揉み、しばらく続ければうたた寝をすることもわかった。眠っているあいだに燃料を奪って去ろうとも考えたが、入り口をどれほど注意深く開けてみても彼女は目を覚ました。なかば監禁状態の労働生活がひと月続いたころ、彼は共同生活のために一方的な親近感を彼女に抱きはじめていることに気づかず、
「今日はいい天気ですね」
と言い、女店主は、んん、と薄笑いを浮かべた。それを肯定的反応と理解した彼は、思い余って自身の境遇を話し、車の燃料がいることまでこぼし、果てには分けてもらえないかと願い出た。返事がないことで自分がしでかした罪に思い至った彼が女店主を見やると、彼女はこちらを睨んでいた。
「それがまだコップの分も働いていない人間の台詞かい」
「でも、ぼくはずいぶん働きましたよ」
「まだだね」
「それならせめてあとどれだけ働けばいいか教えてください」
「あたしの気分が済むまでさ。今すぐ警察に突き出してもいいんだよ。ここの警察は優秀で三分もあれば駆けつけてくれる。あんたみたいな盗人はめずらしくない。嫌だろう。檻のなかに入りたいかい」
Aは落胆すると同時に、それまで彼を支配していた女店主に対する恐怖が以前よりも弱まり、そのぶんだけ軽蔑が湧き上がってくるのを感じた。自身の真面目さを恨み、浪費した日々を悔いた。しかし、実際に抵抗の言葉を吐こうとすると、言葉が浮かばず黙り込んでしまうのだった。そしてその夜、便所のにおいをこらえながら横になっていると、今の生活の充足に思い至った。朝昼晩ときちんと与えられる食事、窓から見える荒野の風景、そして女店主の息遣いとテレビの音。時折訪れる客の感謝の言葉。いまでは慣れきってしまった生活の積み重ねが、荒野から彼を引き離し店内に留めた。そのような思いが罪だと感じた彼は父の顔を思い浮かべようとしたが、浮かんでくるのは他人の父親やこれまで出会った人びとの顔ばかりで、時間をかけて考えるほどに像はぼやけ、最後には自分の顔が見える始末だった。
抵抗するきっかけもなく日々は過ぎ、やがて父について考える時間もなくなり、女店主ともテレビの話題について雑談を交わせるようになると脱出すること自体考えなくなった。その日、カウンターに突っ伏す女店主のそばで背筋を伸ばして立っていると、テレビが近隣で起きた事件について報じた。荒野東部で多発していた強盗事件が西側でも散見されるようになり、ボーリング場、小売店、家電専門店が襲われたという。報道の要点は強盗それ自体ではなく、東側で起きた事件が単純な金銭目当ての犯行だったのと対比し、西側の事件では店主は殺されたが、犯人は店内を荒らして去っていっただけという点にあった。目撃情報や監視カメラの映像を照らし合わせると二人組の犯人はおなじ黒衣を纏っており、背丈や走り方の様子から同一人物と推定された。
「へえ、かなり近いよ。ボーリング場の店主、あれ、知り合い」
「そうなんですね。こわいですね」
「なにがこわい、だ。よくあることさ」
「よくあるんですか」
「この建物だって、もとはただの廃墟だったんだからね。壁は壊れてるわ、落書きされてるわでひどいもんだった。もとは煙草屋だったみたい」
「どうしてここで店を開こうと思ったんですか」
女店主は首をまわしAを見たが、その眼差しには敵意はなかった。むしろなにかを問うような色があって、Aはたじろいだ。
「すみません、変なこと聞いて」
「どうしてだと思う」
「え」
「だから、あたしみたいな女がどうしてこんなところで店を開いたと思うかって聞いてるんだよ」
「……儲かるからですか」
「いや、儲からないね」
「この土地が好きだからですか」
「嫌いだね、ぞっとするほど」
「じゃあ……」
「捨てたんだよ」
「なにをです」
「わからない、もう忘れた。けど捨てたんだ。悲しかったのは覚えてる。期待もしてなかった。けど、ここしかなかった。ここに来ること以外に選択肢なんてね。それでここにいる。理由は……ない」
「生きるためじゃないんですか」
Aの語気が急に強まったので、女店主は思わず従業員の顔を見やった。ところがAの表情はむしろ弱々しく、いつもより一層頼りなく見えた。憐憫を感じるべき場面だと感じた女店主だったが、心は動かなかった。
「じゃああんたはなんのために来たんだい」
「生きるため」
「ほんとかい。街のほうがよっぽど楽だと思うがね。仕事も飯も若い女だっていくらでもいる。食べて、寝て、そして死ぬ。それが生きるってことじゃないかい。あんたはそれを捨てた」
「同意のうえです」
「誰の」
「家族の」
「どうして同意がいるんだい。どちらにしても捨てたんだ」
Aは女店主の責めるような口調よりも、どれだけ憶い出そうとしても家族の顔が頭に浮かんでこない自分に苛立ち、
「ごみを捨ててきます」
と、裏口から店を出ていった。今では彼は外出を許可されていた。
その夜、彼は眠れず、家族を憶い出そうと次から次へと記憶のなかにある顔を思い浮かべていた。いつしか自分に家族がいたという確信が揺らいだが、おそらく妻であろう女と交わした言葉だけが映像もなく響いてきた。
「遺産があるはずなんだ」
「そう」
「だから葬儀に行かないと」
「帰ってくるの」
「もちろん」
自身の発したその最後の言葉が悔やまれ、妻の背後から響く子どもの泣き声に責められているように感じられた。
便所の暗闇が誘発させる妄想から逃れようと扉を開けて店内に出ると、視界の隅で赤いなにかが揺れているのが見えて、外に出て近づいてみるとそれは焚火で、ゆらめく炎が女店主の顔を赤く染めていた。
「なんだい」
「なにしてるんですか」
「いつも通りさ」
「寝ないんですか」
「まあ、座りな」
女店主はAのぶんの潅木を反対側に置いた。彼は座り、なにを話せば良いかもわからぬまま彼女の顔を眺めるうち、その顔の憂いに気づいた。昼には見せなかった表情だった。
「あんたの考えている通りさ」
「後悔しているんですか」
「それだったらまだよかったろうね」
「どういう意味です」
「後悔なら眠りたいと思うだろう。けど、あたしはちがう。眠りたいという欲もない。欲がなければ眠ることもできない」
「死にますよ」
「いまはそれを願ってるよ。さっさと用意されてる死をくださいってね」
「そんな」
女店主はにこりと笑って弱気になったAを見た。
「あたしが死んだら、ここのものはみんなあんたにやるよ。ガソリンもね」
「とんでもない」
「その時はいつか来る。天国にはなにも持って行けないから、いらないんだよ」
Aは応えずにぱちぱちと爆ぜる薪木を眺め、自身のこれまでの態度を悔いた。コップを割ったくせにあたかも金を払えば許してもらえると思ったことや、仕事をサボろうとしたこと。つい軽口を叩いて、彼女がそれを聞こえないふりをしてくれたこと。それらの記憶が炎の向こうがわの女店主の憂いを帯びた表情からやってきて彼の身体に入ってくるようだった。彼女に対する感謝だけが憶い出されて、そのくせかつてはたしかにあった憎らしいという思いに手応えがともなわかった。日中の彼女の無気力そうな表情もそれが不眠のためだとは考えもしなかった。
「すみませんでした」
「それなら踊ってくれないかい」
「え」
「陽気になりたいんだ」
Aは立ち上がり、わけもわからぬまま踊った。音楽もないまま両手を上下させて、努めて笑顔を保ちながら両足をつかって飛び跳ねた。女店主はそのさまを見て両手を叩いて笑い、Aにはそのことがうれしかった。運動不足の身体は早々に悲鳴をあげ、足腰だけでなく腕や顔の筋肉まで震えだしたが彼はやめなかった。朝まではなんとしても踊り続けるつもりだったが、先に身体が根を上げた。彼はおもむろに地面に倒れると、起き上がることもできないまま女店主の顔を見た。炎の向こうがわで徐々に憂いを取り戻していく彼女の顔が見ていられず火に目をやった。
「そろそろ寝な」
女店主の言葉にとどめをさされたAは這って店内に戻った。最後に彼女がなにか言った気がしたが聞こえなかった。便所に入るなり家族のことが頭に浮かび、しばらく苦しんだ彼だったか、ものの数分で眠ってしまった。
明かり取りの窓からさす光で目覚めた彼は、しばらく座ったまま考え込み、思い切って立ち上がると、
「おはようございます」
と言いながら店内に出ていった。
まるで地震のあとのようだった。商品は床に落ち、そのうえにラックが倒され、冷蔵庫にあった飲料が川をつくって、傾斜のある床を外に向かって流れていた。カウンター裏に置かれていた贈答品や煙草も床に落ち、一部は椅子に座った女店主の身体に乗っていた。散乱したものを踏み潰しながら女店主に駆け寄ると、安らかな顔だったが、死んだもの特有の呼吸の感じられない静けさがあって、その白さを見てAは呼吸の確認すらする気がなくなった。彼は女店主の身体に傷がないことに安心し、彼女の身体に乗った商品を床に払い、毛布をかけた。目を向けるとレジは壊され、冷蔵庫の唸る音も聞こえず、裏口で確認してみると配電盤は壊され、そこまで伸ばされていた電線も切られていた。再度店内に戻った彼は、商品だったリュックサックに詰めれるだけの食料を詰め込み、給油所でタンク二つ分のガソリンを注入するとその場を去ろうとしたが、しばらく荒野を歩くと急に踵を返した。店内でライターを拾い、それからガソリンを商品や女店主に浴びせ、もといたところまで導火のために流していった。ライターで火をつけると、みるみるうちに店内まで燃え広がっていった。彼は店に背を向けて、両手にタンクを持って走った。数分が経ち、後方で爆発音がしても決して振り返らなかった。
丘を越えて運転手の住むアパートに戻るころにはすでに夜だった。ノックしても反応がないので勝手に入っていくと、運転手はテーブルに突っ伏していた。
「燃料を手に入れました」
そう言って彼の肩に手をかけると、その身体は浜の砂のように崩れた。
四
食料と燃料と、それから運転手の遺灰を入れた袋を担いで歩いていると、黄色いタクシーが地平の奥で天日を浴びていた。車体は錆び、全体が砂に覆われていた。さいわいなことにタイヤの空気は抜けておらず、燃料を入れてエンジンをかけるとぶるんと音を立てて駆動をはじめた。Aは助手席に遺灰を置き、アクセルを踏んだ。
遠景のうちに塔はあった。あいかわらず地平にゆらめき、その全体像は捉えられず、たとえ斜塔だと馬鹿にされてもしかたないほどあいまいな姿をしていた。とはいえ車を全速力で走らすうちに到着は間近に思われて、塔のしたで執り行われている葬儀と、そこに駆けつける自分、そして悲しむ家族とともに父の誇りを取り戻す一連の場面という甘い空想に浸った。しばらくして我に帰り、Aは自分がその顔も憶い出せない父の遺産目当てにこうして車を走らせていることに思い至り、その滑稽さを自分で笑いながら役者として演じきる姿を空想し、心で親族や参列者を笑いながら、遺産を手に駅に向かう自分が泣いているのを不審に思った。思うように空想が捗らず外に目を向けた。そこにはあいかわらずたくさんの人がいた。このあたりは建物も多いらしく、まばらに建つスーパーや墓石屋が人を吸い込んでは吐き出した。ほかにも学校や居酒屋もあり、ある店から出てきた者はしばらく立ち尽くし、別の店に入るという反復を繰り返していた。誰も帰る気はないらしい。しばらく進んでも店は減らず、ここがおおきな街なのだと気づいた。夜が更けた。
店の灯りに照らされながら車を走らせていると、後方で破裂音がして、降りて確認してみるとタイヤがパンクしていた。車内を確認しても替えのタイヤは見つからなかった。前後から走ってきた車にクラクションを鳴らされ、怒鳴られた。焦ったAはそのそばにあった商店に駆け込んだ。店主によるとこのあたりには車用品を扱う店舗はないとのことだった。しかし塔までの遠さを憶い出したAが食い下がると、東に一時間ほど歩いたところに昔それらしい店があったと漏らした。Aは車を歩道側に寄せて鍵をかけると東に向かった。しかし一時間以上歩いてもそれらしい店は見当たらず、やがて空が白みはじめ、自販機に身体をもたせかけて水を飲んだ。空を見上げ揺れる電線を眺めながら過ごしていると、西の方角からざわめきが聞こえはじめた。
「反対! 反対ー」
目をやるとプラカードや旗を掲げ、拡声器を手に行進する人びとの、蛇のような行列が地平の果てまでうねり、のびていた。目を細めてもプラカードには〈反対〉とだけ書かれていて、彼らがなにに対して抗議しているのかがわからなかった。Aは面倒ごとを避けたかったので自販機の裏に隠れ、やり過ごそうとした。やがて行列は自販機のそばまできて、人びとはそれぞれ思い思いに叫び、ある者は歌い、ある者は楽器を演奏した。喧嘩をする者もいたが、警備役らしいメンバーが数名駆けつけ簡易的な裁判を執りおこなわれ、除名の宣告を受けた男はとぼとぼと列を離れ、しょぼくれた顔で路肩に座り込んだ。男はしばらく憎々しげな眼差しを行列に向けていたが、自販機の裏に隠れていたAを見つけた。
「あなたもですか」
「ちがいます」
「いや、そうにちがいない。誇りなんて捨てましょう。あいつらのそれはただの言い訳なんだ。はっきりとわかりましたよ」
「だから……」
