その3 お母さんと僕

「うーん、しくった……」

 スマホのアラームで目を覚ましたならば、向かいのベッドから呻くような声が聞こえてきた。起きてはいるようだけど、その身はまだ布団の中にある。

「康介?」

 僕は自分のベッドに腰掛けて、相部屋の同級生に声をかけた。幸いクラスは違う。

「動けない」

「は?」

 ふざけている声色ではなかった。若干悔しさをにじませたそれに、僕は康介のベッドに近寄った。

 何が起こっているのか一目瞭然だった。

 顔が赤い。いつもの鬱陶しいくらいに溌剌とした目は潤んで伏せがちで、自信に満ちた口元はゆるく開いて呼吸はやや浅かった。体温計で測れば三十九度ぐらい出てそうだ。

「昨日素っ裸で寝たとか?」

「お前がさせてくれなかったから何にも脱いでねえよ……」

「……言い方」

 僕と康介は、恋人同士というわけではない。

 康介には想い人がいるようで、不感症ならば相部屋のよしみでお前で練習させてくれと、相手に告白もしてないのにそう僕に頼み込んできた。

 そして僕は僕の睡眠時間をちゃんと確保すること、実施は多くて週三回、肩こりが酷いのでたまに揉んでほしい、という条件をつけて承諾した。

 男同士減るもんじゃないし、恋人同士になる前にある程度慣れておきたいというどうでもいいようなプライドにちょっとだけこいつ可愛いなと思ったこともあって。

 昨日は眠たくて、ぐいぐいと何度もアレを押し付けてアピールされたのだけど丁重にお断りしたのだ。僕は本当に眠くて半分寝ながらだったか。関係の継続を考えてか康介は無理強いはしないからそれで何事もなく終わった。それにだ、明日、もう今日だけど、やったがために列車に乗り遅れるなんてことになれば目も当てられない。息子の帰省を楽しみに待っているだろう康介のお母さんに申し訳が立たない。

 案外私立のくせに融通がきかないうちの学校は、ゴールデンウィークの休みもカレンダー通りだ。全寮制もあって地方からの入学者も多いはずなのに、まとまった休みを設定して保護者のもとへ帰省させようという親心はないらしい。

 今年は日曜を入れて三日間。移動に半日近くを費やす生徒だとなかなか厳しいスケジュールだ。寮が閉じられるわけではないから、たくさん休みがあっても帰省しない生徒ももちろんいる。僕みたいに。

 康介は長期休みはきっちり帰省するタイプ。しかも遠方組。今回も休み初日の今日、十時の列車の切符を買っていたはずだ。

「下に行って氷枕もらってくるよ。熱冷ましいる?」

 下とは寮の管理人室のこと。寮長さんか寮母さん、先生の誰かがいつもいる。

「悪い、頼む……熱冷ましはいいや……もう無理だしな」

 帰省のことを言っているのだろう。確かに熱が下がらなければ無理だろうし、もし今日中に熱が下がって明日帰るとなると日程的にバタバタで、康介もお母さんもゆっくりできない。

 しょんぼり声もどこか熱っぽく力がなくて、見ているこっちがつらくなる。

 親一人子一人だ。お母さんの顔を見たかっただろう。肝っ玉母さんみたいな奴で風邪一つ引きゃしねえ、なんて強がっているけど、康介は女手一つで育ててくれたお母さんのことをいつも気にかけているし、大好きだと思う。マザコンなんて笑うつもりは毛頭ない。

 僕が母親の気持ちなんて簡単に想像つくものじゃないけど、早くに旦那さんを病気で亡くしたという康介のお母さんは相当頑張ってこられたんじゃないかと思う。俺が言っちまったんだ、と康介がいつか話してくれたことがある。新しい父ちゃんなんかいらない、とお母さんに言ってしまったのだと、だから母ちゃんは一人で俺を育てたんだと。

「じゃあもらってくる。その間にお母さんに電話したらいいよ。きっと声だけでも喜んでくれるよ」

 僕はそう言って部屋を出た。

 メールはしているみたいだけど、康介がお母さんと携帯電話で通話しているところを見たことがない。僕に会話を聞かれるのが照れくさくて隠れてかけているのかもしれないけど。

 でももしかしたら、金銭的に負担をかけたくないっていう康介の考えがあるのかもしれない。携帯電話の料金を払っているのは当然お母さんだ。うちの学校はアルバイト禁止だし。……康介なら長期休暇中、地元でこっそりやってる可能性はあるか。

 康介は入学金・授業料・寮費全額免除の、学校でも数人しかいないAA奨学生だ。ああ見えて学力は学年一位なんだから驚く。奨学生は年に一度審査があって、あまりにも素行が悪かったり学力が低下すれば降格または取り消しとなる。だからそのあたり結構大変だと思うけど、そんなそぶりを見せないところが康介で。なんだかんだ言って、あいつは努力家だ。しかも悪い奴じゃない。

 管理人室で事情を話すと、体温計と氷枕とスポーツ飲料を持たせてくれた。熱冷ましはいるかと訊かれたから一応もらっておくことにした。

「康介、起きてる?」

 一切を入れてくれたビニール袋をばりばり鳴らして部屋に戻ると、康介はベッドの端に腰かけていた。もちろん顔の赤みはちっとも取れてない。僕の不審そうな顔に気づいたのか、「電話してた」と携帯電話を持ち上げてみせた。

「そっか。氷枕セットするからその間これ飲んでて」

 起き上がってくれていたのは都合がよかった。枕と氷枕を取り換えるのに頭があっては時間がかかる。 

 蓋を開けて手渡したペットボトルを康介は一気飲みして目を閉じる。少しふらふらしている。早く寝かした方が良さそうだ。熱冷ましをどうしようか迷ったけど、まだ眠れそうだしこのまま寝かしてその後に飲んでもいいだろう。

「いいよ、康介。できた」

 ぽんぽんと氷枕を叩いてやると康介は自主的にベッドに横になった。僕が至近距離にいて何もふざけないなんて余程体がだるいのだろう。

 暑いかもしれないと布団を胸のあたりに掛けてやる。

「母ちゃんありがとう」

 熱で朦朧としてるのか、空元気で僕をからかってるのか。

「どういたしまして」

 僕はちょっとだけ格好をつけて。

 お母さんがしてあげていたかもしれないと思い、康介の頭を撫でてやった。

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