儚くて、尊くて

みなと劉

第1話

雨が降っていた。

 それがどうした、というわけでもないけれど、私の心臓が小さく揺れたのは確かだ。

 窓際に座る彼女が、窓の外に向かって小さく指を伸ばしていた。

 何を掴もうとしていたのか、それとも何かを忘れたくて、その形だけをなぞっていたのか。

 私は知らない。

 知ることは許されていない気がした。

「雨の日って好き?」

 唐突に声が落ちてきて、私は目を伏せる。

 好きか嫌いか、どちらでもないようなことを、私たちは何度も語り合ったのに、今日だけは答えられなかった。

 言葉が生まれそうで生まれなくて、咳みたいに胸を突いて消えていく。

 それが好きだった。

 彼女といる時間は、いつだってうまく喋れなくて、だからこそ特別だった。

彼女は、笑っていた。

 少し泣いているようにも見えた。

 私のことなんて、きっと何も知らないまま、この教室の窓際に座って、いつもみたいに何かを失くしている。

 それでもいいと思った。

 私はただ、彼女の隣にいられれば、それでよかった。

 それだけが、ただ一つの願いだった。

「濡れるよ、傘持ってないの?」

 言わなくてもいいことを言って、私はバカみたいに笑った。

「濡れたい日もあるでしょ」

 彼女がそう言った瞬間に、胸の奥で何かが崩れた。

 儚いものに触れてしまったような気がした。

 ああ、今日が終わる。

 この日も、いつか忘れてしまう日々の一つになる。

 だけど、今日だけは、忘れたくなかった。

「走ろっか」

 そんな提案をしたのは、私だった。

 彼女は驚いて、それからふわりと笑った。

傘を忘れた日も、雨に濡れた日も、いつか思い出になる。

 思い出になるまで、私たちは手を繋いで走る。

息が上がって、涙が混ざって、だけど楽しかった。

 世界がどうでもよくなるくらい、ただ楽しかった。

 雨の匂いが肺の奥まで染み込んで、二人の呼吸は同じリズムになっていく。

 このまま、どこまででも行ける気がした。


 夕暮れが近づいて、雨はまだ止まない。

手は冷たくなっていたけれど、それでも私は繋ぎ続けた。

 このぬくもりが、消えてしまわないように。

 ずっと、消えないように。

 忘れられないように。

 百合だとか友情だとか、そんな言葉で片付けられないものを、私たちは抱えている。

この雨が止んでも、きっと消えないものが、確かにそこにあった。

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