「なぜ、ぼくが弾かれたか教えてあげましょうか。やつらは不安なんだ。だからぼくがどうしてこんなことをやってるのか、なんのためにやってるのか、そんなことを聞くこともゆるさない。大義だか正義だか知らないけど、あいつはなにひとつ答えられなかった。果てには自由なんて言葉を使う始末。実際には自分から進んで牢屋に入ってるんだ。はぐれて正解ですよ」
Aは聞きたくなかったので何度も男の話を止めようとしたが、彼は興奮状態で話し続け、やがて夜が明けはじめ、
「十年だ……十年」
と言ってAに寄りかかると啜り泣きはじめた。行列は身を寄せ合うふたりの男に目を向け、それを愛と勘違いして泣く女もいれば、唾を吐きかける男もいた。どちらにせよ彼らから見ればふたりは弾かれた者たちに過ぎず、Aはそのために勧誘されずに済んだ。
行進は夜になっても続いた。いつまでも止まないがなり声のために眠れずにいるAの膝を枕にして男はいびきをかいていた。男の態度は腹立たしかったが、行列に加わることも、そのそばを歩くことも考えられなかった。
「ホセ、ホセじゃない!」
女の声がした。背丈の低い若い女だった。目はきらきらと輝き、なにが楽しいのかずっと笑顔だった。
「どうしたの、こんなところで」
「裁判があって、除け者にされたみたいです」
Aが言うと女の表情はすっと冷たくなり、
「そう」
とあからさまな軽蔑の目をホセに向けた。
「あなたは」
「A」
「メンバーじゃないの」
「ちがいます」
「なら、なんなの」
「タイヤを探しています。東に売っていると聞いて、それで休んでいたらこの人が」
女が行列に向けてその店について尋ねると、数名がそんな店はないと叫んで答えた。
「残念ね。でも、あたし知ってる」
「なにをですか」
「タイヤの在処」
「ほんとうですか!」
「うん、ここをずっと、みんなと一緒に進んでいけばいいの」
「どうしてわかるんですか」
「先生が言ってた」
「先生。どんな人なんです」
「奇跡の人よ。手のひらから水が湧いてくるし、腰の皮袋にはわたしたち全員の食料が入ってる。信じるだけでもっといいものが手に入る」
その時、Aの腹が鳴って、男はその音で目覚めた。
「食いしん坊さん、いくらでも食べれるから安心して。さあ、来て」
目覚めたホセは女をナミと呼び、再会を喜んで話しかけたが、相手は一瞥もくれなかった。Aは女の伸ばした手を掴んだ。男はAの手を離さず、自分も行列に戻りたい旨を訴えてごねていたが、別のメンバーが駆けつけて彼を蹴り、殴り、路肩に放り出した。振り返って倒れた男を目で追っていたAだったが、いつのまにかプラカードを持たされていた。
約束された食料は順番待ちだからともらうことができず、車用品店もどこにも見当たらなかった。腹が減ってしかたなかったAは何度がナミに配給時間について尋ねたが何度か宥められたあと、急に顔つきを変えられた。
「不平ばかり言ってないで歩いたらどう。わたしたちの食事は真理なの。あなたはそれを食べてるの。ほら、見て、みんな機嫌がいいでしょう」
Aが目をやると、なるほど誰もが炎天下にもかかわらず叫び続けていた。倒れる者も、うちひしがれる者もいたが、周囲の人間の怒号と声援のためにそのままではおれず、やがて隊列に戻った。
「君は会ったことあるの」
「ない。それがなにか問題。たいせつなのは何を求めているか、よ。あたしはこんな世界は嫌。もっと自由な場所に行きたい。だからついていく。ほら、心に思い浮かべてみて。楽園、自然がたくさんあって、水にも食料にも事欠かない、誰もが仲良く過ごせる場所」
Aは言われた通りにしたが思うように映像が浮かばず、なぜか運転手の遺灰を車に置いてきたことを憶い出しただけに終わったが、見える、と嘘をついた。
「ほら、あなたの心もみつけた。だからあるのよ」
Aは信じているふりをして、プラカードを掲げて反対反対と皆に合わせて叫んだ。そうしているうちに自分が荒野に対して抱いていた負のイメージがあふれ、これまで出会った誰もが身勝手で身の程知らずの人間ばかりのように感じられ、自身の吐く言葉が彼らに向かっていると思うと気分が高揚した。彼が声高に叫ぶほどに仲間たちは賞賛してくれたし、手を取り合ったり肩を組んだりして、果てには輪になって踊った。Aは彼らのことが他人と思えず、一緒になって荒野を批判することそれ自体が快感になっていくのを感じた。すると不思議なことに腹は満たされた気がした。
「ほらね、言った通りでしょ。わたしたちは本来ひとつなの。だからこうしてわかり合える」
一向に配給されない食料に不満の声があがらない理由を、Aは翌日の昼に知ることになった。行列がとある街にさしかかった時、一部の男性数名が木の棒を手に叫びながら走りだした。何をしているのかとナミに尋ねると、ただちに行列の前後から、
「いけ、処刑人」
「搾取だ、搾取」
「わたしの生まれ故郷。盗人の住むところ」
「浮浪者の街だ」
と、誰ともなく叫んだ。ナミは得意げな顔をした。
「つまり、愚か者ね」
男たちが木の棒で街の人びとを脅しているのが遠くから見えて、Aは興奮が冷めていくのを感じると同時に腹が空くのを感じてこれはチャンスだと考え、雄叫びをあげて男たちを追った。すると行列から歓声があがった。
「自由を取り戻して」
「真理はわたしたちの心にあるわ」
土でできた民家の並ぶ閑静な通りのまんなかに、両手をあげた老若男女数名が震えながら目をつむり、家々から次々と家財が放り投げられる音にびくびくしていた。ある民家から出てきた男がAを見つけると、隊長らしき坊主頭の男を呼び出した。坊主頭は一重の鋭いまなざしをすこしも逸らさずにAに向けたまま近づいた。
「なんか文句あるか」
「いえ」
「入隊希望か」
「はい」
坊主頭は部下に目配せし、ひとりの背の低い男がAのところに駆け寄ると、
「あの家を」
と、民家のひとつを指差し、巨大なリュックサックを手渡した。
「好きなものを盗んでください。親分の取り分は三分の一なので」
坊主頭とほかの部下は新参者が信用できないらしく、眉を顰めてAを睨んでいた。Aは急いで民家に入った。
箪笥や引き出しを調べても金品の類はほとんどなかったが、袋詰めのパンがいくつかと水瓶のなかに澄んだ水が残っていた。ペットボトルに水を移し、パンと一緒にリュックサックに詰め込んだ。すでに盗みを終えて休憩していた坊主頭たちのもとへ戻ると、親分直々に盗品の確認がおこなわれ、Aの手元にはペットボトル一本分の水と1センチほどのパン屑が残った。Aはすぐさまそれらを食べてしまった。
「まあ座れ」
坊主頭に言われるまま地べたに腰をおろした。
「仲間に入りたいか」
「はい」
「どうして」
「腹が減って」
「素直なのはいい……。でも、あいつらは長くないな」
「あいつら」
「デモ隊の連中。信仰が飯とかほざいているど、泥棒から飯買わんと生きてもいけないんだからな。まあ、そのおかげで儲けて、あいつらは真理とやらを守れるわけだが。まあ、もって一週間か」
「どうしてです」
「この先は荒野だ、ほんもののな。街も村もない。あるのは砂と小石だけ」
坊主頭は部下たちに目配せをしてから立ち上がった。
「おれらは消えるから。おまえもそうしたほうがいい」
迫真の演技で自由の勝利を叫びながら行列に歓待された坊主頭たちに続いてナミのもとにもどったAは、仲間たちから激励された。デモ隊は鬨の声をあげて歩く速度をあげた。そうした興奮状態はしばらく続き、坊主頭たちは隠れて盗品を食いながら彼らの祭りに付き合い、別の町でも強盗を繰り返し、Aに分け前を与えた。しかし七日目の正午を過ぎたころには坊主頭たちの姿はどこにも見られなかった。ナミ、そしてその仲間たちは乾いた唇を閉ざし、疑念を諌めるように倒れた人びとを踏んで進んだ。なるほど視界の果てには、列をなして倒れている人びとの先に何者かが歩いていて、その姿は超然としていて彼らに希望をもたらした。しかしひとり、またひとりと倒れていき、彼らは互いの死を顧みようとはせず、先を歩く先生と思わしき人だけに目をやっていたが、その影も遠のくばかりだった。
Aは彼らに見られないようにパンを食べ、水を飲んでいたが、ある時にひとりの男に見つかった。
「水だ、水」
男はそう言って周囲に知らせた。すると数名が彼を取り囲み、そのうちにはナミもいて、彼らは一様に手を組み合わせてAを見上げ、押し合いへし合いした。そしてやがてこう言った。
「先生」
Aは彼らに対する軽蔑を抑えて、威厳のある指導者を演じて言った。
「静まれ」
すると彼らは黙った。
「寝床を探せ」
彼らは互いにささやきあい荒野へ走りだした。すぐにひとりの男が見つけたと言いそこに向かってみると、かびだらけの布団が敷かれた一畳ほどの小屋があった。Aは彼らに目をつむって天を見上げるように言い、その唇を水で濡らし、目の前にパンを置いてから、
「さあ、目をあけなさい」
と、言い、彼らが突然のパンの出現におどろくさまを眺めた。
「わたしがあなたがたのいう先生、救世主と呼ばれる人である」
彼らはよろこびとおののきを隠せず、顔の面を下げた。
「満たされたい者は、わたしに従いなさい。男は車輪を探しなさい。あなたがたを導くための。女はとどまりなさい。男を迎える準備をしなさい」
男たちが行ってしまうと、三人の女とAが残った。勤勉な女はAから目を伏せたまま布団を乾かし、小屋の掃除をはじめた。寡黙な女は一足遅れて彼女を手伝った。ナミもしばらく彼女らに手を貸していたが、やがてAのもとに来て跪くと、
「足を拭わせてください」
と、自分の服を引き裂いてAの足に触れた。砂だらけの足が血潮の透ける肌色に変わったころには小屋の掃除は終わり、二人の女はそのそばで立ち尽くしていた。ナミはAの足を持ち上げて、自分のてのひらを足と土のあいだに入れ、
「お進みください」
と小屋までAを案内した。彼女の手の甲から血が流れ、Aのあとには二筋の血痕が残った。ふたりは小屋に入っていき、やがてAの声がした。
「女たち、家族のもとへ帰るのです。あなたがたは救われた」
ナミは小屋から出てきてパンと水を女たちに差し出すと無言でなかに戻っていった。彼女らは目を見合わせて、それから小屋を一瞥したあと荒野を歩きだした。
五
Aは男の声で目が覚めた。腕のなかにはナミがいて、彼女も起きたらしく胸元を布団で隠して小屋の隙間から外を覗いた。
「男たちです」
Aも起き、駆け寄ると、タイヤを両肩に担いだ男が三人いて、
「先生、見つけました」
と全身を汗で濡らして繰り返した。ナミは急いでAに服を着せ、自分も着替えを済ませると小屋の隅で淑女然として首を垂れた。Aは威厳を演出して言った。
「何者だ」
「あなたの使いです。タイヤを持ってきました」
Aはしばらく考えたあと答えた。
「答えなさい。車輪はなんのためにあるのです」
「車につけるためです」
「では、車はなんのためにあるのです」
「走るためです」
「どこへ」
「楽園です」
「あなたは賢い。行きなさい」
男たちの足音が遠のくのを聞き届けると、Aは寝床に寝転び、日陰の快適さをあらためて味わった。部屋の隅にいたナミはAのそばに寄った。
「あなた、これからどうするの」
「西を目指すのです」
「もう演技はいいから」
すっかり先生になりきって、心地よい瞑想に耽りかけていたAは目を開けた。
「まあいいや」
ナミはそう言って彼の布団に入ってくると、身を寄せてわざとらしく目を見た。
「あなたはやり手ね」
「そんなことない」
「誇りを持っていいわ。沈みかけていた泥舟から人を救ったんだもの。でもあなたも所詮は男。あたし、誰とも寝たことなんてなかった。おかしなことだけど、昨日はほんとうにあなたが先生に思えた」
「先生には会ったことないんだろう」
「心のなかにいるんだから、わかる」
「どんな人なの」
「やさしくて、時に乱暴で。人の心をよく理解してて、何を言えば響くのか知ってるの。人の希望を察知して、先駆けてそれを与えるの。昨日のあなたはまさにそうだった。たとえ嘘でもあたしたちを導いた。あなたには力があるんだわ」
Aは昨日の自分の行いを悔いた。すぐにでもひとりになりたかった。父の葬儀に参列したいという思いに変わりはなく、心のどこかでそれさえ果たされればなにもかも解決すると考えていた。そんな彼にとってナミは未来を変えてしまうおそろしい存在であると同時に、いまこの時に限っては単純に魅力的で、そばに引き寄せないではいられなかった。そうしない理由がなかった。
自身の立場を使い、食事を女たちから運んでもらっていたAは、ゆっくりと、そして確実に堕落していった。ナミは彼の要求を汲み取り、そうして欲しいと望む時宜に合わせて自発的に布団に入ってきて、ことが終わると甲斐甲斐しく彼の身の回りの世話をした。彼が時折憂鬱になり、男たちが帰ってこない可能性を嘆くと、
「大丈夫、あなたなら。だって先生だもの」
とほほえんだ。その言葉のどのような点にも安心させる根拠はないにもかかわらず彼はそれに縋ったのだった。
Aは四六時中布団にいて、身の回りの世話をすべてナミに肩代わりされていたために、身体はぶくぶく太り、どんどん醜い姿になっていった。体重増加に伴って憂鬱症の発症頻度は高くなった。自分で起き上がり、小屋を抜け出そうと何度も考えたが、そのたびにナミがやってきてそうした目論見がとてもおろかに思えてしまい、動かないままひと月ほどが経った。ある晩、ナミはAのそばに寄ってきて、
