第2話

走った先は、体育館の裏だった。

誰もいない場所。雨の音だけが世界を満たして、私たちはそこでやっと息を整える。


「濡れたね」

「うん」


たったそれだけの会話で笑い合う。

水滴が髪に絡まって、制服の袖が重たくなって、靴下までぐしょぐしょで。

なのにどうして、こんなに楽しいんだろう。

どうしてこんなに、涙が出そうなんだろう。


ふと、彼女の指が私の頬に触れる。

濡れた髪を撫でるように、指先が滑る。

その指があまりにも優しくて、私は何も言えなくなる。

いつもの教室じゃない。

放課後の窓際じゃない。

誰も知らない場所で、誰も見ていない場所で。

彼女は私だけに触れた。


「冷たいね」

「うん」


言葉にしなくても伝わるものがあるなら、それを愛と呼んでいいだろうか。

呼んでしまったら、何かが壊れてしまう気がして、私はただ黙って頷くことしかできなかった。


雨が少しだけ弱くなる。

だけど私の心臓は、さっきよりも速くなっていた。

逃げたくない。

逃げたくない。


「ねえ」

彼女の声が、喉の奥に落ちる。

こんな雨の日に、傘もささずに、ずぶ濡れで。

誰にも知られないままでいいから、このままずっとここにいたい。


「手、つないでいい?」


小さな声。

濡れた指先。

震えているのは彼女か、私か。


答えは言葉じゃなかった。

ただ、そっと指を絡める。


こんなにも近くにいるのに、まだ遠い気がして、もっと強く握りたかった。

だけどそれはきっと、いまじゃない。

いまはこの温度だけでいい。

温度だけで、私はまだ生きていける。


「冷たいね」

「うん。でも、きみのほうがあったかい」


そんな会話を何度も繰り返して、

この雨が止む頃には、きっとまた、何もなかったふりをして、

私たちは教室の窓際に戻るのだろう。


それでも。

この指先に残るぬくもりだけは、

きっと、忘れたりしない。

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