「どうして泣くの」
と尋ねた。
「あなたは生きてるわ」
「父さんの葬儀に行かないと」
「どうして」
「遺産がもらえるんだ。家族を養わないと」
「家族がいるの」
「ああ、帰らないと」
Aはしばらく天井を眺めていたが、やがて彼女が部屋の隅で膝を抱えていていることに気づき、その巨体を起こそうとした。しかしどうやっても起きることができず、あわれにじたばたすることしかできなかった。
「どうしたんだ」
「いいの」
「なにがあった」
「……子供ができたの。それだけのこと」
不思議なことに、その言葉を聞くなり彼の身体はすっと軽くなり、すぐさま彼女のそばに駆け寄った。どうすれば良いかもわからず肩を撫で、そうか、大丈夫か、と声をかけたが、やがてナミは、
「やめて」
とその手を払った。
しばらくしてナミは腹をおさえて苦しみはじめた。Aは彼女を寝床に運んでそっと横たえた。全身から汗を吹き出しながら、彼が何を聞いても答えようとはせず、ただただ身悶えしていた。彼は二人の女に水を持ってくるように言い、自分でも服を着替えさせてやり、濡らした布を額に当ててやったりして甲斐甲斐しく世話をしたが、やがてナミがわけのわからない言葉を叫びはじめると、腰が抜けて座り込んでしまった。ナミは、平静な顔で世話を続けるふたりの女におさえられながら暴れ、苦しんでいた。Aは這い寄り、
「ぼくたちは家族だ」
と訴えた。ナミはそれを聞くとほほえみ、しばらくのあいだは静かにしていたが、やがて理解できない言葉で反抗し、彼はまたおなじ言葉を繰り返した。
小屋からすこし西にあたる場所で、一台の錆びた車を引く三人の男の姿があった。彼らは互いに小言を言い合い、いつまでも到着できないこと、ようやく手に入れた車がほとんど不良品であることなどを愚痴りつつ東へ進んでいた。日照りが強いために、彼らが樫の木のそばで昼寝をしようとした時だった。東から叫び声がした。それは悪魔のように低く、同時に高い、世にも恐ろしい声音をしており、彼らは車を置いて走り、やがて小屋についた。
「あなたは家族だ。ぼくたちは一緒だ。なにものにも分かち難い」
そう叫ぶ先生の言葉を聞き、そこに宿る神秘的な静けさに感じ入りつつ、いまだ響く悪魔の声が甲高く荒野に響くのだった。彼らが思い切って小屋に入っていくと、そこには先生に抱かれて暴れるナミがいた。
「離れない。ぼくはあなたを離れない」
先生、つまりAが何度もそう伝えるうちに、ナミは涙を流し眠りはじめ、彼らは悪魔が去ったのだと思い、互いに語り合った。
「悪魔祓いだ」
「すごい」
「みんなに知らせよう」
「良い車を用意しよう」
「彼こそ先生だ」
彼らが去ったあと、ナミは目を覚ました。Aは恐る恐る、しかし努めて優しい表情で見下ろした。彼女は産むことを決めたと話し、彼はうなずいた。
「大丈夫、安心して」
その言葉を聞くとナミは目をつむった。
三人の男の伝道によって、Aを信じる者は増え続けた。彼らは長蛇の列をつくり小屋を目指した。悪霊を追い払ったという噂は枝葉に枝葉をつくった。手から金が湧くと噂する守銭奴。子を宿す力があると信じるやもめ。罪を帳消しにしてくれると聞いた元銀行員。彼らはそれらの噂を本気で信じた。
ある自動車整備士は、先生が車を必要としていると聞き、倉庫に眠っていた廃車をよみがえらせ、荒野を難なく進むことのできるタイヤ、防塵のガラスを善意で付け、さらに天使の翼を両脇に取り付けた。人びとはその行いを奇跡と呼び、男たちは車を手で押し、女たちは踊りながら手を叩いて歌った。
彼らは列をなして歌い、踊り、先生の奇跡を讃えながら行進を続け、道に迷いながらも信心を鼓舞し合い、時に裏切り、改心した。一年の旅を終えるころ、その数は三万人におよび、荒野の地平に小屋を発見した際の歓声は地を震わせた。男たちは掛け声に合わせて車を担ぎ、女たちの喜びの涙のために乾いた地は濡れて川をつくった。彼らのなかで生物のように刻一刻と変化し、歪んだ伝播を続けた〈先生についての伝説〉は、原型を失いつつもあるひとつの言葉に収斂されていった。それは〈父〉であった。父よ、父よ。彼らは誰もがそう叫びつつ歩み、心のうちで父から命令を下されることを期待した。そのために、みすぼらしい小屋とそこに立つスーツを着た男の、なんの特徴もない姿を目にした時にはある種の戸惑いが列の前方から後方へとひろがっていった。しかしそのあとに〈父〉が腕を西の山に向かって掲げたときには、その仕草に啓示を読み取り、すぐさま車を運び、父よ父よと叫びながらAとその妻であるナミと娘を車に乗せた。
「ありがとう。わたしの子らよ」
歓声とともに車は持ち上げられ、彼らは西に向かった。
「いい、余計なことは言わないで。あいつらはあなたを信用しきってる。的確に、正確に心を打たないとだめ」
Aはうなずいてからナミを見やり、その腕に抱かれた子の微笑みが、いまだ自分の子どものものとは思われず、引き攣りそうになった表情を隠そうと窓の外に目を向けた。しかしそこには〈父〉を一目見ようと飛び跳ねる群衆がいて、仕方なくまぶたの痙攣をこらえながら威厳のある表情をつくった。それも長くは続かなかった。彼はシートを倒して布で顔を隠した。すると、ナミのため息が聞こえた。
「同情してるのよ、あたしは。あなたのお父さんだもの。あたしの義理のお父さんでもあるわけ。結婚したんだから、たとえ死体でも挨拶ぐらいはね。大丈夫、安心して。計画があるの。遺産を使えばなんとかなる。街をつくるの。あいつらを働かせて、あなたは……そう、父になればいいの」
「でも、ぼくは彼らを救えない。いつかばれるよ」
「そこは理屈をこねくり回すの」
「どうやって」
Aが言うと、ナミはひときわおおきいため息をついた。
「父親でしょう、それくらい自分で考えて」
Aはため息をこらえてフロントガラスから西の山を見やった。あいかわらず塔はあったが、煙は見えなかった。そのうち彼は眠った。
目を覚ますと信徒たちの歓声が続いていた。父よ父よという賛美の言葉は打って変わって祈りに変化しており、
「父よ、道を教えたまえ」
「父よ、救いたまえ」
「父よ、恵みをあたえたまえ」
「父よ、救いたまえ」
と唱えるような声が聞こえた。窓から覗くと彼らの顔から一時的な興奮は去り、無理につくった笑顔を保とうとしているらしかった。妻と娘はいびきをかいて寝ており、彼が動いて音を立てるたびに憎ましげな眼差しを向けた。彼は寝たふりを決め込み、耳を塞いだ。
夜になると、信徒たちは弱気になり、荒野の静けさの底に啜り泣く声が響いた。小屋を出たころは彼らを身勝手な連中だと蔑んでいたAだったが、となりでいびきをかく妻子のために音ひとつたてず寝たふりを決め込む自身の孤独に思い至り、彼らのように自分も泣けたらいいのに、と嫉妬に似た気持ちがめばえた。やがて嫉妬にも疲れ、自分ひとりのことなどどうでもよいと半ば投げやりに泣きたい気持ちを捨て去ると、たとえ嘘でも彼らのためにひとつの言葉を、あるいは行進を鼓舞する行動を示さねばならないと感じた。しかし具体的には何をすればよいかわからず、彼らの声に耳を傾け、その声のひとつひとつをまるで我が身のことのように引き受けるのをたのしんだ。
彼らは嘆いた。
「おれに救いはない。父の車輪にはなれど、輻はすでに折れた。車輪じゃなければおれじゃない。死だ、それだけだ、おれに残されているのは」
「石女と陰口を言われ、そのくせ仲間はいない。昨日は子を捨てる女を見た。産んでも孤独なんだ。それなら生まれなければ良かった」
「齢百歳にしてはじめた旅も今宵で終わり。自分の行いを数えてもたいした数にはならず、最後くらいは良い行いをしたいと願いつつも、空腹を嘆いている」
さて、Aを含めた彼らがそうした精神的飢餓状態に陥っていた原因は、さきの老人が嘆いたように、たんに不摂生と肉体的疲労にあった。彼らは興奮と士気を保つために互いに空腹について話すことを避けていた。ほんとうは空腹であるだけなのにそれが言い出せないために言い争う者も昼はいたが、夜になるとその気力も衰えて、しまいには各々が孤独に思いを巡らせた。彼らの嘆きの合間には子どもの寝息が響いていた。大人たちは代々引き継がれていく行進と、その先に待つ到着に甘い空想を思い描き、みずからの生を遠ざけようとした。その結果、夜中になると嘆きは静まり、無数の息の音だけが東風とともに鳴っていた。大人たちは自分たちが何も果たせずに死ぬと決め込んで横になり、子どもたちは夢のなかで明日を思った。
明け方近く、東の地平越しに照らされた雲から一滴、また一滴と雨粒が降り落ちて、彼らの渇いた身体を濡らした。彼らは身を起こし天を見上げ、視界の隅に人影を見つけ、それが〈父〉だとわかるとすぐさま身をかがめ拝した。〈父〉は両手を天に掲げて叫んでいた。
「子らを潤したまえ」
雲間からさす光の束がAを包み、その神々しさのために彼らは雨を降らせたのが〈父〉だとすぐに信じたが、なにより彼らを喜ばせたのは〈父〉が自分たちを〈子〉と呼んでくれたことだった。彼らの身体は蘇ったように生気を取り戻し、雨粒を口に受けて涙を流しながら乾きをしのいだ。
Aは彼らの心のうちが手にとるようにわかる気がした。だが同時に、彼らの心の高揚がやがて冷え隙間が生じる時、たとえば昼の日の照る時間に、どのような変化も見せない荒野に語るべき言葉を見失う姿を想像するだけでおそろしくなった。掲げた手を下ろすことも、彼らを見下ろすことも怖くなり、雨が止んでもそうしていると、
「知りなさい!」
とナミの声が荒野に響き、彼らは目を上げた。
「父はこう言われています。進め、と。これ以上の言葉が必要でしょうか。ご安心なさい。あなたがたには天国が用意されています。死など恐れる必要がどこにあります」
しばらくのあいだ、彼らは沈黙していたが、〈花嫁〉と〈父〉が車に戻るなり、ひとり、またひとりと車を持ち上げて、静かな行進がはじまった。Aは窓から外を見下ろし、彼らの顔からこれまであった迷いが消え去り、まるですでに死んだ者のように前を見つめる姿を発見し、思わず隣で眠る妻子を見やり、自分が彼らを救えなかったことを思い知った。行進を続ける彼らの、冷たくそれでいてどんな嘆きも見当たらない顔を見ていると、またしても嫉妬がめばえて、その嫉妬に勝手に苦しんで、自分も父に思いを馳せようと記憶を辿ったが顔は見つからなかった。しかし感情はあった。それは彼ら、Aを〈父〉と呼ぶ人びとが抱く畏敬と服従の対象ではなく、むしろ同情に近いものだった。どんな出来事があったかは憶い出せなかったが、父がひどく苦しんで、人知れず泣いているように思われた。Aはその感情のもたらす息苦しさを味わいながら荒野を見やった。両手で目をこすって泣くひとりの男の子がいた。
六
〈父〉とその子らは、何十という夜を超えて荒野を進んだ。しかしいつまで経っても目的地には着かず、次第に人びとの心に隙間が生じはじめた。それも無理のないことで、彼らはもうながらく父の姿を見ていなかったし、雨も降らず食料も限られ、睡眠確保のための夜も自身の信仰との格闘のためにろくに眠れないのだった。
ユスという男がいた。その父が妻の不貞をきっかけに一人息子である彼を連れて家を出て、目的地もなく彷徨ううちに〈父〉とその信徒たちを発見し、彼が起こした様々な奇跡を知るに至った。以来、親子は巡礼を続けたが、父は半年前に殉死を遂げた。ユスがもう何年も変わらぬ荒野の景色を眺めていると、その父が最後に漏らした言葉がよみがえった。
「ああ、ついに終わりですか、そうですか」
しばらく前から他人の顔が識別できなくなり、言葉も通じなくなっていた父は、死に際の一時間ほどを誰もいない荒野に視線を向けてまるでそこに誰かがいるかのように話していた。
「そうですね、わたしはいつもあなたといました。生まれた時から今までずっと」
父が元来寡黙で、そのために妻に不満を持たれ見限られたことを知っていたユスは、父がこれほど喋っている姿を見たことがなかった。
「父さん、誰かいるの」
と尋ねたが、返答はなかった。父は、これまで見せたことのない笑みを空に向けていた。なんとか自分に向けさせたい、とユスは思った。なぜなら彼は、路上生活で食料を調達し、落胆する父を言葉で慰め、巡礼においては常に足の悪い彼の肩を支えていた。その父が最後の最後で別の誰かに笑いかけているのが納得できず、しかし同時に安心もした。母や自分では与えられないなにかを幻から受け取り、まるでそのことを疑わない。自身の貧弱な生をこらえてきた父への報いだと考えると、あの日、自身の過失に涙を流していた母ではなく、無言で荷造りをはじめた父の手を握った自分を誇らしく思えてきた。だからユスは父を支えた〈父〉に感謝していたが、生きているあいだの父への報酬のあまりのすくなさに悲しくなるのだった。それに加え、ユスは自身の信仰に確信がなく、父の生を鼓舞する機関としてそれを見ていただけで、あくまで父との扶養上の関係のための装置に過ぎなかった。だから信徒たちが、実際に秘蹟を目撃したわけでもないのに追従する理由がわからなかった。かと言って彼はほとんど物心のついたころからこの旅の参加者であり、外になにがあるかなど見当もつかないまま歩くほかなかった。しかしこのごろ、〈父〉に対する思いに変化が生じはじめた。夜毎に彼を悩ます父の痩せ細った面影が、彼に途方もない怒りをもよおさせた。その対象は親切にしてくれるが信仰に対してあいまいな回答しかしない信徒や〈父〉だった。また同時に縋りたいとも思うのだった。へりくだるだけの信徒よりも、出会ったこともない、いるのかどうかもはっきりしない〈父〉のほうがいくらか信頼できたからである。その相反するふたつの思いはユスを引き裂き、その頭にのしかかるのだった。
そんな彼のもとに、人伝で預言者のうわさが届いた。その男は西に、つまり列のかなり前方にいる老人で、天候や食糧の配給時期を見事に言い当て、信徒の士気を昂らせているのだという。分裂した思いにいまにも参ってしまいそうだったユスは、噂を聞くなり列の前方に向かうことに決めた。仲間たちにそれを知らせると、
「あぶないからやめたほうがいい」
「知らないやつばかりだぞ」
「偽占い師にちがいない、だまされるな」
と彼らは引き留めて、説得は数日に及んだ。しかしある夜、ユスは皆が寝静まるのを見届けたあとでこっそり抜け出した。空腹をこらえて明け方まで歩き、列が砂埃をあげながら進み出すと、それとなく人びとのなかに隠れた。そんなことを夜毎に繰り返し、ひと月が経ったころ、前方でやたらと陽気に歌う人びとがいるのを発見した。鼓の音がした。人びとは楽の音に合わせて飛び跳ねて、父よ父よと叫んでいた。ユスが近づいてくると男が名も名乗らずに肩を組んできて、
「楽しもうや」
と彼の身体を抱えて飛び跳ねた。
すると、ユスも楽しくなってきて音に合わせて自分で飛び跳ねた。彼らは酒を飲み、男女の境もなくはだけた服で重なり合い、押し合い、互いに吸い寄せられていた。その光景はユスの目に楽しく映ったが、彼は彼らに馴染めない思いで観客然として眺めていた。しばらくして彼にもお鉢が回ってきた。水着を着た女が寄ってきて、一度も女に触れたことのない彼は彼女を避けるように飛び跳ねた。女はなにがおかしいのかそんなユスを見て笑いながら追い、最後には捕まえた。
「どうして逃げるの」
「逃げてなんかいないよ」
「嘘だ。逃げてた」
なんの躊躇いもなく頬に口づけをした女は、ユスを地面に押し倒し、身体を重ねてきた。自分を見下ろす女を見上げて、その顔が自分の好みであることに気づいたユスは、にもかかわらず解消されない違和感のために表情が保てず、それは女の表情にゆっくりとうつっていった。
「どうしてそんな顔するの」
「わからない」
「楽しもうよ」
「楽しみたいの」
「……そうよ」
「なら教えてくれない。なんのために楽しむか」
女の表情はユスに対するいらだちを隠そうともせず、ひきつり、歪んでいった。まもなく小言を残して去っていった女は、別の男を捕まえて裸で抱きつき、いかにも楽しそうに身体を揺すりながら、挑発的な目をユスに向けた。ユスは彼女を傷つけてしまったと感じ頭を下げた。すると女の表情はまたも歪んだ。その後も次から次に女があらわれてはユスを誘惑し、果てには男までも寄ってきた。ユスは彼らと話がしたかった。どこから来たのか、どこへ行くのか、いまどんな気分なのか。そんなありふれた話題を求めると、誰も彼もが不機嫌になり彼のもとを去っていくのだった。
疲れ、嫌になってしまった彼は隅のほうで誰にも気づかれないようにしていると、そばを歩く男女が誰も彼もうなだれて、頭まですっぽりローブで隠していることに気づいた。陽気な人間に嫌気がさしていたユスは、彼らの塞ぎ込んだ様子が好ましく思え話しかけた。ほとんど皆が無視したが、何度も断れられるうちにユスの気分が沈んでいくと、哀れに思ったのか答えてくれるようになった。だが、どこから来たのか、どこへ行くのか、どんな気分かという質問には答えてくれずに、陽気な連中に対する不満を並べはじめ、自分たちは歩きながら瞑想しているのだと熱を込めて講説し、ユスにもそれを勧めた。なんのためにそれをするのかと問うと、彼らは声を揃えて〈悟りのため〉と答えた。なんのために悟るのか、悟りとはなんなのかと問いかけたかったユスだったが、彼らは矢継ぎ早に瞑想についての説明をして、無理矢理彼の目をつむらせた。そして互いに肩に手を触れ合って、歩みを止めずに瞑想をはじめた。砂の音がした。靴が砂に触れる音。それから風。ひゅーひゅーと東風が身体をかすめていった。声もした。騒ぐ声、不満を言い合う声、祈る声に、幻を語る声。悟りに至る道は遠のいたようにさえ思われて、彼の身体は自然と音のないほうに傾き、転び、倒れ、人にぶつかりながら進むうち、人の声は止んで、やがて風も砂の音もしなくなり、そのために歩みが止まりかけた。そうして無音のなかを手探りで進むうち、恐れは気楽さに取って代わられ、群れを離れていたとしてもそれでいいと考えるようになった。すると閉ざされた視界になにかが見えた。光にはちがいなかった。しかしそれはぼやけていて、無数の光源が十字を描いてゆらめいていることしかわからなかった。
突然何者かが彼の腕を掴み、頭に覆っていたフードを剥がした。老い、顔のしおれた男だった。その濁った目が彼を観察し、それから言った。
「いたぞ」
老人の背後には数名の男たちがいて、そのさらにうしろには行列が東から西へと伸びているのが遠目から認められた。男たちはユスに近寄ると言った。
「ホセ様がお呼びです」
「ホセとは誰です」
「預言者です」
「ぼくになんの用があるんです」
「ついて来てくださればわかります」
そこでユスは振り返り、自身の進もうとしていた方角に身体を向けた。灌木と小石の他にはなにもない地平の先に光があった。その光はまるで鏡が陽光を跳ね返すようにゆれていた。しばらくして彼は踵を返し、男たちはそのあとに続いた。
天幕のかかった御輿に乗せられた預言者は、死んだように椅子に身体をもたせかけ、ユスが目の前にあらわれてもなにも言わず黙っていた。預言者のとなりには別の男がいて、書記台に向かってペンを手に持ち、身体をこころもち預言者のほうに傾けて耳を澄ましているらしかった。しばらくして書記官は言った。
「その者です」
人びとはその言葉を聞くなり、おさえていたものがあふれ出したようにざわめきだし、それは書記官が諌めるまで続いた。
「静寂に」
人びとはすぐに黙り、視線を下げた。
「名は」
「ユスです」
「ユス、ユス……いかがでしょう」
書記官は、どう見ても死体にしか見えない預言者の顔に耳を傾け、何度かうなずいたあとユスを見やり、それから手元でなにかを書きはじめた。ユスがその筆記の早さに驚嘆していると、書記官は顔をうつむけたまま、
「なにを見た」
と言った。
「塔を見たか」
「十字の光が」
「光……」
書記官はまたしても預言者に耳を傾けた。それからまた書記台に向かって書きはじめたかと思うと、
「伝令」
と叫んだ。すると二人の大男がやってきて、書記官のまえに立った。
「時はきた。〈父〉のもとへ行こう」
伝令係の男ふたりは敬礼を済ませると書記官とユスを肩車で担ぎ上げ、西に向かって走りだした。人びとは鬨の声をあげ、手を打ち鳴らし、父の名を叫びつつふたりを見送った。
「きっとこう思っているだろう」
しばらく進んでから、ユスが過ぎていく巡礼の人びとを眺めていると書記官は言った。
「やっと父に会えると。期待はするな。落胆するのがオチだ」
「どうしてわかるんです」
「百五十人。なんの数かわかるか」
「いえ」
「候補だ、お前のような」
「なんの候補です」
「預言者だ」
「御輿にいた方は誰なんです。預言者じゃないんですか」
「ああ、あれか。あいつはおれの父親。頭のいかれた男だ。病気なんだ。おれが物心ついたころからああだった。わけのわからない言葉を繰り返してた。それで天気、風向き、そんなことを話してるうちに、それがたまに当たるもんだから信じる奴がでてきた」
「……じゃあ」
「そう。ぜんぶうそだ。おまえは献金のための見せしめ。生贄なんだよ」
ユスの脳裏に自分を送り出した男女の顔が浮かんだ。誰も彼もよろこんでいた。痩せ衰え、渇いた肌に皺をつくりながら。
「では、父のところには行かないんですか」
「父か……見たいか」
「はい」
「わかった。急げ」
書記官が言うと、大男は走る速度をあげた。すでに十分速かったが、彼らは歯を食いしばり筋肉に血管を浮かせながら荒野を進んでいった。列をなす人びとは何事かと彼らを見やった。吉報かとその姿を追おうとしたがすでに影は消え、やがてこのような光景を何度も見たことを憶い出し、日常へ戻り、その単調な忍耐に吐き気を催しそうになった。
大男たちは書記官とユスをのせて幾夜も走り続け、ある晩方にふたりそろって倒れた。その勢いのまま地面に投げ出された書記官は、痛みをこらえて立ち上がるとすぐさま大男たちに寄り、
「安心しろ。天国はそこにある。大丈夫だ」
と、白くなっていく彼らの顔に手を触れた。やがて彼らの呼吸は速くなり、いちど大きく吸ったかと思うと、それきり止んだ。三人とも泣いていた。だが書記官は涙を拭いて立ち上がると、
「行こう」
と言ってまた進みだした。だがユスは死んだふたりから目が離せず、動けなかった。書記官は彼の袖を掴み強く引いたが、それでも動かなかった。
「同情か。失礼なやつだ。こいつらはお前のために生きたんだ。走るために生きた。おれたちよりどれほど高尚か」
書記官は粘り強く、やがてユスの身体は引かれていった。
しばらく進むと、視界のうちに車を担ぐ十人の男があらわれた。彼らの先に人はなく、覆いをかけられた車体には、パンや水や金といったさまざまな捧げものが置かれていた。そのそばに蝋燭が無数にたてられ、ちいさく灯された火は今にも消えそうになりながら風にゆれていた。書記官はそのそばにいた男に声をかけ、なにやら事情を話すと車に乗って、ユスの手を引いてあげてやった。ボンネットまで移動し、フロントガラス越しに車内を見ると、そこには誰もいなかった。
「さあ帰ろう」
書記官が口笛を鳴らすとどこからともなく大男二人がやってきてふたりを担いだ。ふたりは揺られ、一日もしないうちに預言者のもとへ戻ってきた。拍手と喝采で迎えられた彼らは、花吹雪を浴びながら預言者のもとへとのぼっていった。ふたりは預言者の手に口づけしたあと、民のほうを向いた。書記官が手をあげ語ろうとすると、それを遮るように、
「聞け」
とユスが叫んだ。
「道は正された。もう迷うことはない。わたしは見た。いくつもの光を。〈父〉はその言葉を信じた。見ろ。いまにわれわれは光に到達する。だから心に命じろ。伝令者、いやそれだけではない、これまで失われた命をおぼえておくように。彼らは死後もわれらのうちにあり、生き続けている。わたしは〈父〉を見た。光そのものだった。光が、光に帰らない。そんなことがあるだろうか。疑心に苛まれることのないよう。われらの道は〈父〉の道、つまり光の道なのである。さあ、生きよ。そして命を継ぐのだ。光に到達するために」
人びとは涙をこぼしながら歓声をあげ、そのうちのふたりの女が伝令役ふたりの遺影を掲げた。高揚と悲嘆が荒野にこだました。
ユスは預言者のもとへ来て跪いて、
「父よ」
とささやいた。
預言者の頭巾をあげると、そこにあったのは骸だった。
七
家を建てて静かに暮らしたいという妻の願いを叶えるために群れから逃げ出してすでにひと月が経っていたが、Aはその願いをいまだ実現できないでいた。夫婦は星の群れのしたで、慣れた手つきでテントを張り、娘のタナを挟んで横になった。ナミはすぐにいびきをかきはじめ、タナはすやすやと眠った。Aはタナの顔を眺めながら、眠れずにいた。
外では風が砂をはらんで吹き抜けていく音がして、そのうしろに人や獣の足音が遠く鳴っていた。Aはその光景を空想し、その景色のうちに一軒の家を思い浮かべようと努めたがうまくいかず、妻の言葉を思い返した。
「おおきい家、庭もあって、囲いもある。天窓からは光がさす。部屋は最低五つはいるね。あたしとタナの部屋。それに居間、物置、クローゼット。そういう家がいいわ」
「ぼくの部屋」
「わすれたの、そんなの要らないって言ったこと」
果たして自分はそんなことを口走ったのか、と記憶を辿ってみたが憶い出せず、きっと妻による捏造にちがいないと結論した。かといって自分の部屋が欲しいかと考えると、あるには越したことはないが、実際にその部屋を思い描くことはできなかった。なんの用途も見出されずそのままにされた部屋を想像するだけで息苦しさが募り、妻の虚言が自身のほんとうの望みと合致していることがまるで彼女に負けたように感じられた。だが、さしあたりは考える時間がある。彼はそう言い聞かせ、家を建てるまえに葬儀に参加するという妻との約束をとりつけた自分の賢さを自分で褒めてやりたくなった。
生まれた時は猿のようだった娘の顔は、いつのまにか人らしくなった。眠りながら、時折高い声で唸り不満な表情をつくり、脈略もなくほほえんだ。Aのことを〈パパ〉と、ナミのことを〈ママ〉と呼んだ。まるでそうされることがあたりまえであるかのように不満があれば泣き、気に添えばよろこんだ。それらの発露は瞬間的に発し、満たされると忘却の彼方に消えさった。だからAは、タナがおもちゃがわりの小石を積んでケルンをこしらえるのに集中している姿などを見ると、彼女の記憶からは自分もナミがすでにいないのではないかと疑いそうになった。にもかかわらずきらきらと光る目で過去や未来に関する何事かに悩まされるそぶりも見せない娘が、いったいなにを支えにそこにあるのかとうらやましく思った。妻には疎まれ、娘には生活的必要がない限りは必要とされない彼は孤独を感じた。そこまで考えて急に心細くなり、父さん、と呼びかけてみようとしたが、その音は口にするだけでむず痒くなるほどに自分には不似合いに思われた。呼んだことがないのだ、と考え、その関係の希薄さに嫌気がさした彼は目をつむって忘れようとした。
眠れないまま、いつのまにか外は明るくなっていた。タナは布団の上でのたうちまわり、くしゃくしゃになった顔を赤くしていまにも泣きだしそうだった。Aはタナを抱えて飛び起きると、音を立てないように細心の注意を払いながら外へ出た。東の空低くから顔を覗かせている太陽が荒野の地平を静かに照らしていた。風もほとんどなく、人気もない。あうあう、というタナのぐずる声だけがはっきりと響き、Aは可能な限りテントから離れようと走り、数分で地面から聳り立つ巨岩を見つけ、その奇妙に割れた裂け目にふたりそろって入っていった。そこは円形のちいさな砂地になっていて、彼は娘を横たえた。その甲高く、目の前の父さえ捉えない瞳を見て、やっぱりだ、と彼は思った。
主に明け方、寝息をたてて上機嫌に寝ていると思っていたタナは今のように急に泣きだし、授乳しようとしても手で払いのけ、あやそうと抱いて揺らしてやっても泣き止まなかった。そうするうちに、育児のために擦り切れた妻の神経は限界を迎え、その表情はみるみるうちに曇り、夫がただ泣きたいだけだと説得してみても不機嫌はなおらず、仕方なしに外に出して泣き止むまであやして帰ってくると、今度は自分が必要とされていないのだと不貞腐れた顔をした。だから彼はいつでもタナが泣きそうな時には、妻にそうと気づかれないように娘を連れ出し、泣きたいだけ泣かせておくことにしていた。
岩に腰かけて、荒野に響くタナの泣き声を聴きながらゆっくりと高度を上げていく太陽とともに、風が吹きはじめ、遠くから人の足音がぽつぽつ聞こえた。やがてそれらの音はおおきくなり、タナの声もそれにかき消されてしまった。テントを片付ける旅人が各自の不手際を詰り合いながら、それでもともに歩きだした。地質学者らしき男は荒野に転がる小石を虫眼鏡越しに睨んだ。身を寄せ合い、長いマントを一緒に被った二人の男は、あたりを気にしながら頭を低くして歩いた。鷲に捕まった赤ん坊は、地上を見下ろして笑いながら空を過ぎ、巣に落とされた。伏して泣く母親がいた。茫然自失の父親は、その光景に絶望しつつも作業に戻り、どうにかこの現実を計画の一部だと言い聞かせようとした。そこからすこし離れた場所では、夜中から格闘していた別の母親の腕のなかで血まみれの新生児が泣いていた。Aは、一日のうちに許されたこの十分ばかりの時間そうした景色を眺めることに費やし、自分の身体が荒野から引き離されるままにした。ナミのことも、タナのことも、自分自身のことすら忘れてしまい、まるで一幅の絵巻を眺める気持ちで眼前の騒がしさを眺めていると気分が安らいだ。しかしやがてスープのいいにおいが風に乗って彼の鼻をかすめると、それまで見ていたすべてが彼に嫌悪感を催させ、その美味みを知っているにもかかわらずスープのにおいがまるで懲罰のように感じられた。彼は石の狭間で眠っているタナを抱き上げすぐにテントに戻ろうとしたが、西に続く荒野から目が離せなかった。塔までの距離はずいぶん近くなり、輪郭ははっきりと捉えられた。いままではそれが蜃気楼による妨げのためだと思い込んでいた歪な形状は実際にそのようであって、塔は蛇のようにうねりながら天に向かって伸び、先端にひらかれた口からはもくもくと黒い煙が昇り、風にたなびいて消えていった。あと数日のうちに着くことになる、と彼は思い、遺産を手にしたあかつきに妻と娘に与えられる家や生活を空想せずにはいられず、そうして回復する家庭内での自身の尊厳とは裏腹に、そこになんの喜びも見出せない心にも気づいた。
「冷めちゃったけど」
努めて笑顔を保ちテントに入っていくと、ナミは目もこちらに向けずに鍋から器へとスープを移しながら言った。それからタナの笑顔に気づくなり、彼の手からほとんど無理やりに娘を取り上げると、娘と顔を突き合わせて遊びはじめた。Aはいただきますと言って平らげると、授乳させるナミのそばで食器を片付け、ちいさな塔のようにそれらを積み上げるとテントを出た。しばらく行ったところに小川があり、スポンジ代わりに砂で汚れを洗いテントに戻ると、子守唄をうたう妻の邪魔にならないように荷物をまとめテントを片付けた。荷物を背負った彼は妻に呼びかけようとしたが、地面に座り込んだナミは娘の顔を覗き込みながら乳をやっていた。Aは手持ち無沙汰で背を向けて待った。
出発したころには正午をかなり過ぎており、西に傾いた太陽が彼らの顔をもろに照らし、焼けつくようなその暑さを凌ぐために手で庇をつくった。Aは妻と話す話題を探したが、荒野には手がかりになりそうなものはなにひとつなく、
「体調はどう」
という当たり障りのない、ゆえに妻を苛立たせる言葉を吐く結果となった。
「悪いに決まってるでしょ。二時間おきに起きては授乳してるんだから。あなたはいいよね。ずっと寝てられるんだから。こっちはそうはいかない」
「ぼくが抱くよ」
「いい」
彼は気が済まず、妻が背負っていたリュックを無理やり奪い、背中の荷物に重ねた。そうして沈黙が帰ってきた。一時間ほど歩くとタナが泣きはじめ、授乳させてからまた歩きだすということを繰り返すうちに日が暮れはじめ、夫婦そろって目を擦った。Aが振り返ると、タナを寝かせた裂け目のある巨岩がまだ見えた。塔はまだ遠かった。やがてナミが疲れたと訴え、Aはテントを設営した。
朝はタナを起こして泣き止むまで荒野を彷徨い、ナミが作った料理を食べて体力の尽きるまで歩くというおなじような日々が続いた。行程はわずかながらも確かに進んではいるらしく、やがてあの巨岩も捉えられないほどちいさくなった。そして妻にも変化があらわれた。
「ごめんなさい」
ある午後、体調の悪い妻に代わって娘を抱いて荒野を歩いているとナミはそう言った。Aは気にしないでとさりげなく言ったが、心中大喜びで、まるで自分が家族として認めてもらえたような錯覚さえ覚えた。翌日にはまた強い非難と悪態がよみがえったが、彼女の心根は別にあるのだと思えたのでそれまでのような苦しみは生じなかった。その証拠に、朝のスープには彼の好む豆を使い、時折彼を気遣う言葉をぶっきらぼうにではあるが言うようになった。やがて彼女のほうから話題を振るようになり、Aがうんうんと聞いていると、自身のことについても話しはじめた。
「あたしも父さんの顔、覚えてないの。母さんは覚えてる。だってあたしを取り上げてくれたんだもの。でも、父さんもいたの。抱いてくれた。そばにいてくれた。なのに憶い出せない。ひょっとしたらそこにいるかもね、あたしの父さんも」
それからナミは、荒野の生活の忙しさで忘却に追いやられた記憶を手繰っていった。これは嘘かもしれないけど、と前置きをして。
「あたしは生まれて、それで、気づいたら洞窟だった。暗くて、どこまでも続く洞窟。あたしは必死で土を掘ってた。朝も昼も夜も。育ての親はもぐら。と言っても暗くて顔も見えないから、ほんとうのところは蜥蜴だったのかもしれない。あたしは巣作りのために売られたのかもね。立派な巣だった。ミミズも虫もいたから食べ物にも事欠かなかった。でも、いつだって掘り進めた。外が怖かったのかな。それとも光がほしかったのかな。話してくれなかったからわからないけど、たぶんどっちでもない。だってどれだけ土を掘り進めたって、内か外、それしかないことくらいわかってたはずだから。そうでしょう。でも、あたしは穴倉から出ることに決めた。未練はなかった。けど、すぐにわかった。どうしてもぐらが外を恐れるのか。だって荒野よ。どこへも行けやしない。どこへ行くって言うのよ。だから先生を頼った。見たこともない、ほんとうにいるかどうかもはっきりしない人間を。でも後悔はしてない。だって今でもはっきりわかるんだもの。あたしはたしかに天国を求めてたし、現に求めてる。はりぼての天使でも、あれだけ大勢の人がおなじものを求めてると思うと安心できた。それに、すこしだけ近づけた気がする」
「どうして」
「夫がいるし、娘がいる。望んでもいなかったのに。男は嫌いだし、子供なんて自分の自由を束縛する存在でしかない。その考えはいまも変わってない」
「不幸とは思わないかい」
「そうは思わない。不自由だけどね」
「タナを愛してるかい」
「さあ。でも、そう願ってる」
その夜、寝入りかけていたAにナミが言った。
「起きてる」
「うん」
「ひとつだけ聞いておきたかったことがあるの」
「うん」
「お父さんに会って、それからはどうするの」
Aはその質問を何度も自分に問いかけていたが、自分自身と妻を納得させる言葉はいまだ見つけられずにいた。ふたりを荒野に置き去りにして家族のもとへ戻る気にもなれなかったし、かといって荒野での具体的な生活を思い浮かべることもできなかった。なにより彼は、父に会うことそれ自体が不安だった。父との記憶はあいまいながらどれも朗らかでやわらかであるにもかかわらず。いや、そうであるからこそ、見落としがあるのではないか、自分の都合の良いように記憶を捏造しているのではないかという疑念が生じ、父を見送るための心づもりができないでいた。彼は、それまでとは異なり不安を抱かずに妻の視線をこらえていたが、やがて口を滑らせたように、
「はたらく」
と答えた。
「そう。なにかしたいことはあるの」
「なんでもいい」
「好きなことくらいあるでしょう」
「運転かな、車の」
「どうして」
「景色を眺められるから」
「なら運転手ね」
「うん」
ナミはそれを聞くと目をつむり、しばらくして寝息を立てはじめた。Aはふたりの寝息を聞きながらおなじように目を閉じたが眠れず、こっそりテントを出た。
荒野は星で埋め尽くされた空の下でしんと静まり、遠くから獣の遠吠えを運んできた。西を眺めると塔が丘のうえに聳え立っていた。それまでよりずいぶんおおきく、よりはっきり見えるような気がした。思えばここ数ヶ月、塔を眺めることすらしていなかったことに気づいた。塔には否定しきれない魅惑があり、彼は自然と丘に向かって歩きだしていた。しばらくして視界に割れた、あの日見たものと酷似した巨岩があらわれた。なかに入ってみるとやはりおなじ場所に思われた。彼は信じることができずあたりを見回すと、月に照らされた壁面に絵が描かれていた。群れをなして歩く人びと、獣を生贄に捧げる祭司、犬と戯れる猫、子を川に流しながら泣く母親、。それらの絵が乱雑に配置され、その描かれ方からもそれぞれ別の人間が描いたものだとわかった。反対の壁面には羊を連れて歩く牧者や、川を挟んで向かい合うふたつの軍隊が鮮やかに描かれ、その川を下っていく船の絵を目で追っているうちに丘があらわれ、そこには塔があった。うねる塔の下には四角い巨大な建物があり、それは葬儀場にちがいなかった。それからすこし目をうつすと、そこに娘を連れて歩く夫婦が描かれていた。夫はスーツを着ていた。妻の服装もナミにそっくりだった。娘とも似ていた。彼は後退りをしてから目を背けるように西を見やり、なにか別のことを考えようとしたがうまくいかず、身体も動かせなかった。やがて遠くから泣く声がした。タナにちがいない。彼はそう考え、すると身体は自由になった。Aはテントに向かって走った。しかし近づくほどに泣き声は遠のき、なかに入ってみると妻子ともにこれ以上ないほど安らかな顔をして眠っていた。
八
A一家は丘の中腹の洞窟のなかで身を寄せ合って夜が明けるのを待っていた。タナは両親の手を握り目の前で爆ぜる炎をぼんやりと眺めていた。父と母は無表情を隠そうともせず洞窟から見える荒野を見るともなく見ながら、娘の手だけはしっかり握っていた。やがて景色は白みはじめ、底のほうから淡い光が差しこんできた。
「ねえ、知ってる、太陽は東からのぼるの」
タナは父の顔を見た。
「だからここは西。いつもそう。起きたらいつでも朝日が見える。だからあたしたちは西に進んでる」
「そうなのか、すごいな、それは」
「どうしてなの」
「どうして」
「どうして西に向かうの」
Aはしばらく口ごもり、やがてお前のお爺さんの葬式があるんだと口を滑らせそうになったが、すんでのところでナミが割り込んだ。
「家を建てるのよ」
「家」
「そう、家」
「どうして」
「昼間は涼しくて、夜には暖かい場所で暮らすためよ。それに美味しい料理だってつくれる。お風呂もあるし、庭でお花を育てることだってできるの。タナが好きな本を買ってあげられるし、置くための本棚だってあるの」
タナは母親の顔を見上げながら頭のなかでそのさまを空想し、次第に表情は明るくなっていった。母と娘は互いにどんな外装の家がいいか、犬か猫のどちらを飼うか、自室は一階か二階かといった些細なことを話してたのしんだ。しかし最後にタナがどうしてと問うと、妻は黙って無表情にもどった。娘はすでに燃え殻になりつつある焚き木に目を戻し、退屈そうにしていたが、やがて父親のほうに目をやって、
「そろそろ行かなくていいの」
と言った。Aは無言で立ち上がり、荷物を担いだ。妻と娘もそれに続いた。
丘の頂上に聳える塔は、すでにいっさいの曇りもなくその目で捉えられるほどに近くなっていた。この三年間、丘の円周上に参列者の足によってつくられたであろう道を回り続けたが、塔には辿り着けなかった。彼ら以外にも葬儀の参列者はいて、一様に黒衣をまとった彼らを追い抜いたり、また抜かれたりした。誰も彼も喪に服しているため挨拶しても返事はなかった。いなごを食べることにもすっかり慣れ、タナなどは遠くから羽音を立てて飛んでくる獲物を獲っては誇らしげな顔をした。蛇や雑草も食べた。丘にはおそらく古代につくられたらしい洞穴がいくつもあって、夜はそれでしのぐことができた。長い旅を続けるうちに彼らはすでに不満を持つことにすら飽き、季節がどれほど巡っても日々の繰り返しに終始したが、それを幸せとも不幸せとも思わなくなっていた。しかしどの日にもそれらしい契機、たとえばタナが塔が大きくなったとつぶやいたり、妻が今日は気分がいいと言ったりすることはあって、Aは反復を破りそうなそれらの出来事には意識をやらずにはいられなかった。しかしなにも起こらなかった。だからその日、路上に倒れた女を発見した時も、Aはそれが一瞬なにかの合図かと眺めたがすぐに思い過ごしだと考えなおし、善意をしようという意識もないまま駆け寄った。
「いやあ、申し訳ないね、腰がね、もう歳だね」
老婆はAに抱き起こされながら、服や顔についた砂を払い落とそうともせず、朗らかな笑みを絶やさずに一歩一歩ゆっくり進んだ。ナミはタナの手を握ってそばを歩き、人助けをする夫をまるで他人のように見下ろした。タナは父を見て落ち着かない様子だったが、しばらくして老婆の片手を握ってやった。
「ああ、ありがとうね」
老婆を助けたために、その日はいつもの一割ほどの距離を歩いたところで夜になり、四人は適当な洞窟のなかに身を隠した。タナは自分の毛布を震える老婆に分け与えた。四人して膝を抱えて焚火を見やっていると、おもむろに老婆が言った。
「あなたたちはいい家族だね。人助けされたことなんて、この二十年ではじめてだよ。わたしは誰も助けない。だから誰もわたしを助けない。そんな気持ちでいたからね。だから、倒れていたときは良い気分だった。終わりだ、と思えたからね。待っていたのかもしれないね。ほんとうならすぐに着くはずなのに、自分で回り道を選んで……連れていってくれないかい。母親が待ってるんだ」
Aはうなずいた。三人は疲れのために今にも眠ってしまいそうだった。Aはみずから太腿をつねり、タナは目をこすり、ナミはそんなふたりの手前横になることもできずに娘の背中に手を置いていた。老婆の震えは止まなかった。まずタナがその身体に抱きついた。
「ありがとう」
そう言う老婆の声はすでにちいさく、言葉も不明瞭で聞き取りづらくなっていた。それでAも、そしてそれに続く形でナミも娘ごと抱いてやった。三人はそうしてやっと自分たちの気分が落ち着きはじめたことに気づいた。痩せ衰えた老婆の震える身体を目にしないで済むからであった。それに暖かかった。やがて三人はその心地よさのために眠ってしまい、老婆のつぶやきだけが暗い洞内にちいさくこだました。
タナの泣き声で目を覚ましたAとナミは、そばで冷たく、固く、ちいさくなってしまった老婆の息が止まっていることを確認すると、娘が泣き止むのを待って土を掘った。土を被せる段階になって、タナが自分がやると言いだして、二人はそうさせてやり、不器用に土をかける娘の背中を眺めながら、いつのまにか大きくなったと感じた。タナは道からおおきな石を担いできて、老婆のうえに置いてやってから手を合わせた。Aもナミもそれを真似した。タナは数分そうしていたが、おもむろに荷物を抱えると、洞窟の外に出ていった。Aが大丈夫かと尋ねると、早く行こうと駆け足で進んだ。
正午過ぎのことだった。目を上げると門があらわれて、そこを抜けると白くて巨大な建物があらわれた。荒野の廃墟と同様に窓ガラスは割れ、内部は砂に侵食されていた。そのだだっ広い空間の真ん中に事務机があり、黒いスーツを着た男が気だるそうに座っていた。三人が近寄ると、仕方がなくそうするといった体で身体を起こして、自分は案内役であると名乗った。
「ご親族の方でしょうか」
「息子です」
Aが名を告げると、男は机の引き出しから帳簿を取り出ししばらく該当の名前を探していたが、
「申し訳ございませんが、お父様のお名前を教えていただけませんか」
と申し訳なさそうな顔をした。Aはもちろん父の名前など覚えていなかったし、特定できるような情報もなかったため口を噤まざるを得なかった。そんなAの様子を見た案内役は別の帳簿を取り出して慣れた手つきでページを繰るうちに、あるページを凝視し、Aの顔と見比べた。
「ご案内します」
彼はそう言うと建物の奥に進んでいった。
やたらと長い階段を下っていきながら、案内役の男は言った。
「家族の顔がわからない。最近はそういうお客様が多いので、お気になさらないでください。なにしろ誰もが忙しい、死んだ人間は別ですが。それに亡くなる方が多い。誰が自分の家族で、そうじゃないのは誰か、忙殺されるうちにそんなことさえわからなくなってしまう。これは現代病のようなものです」
男は退屈を紛らわすためか、現代の葬儀の問題点と家族についての私観を語り、顔以外には家族を判別する方法はないとまで豪語した。
「あなたのお父様についてもすぐにわかりましたよ」
「顔だけで」
「そう、顔だけで。低くはないけれども高いとはいえない鼻梁、女のようなふくらんだ唇、そして丸い瞳に剃り損ない伸び切ってしまったような眉毛。それらの部分が、積み重ねられた時の経過によって変化しつつも愛通ずる印象を残すのは、まさに血の継承です。血は内側で流れていますが、それは外にあらわれるんです」
「参列者はいるんですか」
「記録を見る限り、あなたひとりです。ここではたいていそうですが」
そうこうするうちに地下に到着し、広々とした白い空間の四隅にはいくつもの扉がならび、案内役はそのうちのひとつのところまでAたちを連れていき、両開きの扉を開けた。そこはまた白い部屋で、中央におなじく白い木棺が置かれているだけで、そのそばにきれいにならべられたパイプ椅子には誰ひとり座っていなかった。てっきり色とりどりの花で飾られ、中央には遺影が飾られ、泣く声が響いていると考えていたAはほっとして案内役に言った。
「遺産については」
「行政書士のかたがお待ちです。すべて終わりましたら案内いたします」
ナミの顔が生気を取り戻すかのように赤くなった気がした。
「ナミ、悪いけどひとりで行ってきてもいいかい」
ナミはうなずいて娘の手を握った。
「では」
案内役はそう言ってAを室内に促し、自分も入っていくと扉を閉め、軽い足取りで木棺まで歩き、死人の顔を覗き込んだ。それからAの顔と見比べて、まちがいない、と言った。
Aは、からからと音を立てて運ばれていく木棺についていきながら、そこに自分と瓜二つの顔立ちをした男が入っていることがいまだ受け入れることができず、力の抜けた身体をなんとか運んでいた。妻と娘は白い部屋の隅のほうで壁に背をもたせかけて無関心そうに案内役とAを目で追った。黒い扉を抜けると、壁に穿たれた穴があり、鉄の扉の設けられたその空洞の奥は暗闇だった。室内で待っていたと思われる従業員が、穴から突き出した荷台に父の木棺を載せると、案内役はAのほうを振り返った。
「では、これが最後ですが」
「はい」
「なにかご不満がおありですか」
「いえ、ただ……あれはぼくだった」
「この世におなじ人間は同時に存在できません」
「でも、似ていました、あまりにも」
「親子ですからね」
案内役はそれとなく腕時計を眺めたあと、平静を装って口角を上げた。それを見たAはもう大丈夫ですと言ったが、穴に木棺をおさめようとする従業員に割り込むようにして蓋を開け、その顔を覗き込んだ。そして記憶から父の姿を捻り出そうと躍起になったが、一向に手がかりが見つからず、なんとか従業員たちを説得しようと言葉を探した。最後に案内役の男に、もう時間ですので、と言われても返す言葉が見つからず、わかりましたと言うほかなかった。
相続の手続きを済ませると、Aは葬儀場の外に出た。遺産の多さにたじろぎ、怖気づき、最後には顔をほころばせた妻と娘を連れて葬儀場をあとにして丘を下ろうとした時だった。ふと振り返ったAの目に、曲がりくねった煙突からもくもくと風に流れていく黒い煙が見え、彼は自分でも知らぬうちに駆け出した。父の死のショックのためだと考えたナミは夫を追おうとするタナを制して、ふたり揃って建物の陰で休むことにした。
黒い煙は生き物のようにうねりながらたなびき、風に押されて西に傾いて、丘の傾斜にぶつかりながら上昇した。葬儀場から離れるほどに薄くなっていく煙を見逃さないようにと細目で捉え、崖を登り、石から石へと飛び移ったAは、転んだり落ちたりして傷をつくった。
「父さん」
彼は走りながら思わずつぶやいた。煙はなおも空中を上下左右に往来して、彼の心情とは重ならない軽妙さで泳いでいた。自分が不意に死んでしまったという受け止めようのない現実が、過去との連関による正当化も許されないまま、ただむきだしに目の前に差し出されたのであり、なおも肉体に縛られている自分の魂が彼を煙のほうへと駆り立てた。
どんどん急になっていく傾斜に貧弱な身体はついに根を上げて、石を掴んでいた手がゆるみ、彼の身体は転がっていった。さいわい、平らな場所に落下したため右半身を打撲しただけで済んだが、さきほどまで彼を奮い立たせていたいらだちは一転して悲しみに変わった。そしてその悲しみは、彼の記憶の片隅を照らし、そこには自分が、いや自分と瓜二つの顔を持つ父が、息子である自分を抱えて荒野を歩いていた。そばには母らしい女がいて、頭に砂避けをかぶっていたため顔は見えなかったが、東側を歩きながら風から息子を守っていた。不機嫌な顔をしたふたりは、時折互いに憎らしい目線を送り合いながらも、不器用な言葉で互いに労わりあい、息子には微笑みしか見せようとしなかった。
「ここだ」
と父が言った。
父はAを母に手渡すと、背中に担いでいたおおきな荷物をおろし、それを覆っていた布を剥いだ。それは船だった。子どもひとりがなんとか乗れるほどのちいさな、櫂もない船。口元に冷たい感触がして見てみると、母が川から手に水を汲み飲ませてくれようとした。
「さあ時間だ」
父は言ってAを奪おうとしたが、母は寸前に身をひるがえし、川に沿って走りだした。しかしすぐに速度は落ち、息も絶え絶えになったかと思うと、母は膝を地面につき、泣きはじめた。父は容赦なく息子を抱きとり、Aは遠のいていく母の声を聞いていた。
硬く、ささくれだった材木で拵えられた船に乗せられると、Aは居心地の悪さのためにすぐに泣きだした。しかし船が川面で揺れはじめ、その視界のなかに遠のいていく父と母の姿を認めるときゃっきゃと笑った。
やがて両親の姿が見えなくなると、小川、空、雲、そして延々と伸びる荒野だけが残り、その光景が彼の記憶のなかでひと繋ぎになり、石女と村で馬鹿にされていた女に拾われて愛されて育ち、しかしその育ての親の早い死のために住み込みでの工場勤務をはじめ、いまでは顔も忘れた妻と子どもたち、その親族に囲まれていた。そして不意に電車に乗った。荒野に向かって。
ああ、戻っていくんだ。
Aはそう思って、丘に沿って昇っていく黒い煙を眺め、ゆっくりとそのあとを追った。すぐに頂上に辿り着き、煙はゆらゆらと楽しげに流れ、空から地上までを行き来して、不意に消えた。
眼下には荒野が広がり、蜃気楼のために歪んだ景色のうちにはいくつもの塔があった。Aはそちらへ向かおうとしたが、やめた。彼は丘を下って妻と娘のもとに戻ると、
「家を建てよう」
と、来た道を戻っていった。
そのあと、彼は遺産をつかって二階建ての家をつくらせた。彼はタクシー業をはじめた。
九
Aはタクシー運転手として、ほとんどなにも語らず、なにも思うこともしないまま荒野を十年走った。仕事のほかには趣味らしい趣味もなく貯金は増し加わり、娘の一人暮らしを契機に投機をはじめると、資産は父から譲り受けたものの百倍近くに膨れあがった。娘の独り立ちのために軽い神経衰弱に陥っていた彼は、身の丈にそぐわないその資産を用いてタクシー会社を設立し、慈善的精神から、その日の食い扶持に困る人間を雇い、儲かるか否かも気にせず、すでに余暇としか感じられない人生の時間を潰した。ところが会社は成功し、支店は増え続け、やがて荒野に百店舗を構える会社になったころには彼は取締役を退くことにした。今度こそすべてを擲とうと考えた彼は五パーセントの持ち株まで捨て去った。
すでに老人といえる年齢になっていたAを待ち受けていたのは安寧ではなくむしろ混沌であった。彼の妻、つまりナミは彼が職を退いてすぐに認知症を患い、夫のことを〈コフ〉と呼び、それまでついぞ見せなかった愛を示しはじめた。同時に彼女の自室から愛人との数年に渡る不倫の証拠が見つかった。内心では老後は静かな暮らしをと考えていた彼は、どこの誰とも知らない男を演じなければならなかった。Aが自分は〈コフ〉ではないと口にするなりナミは半狂乱で彼を強盗扱いし、口汚く罵りながら追い出そうとした。さいわいにもそれらの記憶は彼女の頭から消えるらしく、しばらくすると親しげに彼を愛人の名で呼ぶのだった。
目を離せばすぐにも荒野を徘徊しかねない妻との介護生活の隙をみて、〈コフ〉なる男について調べてみようとしたこともあったが、自身の会社や友人伝いからはそれらしい情報は得られず、頼りの証拠である手紙には住所の記載もなく、文体にも書き方にも特徴らしいものがなく女なのか男なのかすらもわからなかった。
まさに格闘であった。ナミは規則的な生活をしたが、〈コフ〉が視界にいないとすぐさま混乱に陥り、頭を抱えて泣き出し、その名を叫びながら荒野をどこまでも進んでいった。だからAは、起きている時間はずっと彼女と自分を縄でつなぎ、彼女の視界に無理矢理自分をおさめた。ところがナミは縄を嫌い、目を離せば自分で解いてしまい、見失った恋人を探しはじめるのだった。Aはあの手この手を用いて妻の治癒を試みたが、医師からは単純な認知症であるため薬を与えられただけで、その薬はほとんど効果がなかった。自然療法も試したがうまくいかず、果てには神秘主義的な祈祷師に頼み込んでみると、妻の身体に悪霊が宿っていると告げられ、その発作を抑え込むために月に一度の多額な祈祷料を要求してきた。妻を馬鹿にされたような気がしたAはその提案を詐欺だと罵り、それを機にひとりで看護する覚悟を決めた。
そんな生活が五年も続き、気力体力の衰えにもがかかわらず症状の一向に改善しないことに途方のない絶望を感じながらも、いつしかAは〈コフ〉になりきって妻と交流する時間それ自体に安らぎを見出しはじめた。交流といってもそれは単に妻からの、いや妻と〈コフ〉との未知の関係から生じる時間に過ぎなかった。たとえばある午後、妻は化粧をして洒落た服で全身を着飾りはじめると、行きましょう、と言って彼を荒野に連れ出した。最初は従うほかないことに対する絶望を感じていた彼だったが、長い介護生活にも慣れて妻の要求に応じることになにも感じなくなっていた。ナミはボーリング場まで彼を連れて歩き、
「さあ、楽しみましょう」
とゲームを開始した。しかしすぐにナミの顔は曇りはじめる。Aの投球の様子が気になるらしく、彼女は記憶とその動きを重ね合わせようとして、どうしても重ならないのがもどかしく、やがて不安な表情をあらわす。
「あなたはだれ」
「〈コフ〉に決まってるだろう」
Aはすかさずそう応えた。彼女はAが自分を〈コフ〉と名乗ると、不安が和らぐらしかった。しかしその効果も永続とはいかず、彼はすこしでもうまく投げようと必死になった。試行を繰り返すうち、刻一刻と不安を強めていく妻の顔が、ある時点を境にほんのちいさな確信を感じたように変化し、それは彼自身が感じた変化でもあった。つまり、ボーリングでいえば、ボールを握る力、振りかぶる動作、そして投げ終えるまでの腕の軌跡、それらがその境を機に、これまでどれほど意識してもうまくいかなかったにもかかわらずしなやかな動きを見せ、得点は上がっていった。妻の目は単に〈コフ〉をAと見間違えているのではなく、絶えずAを〈コフ〉に近似させようとした。その目はスポーツやデートの際の立ち振る舞いといった場だけではなく、掃除、料理といった日常でさえはたらき、彼を見逃さなかった。そして、Aは決して〈コフ〉に慣れないことを思い知った。なぜなら〈コフ〉は常に完璧だったから。彼は〈コフ〉を装い、妻を勘違いさせておくだけで精一杯だった。
ナミは脈略なく場所もわきまえずに糞尿を垂らし、食事の際はぽろぽろと口から食べ物をこぼし、空間が捉えられないのか壁にぶつかったり階段から落ちたりしていくつもの青痰をつくり、Aはそんな彼女を守るためにいくつもの介護用品を買い揃え、家の全面的なリフォームさえした。費用は嵩み、蓄えていた老後資金はみるみるうちに減っていき、彼は老体に鞭を打ってはたらきに出るようになった。事情を知った古巣の幹部は快くもとの執行役員の席につかせると提案したが、Aはそれを断り安賃金の運転手をやることにした。常に妻を同伴させるという条件をつけて。Aがこの条件に固執した理由は、タクシーに乗っているあいだ妻が比較的おとなしかったからである。ナミはタクシーに乗るなりいつも、
「ああ、ついに出発ですね」
と、ため息混じりに言うのだった。彼女にとってタクシーは〈コフ〉との重大な旅行の記憶を思いだす契機らしく、彼女の顔は赤らみ、気分も溌剌とした。さらに運転中における珍事、たとえば客を乗せたり、その客の迷惑行為などについても寛容で、
「旅は道連れですものね」
と、あらゆる出来事を受け入れた。ナミは助手席に座り窓の外を眺め、その瞳は常に西に向けられていた。〈コフ〉を演じていたAはそれとなく目的地についてたずねた。するとナミはこう言った。
「いじわる。裸の土地、そう言ったじゃないですか。あたしたちの楽園。忘れましたか、そもそもあなたが教えてくれたんですよ。鳥や獣が生まれたままの姿で死んでいくように、あたしたち人間も裸のままで生きれるできる場所。ああ、ついに……長かった」
「そこでなにをするんだっけ」
「ほんとうにいじわる。わかってるくせに」
「いいから言ってごらん」
「もう……わかった、いいわ。そうね、考えるだけでぞっとする。満たされるってのは怖いことだもの。そう、うん、あたしたちはそこでしあわせになるの」
「でも、いつかは死ぬんじゃないのか」
「そんなはずはないわ」
ナミの症状はすこしずつ悪化していき、Aへの要求は過剰になり、すこしでも〈コフ〉の演技に不備があると殴るようになった。それに比例して老衰していくAひとりでは世話をすることが困難になり、金銭的にはギリギリであったが介護士を雇うことにした。〈執事〉として演技しつつ介護することを了解した介護士カクは、Aが寝ているあいだの介護を担当し、持ち前の技術で〈コフ〉が出張に出ていると思い込ませた。Aは朝になるとスーツに着替え、赤い蝶ネクタイをつけ、窓から家を抜け出し、立てかけてある梯子を使って外に下り、すこし離れた場所にあるタクシーまで走る。〈コフ〉の到着を心待ちにしていたナミは遠くから響いてくるエンジン音に気づき〈執事〉に、
「時間だわ」
と言って微笑むと、荷物を持って外に駆け出す。蜃気楼に霞む荒野の地平から一台の黄色い車が近づいてくるのを見ると、
「やっぱりそうだわ」
と興奮は頂点に達する。やがてタクシーは彼女のそばに停まり、助手席の扉がガタンと開く。運転席にはスーツを着た紳士がいて、ナミはその姿を認めるなり半狂乱で飛び跳ねる。〈コフ〉は静かに言う。
「落ち着いて、お嬢さん。さあ、天国に行く時間ですよ」
天国かどうかはさておいて、ナミの死は刻々と近づいていた。その病を医師から告げられた際、Aは妻の間近になった死をよろこぶと予期していたにもかかわらず、実際には予想外の悲しみにおそわれて、病院で泣いてしまい、夜もまともに寝れなくなった。しかしやがて余命半年という医師の言葉を憶い出した彼は、平静を装って〈コフ〉の演技を続けたが、心の隅にはいつも近づきつつある妻の死があった。
そうして過ごしていたある日の朝、いつものように寝室を抜け出してタクシーで戻ってきたAの目に見慣れぬものが映った。目を細めるとそれは娘のタナだった。その腕のなかには赤ん坊が抱かれていて、そばにはタナよりすこし年上と思われる男が立っていた。
「ただいま」
縄で繋がれた両親、変わり果てた母親と見知らぬ男を演じる父親。自分の過ごしたころとは様変わりした居間に案内されたタナはしばらく言葉が発せなかったが、やがてどういうことかと父に詰問した。Aは妻がいるため〈コフ〉を演じることをやめるわけにもいかず、手元にあるメモ帳に『夜になったら元通り』と書き、そっと娘に手渡した。
「一体なにがどうなってるの」
その夜、介護士がやってきたあと、娘は父の部屋で言った。そのそばではタナの夫と息子がいびきをかいていた。Aは要点を説明した。すると娘はため息をついて夫と娘を見やり、それから両手で顔を覆ってうつむいた。
「それで、お前はどうして帰ってきたんだ」
「お金が必要なの」
「どうして」
「クビになっちゃった」
「お前が稼いでるのか」
「この人、うつ病で。そうだ、あと婚姻届にもサインしてほしいの」
タナは薄汚れた鞄からよれよれになった紙を取り出して父に手渡した。
「そうすれば多少は手当がもらえる」
あきらかにタナ自身も憔悴しきっており、その瞳は暗く、澱んでいた。Aはしばらく迷っていたが、やがて言った。
「介護で、金はない」
すると予想外にタナは安堵の表情を浮かべて、それからすこし笑った。交わすべき言葉のなくなったふたりはしばらく向かい合って座っていたが、やがて父のほうから星をみようと提案し娘は同意した。
ふたりは屋根に寝そべって、空を満たす星雲を見やり、そこでかつて語り合った神話にはいかほども関心を持てず、かといって行き詰まった現実を語る気にもなれず、嘘を、笑うための嘘をさがした。
「母さん、しあわせそうなんだ。父さんを愛人と勘違いしてる」
「あんなに笑ってるお母さんははじめて。お父さんも楽しそうだった」
「そうしないと怒るんだよ。殴られるし、蹴られるし、でも、楽しいときもある」
「たとえば」
「そうだな……その愛人がどうやらどうしようもないほどに完璧らしいんだけど、お父さんは普通の人間だろう。だから完璧であろうとするんだけど、いつも失敗に終わるんだ。だからお母さんはいつも不満なんだけど、タクシーに乗っているあいだだけはちがう。お母さんが怒るから客からは金を取らないようにして、預金から会社に金を払ってるんだ。それで、客を乗せて目的地まで運んでやると、お母さんは満足そうなんだ。どうしてかわからない。でも、ほほえんでる」
「それが完璧だからじゃない」
「強要されてるからな」
ふたりは笑って、やがてその笑いがおさまってくると、娘はため息をついて、
「なんか、大丈夫な気がしてきた」
と、父のほうを向いた。
「あたしもがんばる」
「愛してるのか、旦那のこと」
「さあ、どうだろう。あの子が先に産まれたようなものだったから」
「捨てることもできたのに」
「その通り。ほんと、自分でも馬鹿だと思う」
「別の人生もあった、そんなふうに考えることはないか」
「いつも考えてる。たとえば、そう、石油王の妻とか、女社長になること。騎手になることも考えた。頭のなかなら宇宙飛行士にだって作曲家にだってなれた。お父さんは」
「……ないな」
「わたしもそうなれるのかなあ」
「さあね」
ふたりは夜通し話した。明け方、ナミは捺印された婚姻届をもって夫と娘の手を引いて荒野を歩いていった。
Aはいつものように荒野からタクシーで家に戻ってきた。すると、いつもはポーチにいるはずの妻の姿が見えず、家のなかに入ってみると、台所で倒れているのを発見した。顔は蒼白で、そのくせ身体は熱く、息は荒かった。ナミはAを認めると、
「ああ、やっと来てくれたの」
と言った。
「早く行きましょう」
Aはなんとかして妻を安静にしておきたかったが、彼女の眼差しにはそれを許さない頑固さがあった。
「どこに行きたいんだい」
「決まってるわ、知ってるでしょう、楽園よ」
「それはどこにあるんだい」
「いじわる」
そう言って冷や汗の浮かぶ顔で微笑んだナミは、すっと腕をあげて西を指差した。Aは彼女をタクシーまで運びながら、いつのまにか軽くなったその身体が痛ましく、すぐにでも死なせてやりたくなった。しかし本人は青ざめた顔で期待に胸を膨らましている様子で、輝く目で西を見やり、助手席に座らせられるなり、急ぎましょうと催促さえした。
客を拾わず、燃料の残量のことも気にせずにAは車を走らせた。ナミは窓の外をしあわせそうに眺めていた。そこには地の果てまで続く荒野があり、小石が転がり、灌木は長い年月を堪え、風はどこからともなく吹いてきて、やがて去っていった。朽ちた建物のそばに新設のビルがいまにも完工を迎えようとしていた。人もいた。彼らは共通の目的地を持たず行き交い、ある信条のもとに共同体をつくる者たちもいれば単独で歩き続ける者もいた。象や鹿、それに虎もいて、一様に子供を連れて砂の上を行き来し、獲物を捕らえては食い、そして眠った。ナミの澄んだ瞳にはそれらが映っていた。
彼女は言った。教えて、それはどんなところ。彼は言った。そこにはなんでもある。けど、なにもないんだ。光があふれていて、影はない。なぜならなにもないから。ぼくもきみも光に溶けていなくなる、一緒になる。ほら、もうすぐだよ。
十
最初に車が根を上げた。急な出発のために修理する金もなく、Aは足腰の不自由な妻を支えて荒野を歩いた。
「あの丘、なつかしい」
妻の指差した丘は荒野のど真ん中に不自然に隆起し、扇状に枝を伸ばす巨木を抱えていた。葉は青々として風に揺れていた。
「あなたはやさしかった、あのころも」
道中不自然に呼吸を荒くして青ざめた妻を幹に腰掛けさせてやると、いつもの平然とした明るい表情をAに向けた。Aは妻との旅をはじめてからこの数年、常に祈り続けていた願いがいま成就しつつあることを知り、迎えるであろう自由で孤独な生活が途端に怖くなり、妻のそばに座して肩を抱いた。震えていた。
「そう、おぼえてる、あたしたちはあの場所からやってきた。ふたりでね。完璧だった。ぶどうを取りに来たけど、どこにもなくて、もちろんそんなものは本気になれば手に入るんだけど探してみるのがおもしろくって……たのしかった」
「なあ、Aについておぼえてるか」
「A」
「ほら、スーツを着た」
「ああ、憶い出した、そう、ずいぶんかわいそうな人だったわ、なにも信じていない人、信じていることを疑う人」
「彼についてどう思う」
「あたしたちとのちがいは、彼がいつかは死ぬということね」
ナミは永遠の命について何度も語ったことがあった。〈コフ〉と彼女はそれを持っており、他の人間は損なっていると、彼女は言った。なぜなのかと彼女に問うと、あたしたちはもう死んでいるから、と答えた。人は二度は死ねないわ、と笑った。
「目に見えるすべてが気に食わない、そんな人だった。だから憂鬱だったでしょうね。かわいそう、ほんとうにかわいそう。こんなにあるのに」
Aはその言葉をノートに書き取った。それから妻が呼吸を荒く、奇妙に身体を上下させつつ震えはじめたのを見て取って、その残酷な光景を目にしたくないがために抱きしめた。ナミは五分ほどそうしていたが、やがて静かになり、Aの抱きしめていたその身体は動かなくなった。
予期していたような悲しみはなく、すぐさま土を掘りはじめたAだったが、寂しさは残った。土に触れていると、洞窟で娘と三人で過ごした日々が重なった。同時にこれ以上ない自由を感じていた。心のうちでは、新たな女を見つけよう、あるいは男友達でもいいなどと考え、その可能性は荒野の広さと同等だったが、同時にナミより満足を与えてくれるような人間を見つけられるはずがない、そもそも相手が自分を好きでいられるはずがないなどと否定的な、それでいて現実的な思いも湧いてくるのだった。彼が着ていたのはベージュのスーツで、それはナミによって選定されたものだった。かき上げ、うしろに向かって撫でつける髪型もナミの指示だった。思えば、埋葬することについても彼女から学んだ。
「それは死人よ。ただの物なの。だから残すべきものなんてない。だから埋めるの。腐らせて、土に還すの」
ナミはそう言って、心配する夫を諌めた。家の建設にあたって親身になってくれた友人の葬儀に参加したときのことだった。彼女はすこしも取り乱さず、泣く人びとに囲まれても平然としていた。
「言っておくけど、魂なんてないわ。それなら記憶は。それもまちがい。記憶なんて、いずれ消える。あなたも、あたしも、タナだっておなじ」
Aはこの旅で妻が何度も口にした言葉を憶い出した。
「あたしたちに身体はないわ。魂も。なにもない。死なないの。ああ、しあわせ」
その言葉を何十回と聞かされたが、ついにAはその言葉の意味するところを理解できないままだった。ところが掘った穴に妻をおさめ、土をかけていると不意にその意味がわかったような気がして手が止まった。そして土のついた両手を眺め、それから顔、腕、胸、足と順に触れて、そこから伝う感触になんの手応えも感じられないことに気づいた。とたんに不安になった。土を掘り返し、妻の死体に抱きつきたいとも考えた。しかし、そうはせず、ただひたすらに土を妻の身体のうえにかけ、次第に全身が汗ばんできた。
妻にかぶせた土を何度も手で打ち、運動をやめることで生じる不安を避けようとしていたAの視界で、重い荷物を背負った女が荒野を横切っていった。その途端にAは妻のことを忘れた。
そばに駆け寄ると、なかば無理矢理に女の荷物を奪い取り、彼女の足に縋るようにして抱きついていた娘を腕に抱いた。女は老人にこんなことはさせられないと何度も食い下がったが、やがてあきらめた。女の住む村に着き、荷物と子供を家まで運んだあと、Aは女の部屋の掃除をはじめ、ポケットに残っていた金を使って果物を買ってきた。そしてついに何もすることがなくなり、女に勧められるままにテーブルを前にして座っていると、これまでの行動のすべてが認知症の妻から指南されたものであることに気づいた。しかし、そんなはずがない、と彼はそれを打ち消して、またもや運動をはじめようとしたが、女の部屋には塵ひとつ落ちておらず、窓ガラスにも曇りがなかった。女の家を飛び出して村の通りに出ると、水を運ぶ男を手伝ってやり、商店の売り物を買える限り購入して、路傍で寝起きする男たちに配ってやった。やがて日が暮れはじめ、若者たちが嫌々門に向かうのを見て取ると、彼らより先に駆けつけて、その巨大な門をひとりで閉じた。ほんとうはすぐにでもひとりになりたかったが、できなかった。わずかでも動きを止めれば、窒息してしまいかねないほどの不安が彼を襲い、過去の記憶が浮かぶのだった。体力の限界がくると意識を失って路傍倒れ眠った。朝日が昇ると目覚め、昨日とおなじように人助けをした。できることなら寂れた小屋で孤独に余生を過ごしたかった。誰かの役に立ちたいわけでも、見返りを求めているわけでもないのに、不安は村人の助太刀を介してしか解消されなかった。しかし、懐疑と不気味さを示していた村人たちの反応は変化し、やがて誰もがこぞってお人好しの老人を家で世話をしてやりたいと言い出した。彼はそれをすべて断り、毎日通りに立って人助けをしては道端で眠った。しかしついに村人のほうが彼の助太刀を拒みはじめた。
「天使さま」
村人はみなAをそう呼んで、手を合わせて跪き、拝した。Aは名づけられた途端に不安が消えていくのを感じた。そして彼らの誤りを訂正した。
「わたしはコフです」
Aは村人の家を渡り歩くようになったが、それは彼らの希望に沿うためだった。良心の呵責か、あるいは善行の快楽に芽生えたのか、彼らは我先にとAを家に招き、家計の許す限りのご馳走を用意した。Aは天使コフと呼ばれ、物を浮かすことができる、病を癒すことができると根も葉もない噂が流れるようになった。噂は人から人へ、村から村へと広まり、遠くから彼を拝するためにやってくる者もいて、彼が町を歩くときにはそのうしろに長い列ができた。ある日、市長がやってきて彼に家へ来てほしいと頼み込んだ。Aは断らなかった。荒野に建つ豪邸に案内されると、めずらしい肉料理やお菓子が並んでいた。市長とその家族は椅子に座ったAを眺め、ほほえみ、自分たちはひとくちも食べようとせず、彼が食べ終えるのを夜遅くまで見守った。そして深夜になり、Aが寝室で胃痛に苦しんでいるころ、市長は自室で軽い興奮状態のために寝られずに、みすぼらしく汚れたAの姿を憶い出していた。村人から絶えず食事を与えられたために百キロを超えた身体を運ぶ老人。青ざめ、色の悪い顔をして頼みをすべて聞き入れる姿。いつもは会話もろくに成り立たない不仲な家族が、彼の目の前では互いにほほえみ、冗談さえ交わすことができた。そう、彼の問題は家族にあった。彼は妻に疎まれ、不出来な息子を軽蔑し、幼い娘を過剰に愛した。役所と家庭で分裂していた市長の心は、そのどちらにも適応できず、『癒される』という天使コフに関する噂を耳にしてそれを頼ろうと考えた。机から立ち上がり窓辺によると、屋敷の外にはコフの信者か、あるいは援助者が数百人いて、焚き火を囲んで座り夜明けを待っていた。彼らが〈何を〉癒されたのか、いまではわかるような気がした。
翌朝、家政婦が天使コフの部屋をノックし、いつまでも返事がないのでそっと扉を開くとそこに彼の姿はなく、あわてた市長は捜索を開始した。便所、押入れ、地下室に屋根裏。どこにも天使の姿はなく困り果てた市長の耳に歌が聞こえてきた。外にいた援助者たちの声だった。
天使の羽
われらを招くその羽音
やさしく、ぬるく、光を帯びた音
いま、赴こう
その地へ、かの地へ
手を打ち鳴らし、音楽に合わせて踊り、天使があらわれるのを待っていた。なるほど牧歌的で、同時に神聖な趣のある曲調で、それを聴く者に安らぎと安寧を与えるであろうとは考えられたが、市長はそこに天使はいないと思えてならなかった。
「いらっしゃいました」
屋根裏の梯子を上ってきた家政婦は言った。彼女について行くと、天使コフの巨体は裏口のポーチの階段に横たわっており、荒々しい息の音から彼がまだ生きていることがわかった。市長は家政婦にこのことを誰にも知らせないように忠告したあと、天使の巨体を物置まで運び、壁にもたせかけてやろうとした。その道中、天使は何度も嘔吐した。
「大丈夫ですか」
市長がそう聞いても何も答えなかった。
「逃げたほうがいいです。みんなが待ってる。そのままじゃあ身体がもたない」
「では、どこへ行けばいいと思います」
「行きたいところはないんです」
「いまでは自分が誰かもはっきりしないものですから……彼ら、ぼくを慕う人たちはなにを望んでいますか」
「天国、みたいです」
「そうか、それなら、そうしてあげないと」
天使は重い身体を起こしながら言った。
「彼らはどこに」
「歌が聞こえるでしょう」
「ああ、ほんとだ」
Aは市長の脇を通り過ぎようとした。市長はその腕を掴んで言った。
「天国なんてあるんですか」
「知りません、ですが、目指すことはできるでしょう」
「そんな……あなたは自分も彼らも欺いている」
「じゃあ教えてください、ぼくは誰です」
話しているあいだもAはとぼとぼと捻挫したらしい片足を引きずって市長から離れていった。
「質問を変えましょう、あなたは誰です」
市長は答えられず、Aは表のほうは消えた。やがて荒野に歓声が響き、市長はしばらく迷っていたが荷物も持たずに彼らのもとへ駆けていった。
それからAは人々のあいだに住み、施しを受けながら彼らの祈りを聴き続けた。糖尿病や癌に苛まれても施しを受けることをやめようとしなかった。彼に対する人びとの信仰の内容は時を経るほどに変化したが、彼を憎んだり軽蔑する者はいなかった。しかしやがて彼を救世主と呼ぶ集団とただの天使だとする集団があらわれ、その派閥争いのさなかに彼は数人の信者とともに村を抜け出した。そして村から村へと巡礼を続け、そこで施しを受けた。
彼の召使い役を買って出たハフという青年がいた。ハフは老体のAを風呂に入れ、服を着替えさせてやるなどして面倒を見た。彼は誰よりもAのことを信頼し、天使からなにかしらの言葉が吐かれるのを心待ちにしていた。また彼は医学に関する知識も持ち合わせており、いつ発作を起こして死ぬかわからないAの看護士でもあった。
ある日、ハフは寝息を立てるAのそばで眠れずに月を見ていた。すると眠っているはずのAが言った。
「見えますよ、きれいですね、三日月ですね」
「どうしてわかるんですか」
「あなたの眼は、わたしの眼でもある」
「でも、あなたの眼はわたしのものじゃありません」
「そんなことはありません。よく見てください」
「無理です……」
「泣かないでください」
Aは痛風のためになかば腐った足で立ち上がり、ハフの背に手を置いた。すると、ハフの眼にハフ自身が映り、おどろいた彼は振り向こうとしたが、
「だめです」
と制され動けなかった。
「いまからあなたに天国を見せます」
Aはそう言うと部屋を出て、階下に降り、家をあとにした。ハフの眼に荒野の地平から顔を覗かせる朝日があった。Aは身を翻してまだ薄暗さを残す西に向かって歩いた。ハフは視界にAがいないことに不安な自分に気づいた。それと同時に、いつも見ているはずの荒野がまったく別の風景のように広がっているのを目にした。そこに自分の好んだ、草花の生い茂る豊かな川の流れる大地はなく、ただ砂原が延々と続く無の荒野があった。
「これが、天国」
「あとすこしです」
Aはそのまま進み続け、やがて四角い建物に辿り着いた。壁は白く塗られ、四方に設けられた窓は風と砂に吹き飛ばされて跡形もなかった。風に押された黄ばんだカーテンがひらひらと揺れていた。家の内部にはベッドと机があったが、どちらも砂を被っていた。Aは窓のそばに椅子を運ぶとそこに座った。ちょうど一幅の絵画のように、窓枠におさめられた荒野がハフの眼に映った。彼は手元を探り、ノートとペンを手にして、可能な限りその光景を描き映そうとした。しかししばらくして視界は暗転した。ハフはAが死んだのだと直覚し、急いで家を出てAのあとを追ったが、目の前の景色があまりにもちがうために記憶は頼りにならず、ただやみくもに走る羽目になった。彼は丘に登った。そしてそこから荒野を見下ろした。大河は芳醇な水を湛えて視界を横切り、それにそって建てられた工場にいくつものトラックが出入りした。すこし離れた場所には高層ビルが建ち並び、スーツを着た男女が携帯片手に行き交っている。住宅街もあって、子供連れの夫婦が散歩をし、若者たちは騒いでいた。犬が吠えている。猫が鳴いている。スズメやツバメが空を飛び交い、そのさらに上を飛行機が飛んでいた。町の片隅で男に襲われた女がいた。家庭と仕事に疲れ果てた男が首を吊った。その縄をつくった会社は大いに儲かった。病院では今にも息を引き取ろうとしている患者のそばで、新たな生命が誕生し、その泣き声は荒野全体にこだました。
e88d92e59cb0ceb2(仮) @tsukiareci
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