深海零米

かごのぼっち

深海零米の深み

 薄暗い路地裏。


 レンガ造りの古い洋館。


 小さな照明で照らされたボロい看板が立っている。


 『深海零米』


 地下に続く細い階段を降りてゆくと、重厚感のある扉が一枚あった。


 ジジッ、『ABYSS』を象ったネオンサインが明滅している。


 扉を開けると大音量の音の爆風で煙草の煙が押し出された。


 入るとカウンターがあるだけの小狭い店だ。その狭い空間に似つかわしい巨大なスピーカーがブロックの上に鎮座している。

 カウンターの向こうには、大量のつまみが並ぶアンプと年代物のレコードプレーヤーが置かれている。


「いらっしゃいませ」


 男はカウンターに腰を下ろすと、細い煙草を口に咥え、カチン、シュボッ、火を点けた。


 コト。


 男はジッポライターをカウンターに置くと、ふう、ため息混じりに煙を吐き捨てた。


「何か⋯⋯強い酒を」


「⋯⋯かしこまりました。ロックで宜しいですか?」


「一杯目はストレートにしてくれ」


「かしこまりました」


 マスターは棚から年代物のシングルモルトのスコッチを取り出すと、トポポッ、とグラスに注いだ。


 男はそれを見ながら煙草を吸っては吐きを繰り返す。


 コト。


「どうぞ、グレンフィディックのスモールバッチリザーブです」


「ああ⋯⋯」


 男はグラスを鷲掴むと、ぐっ、と飲み干して、コン、カウンターへ置いた。


「ロックだ」


「かしこまりました」


 店のマスターは硝子でできた器に氷を入れて、カシカシ、氷を削り始めた。

 削り出された球体の氷は、まるで計算されたかのようにグラスにピッタリだ。


 コロン。


 カウンター上のフィラメントの光がグラスを透過して球状の氷に反射した。


 トットット⋯⋯注がれる琥珀色の液体が光の波を作る。


「どうぞ」


 男は神妙な面持ちでマスターを見た。


「すまん⋯⋯」


 男は煙草をぐっと飲むと、灰皿の縁に叩きつけて灰を落とした。


 透き通った飴色の液体の中から氷が美しい曲面を覗かせている。

 男がグラスに口づけをすると、氷がグラスをカラン、と鳴らした。


 爆音だと思っていた音楽は今となっては心地良い振動へと変わっている。リズム良くスイングする調べはギスギスしていた男の心を解していった。


 音楽だけが暫しの時を繋ぎ、やがて男は煙混じりの言葉を紡ぎ始める。


「一夜の過ち」


「⋯⋯?」


「たった一度、閨を共にした女がこの世界の人間だったのだ。それが過ちだった」


「⋯⋯そう、なんですね?」


「この世界では魔王なんて肩書は糞の役にも立たん。そもそも魔素がなければ魔法も使えん、つまり俺は、ただの無能な男になってしまったのだ」


 カラン。


 魔王を名乗る男は、残りのスコッチを飲み干してグラスを前に出した。


 マスターは何も言わずにボトルを傾ける。ボトルの口から注がれる琥珀色の液体がグラスになみなみ注がれた。


「サービスです」


 マスターは品の良い笑顔を作ると、グラスを男の前に滑らせる。カウンターは顔が映るほどに磨き上げられており、グラスから透過する光を跳ね返す。


「⋯⋯ありがとう」


 男はそれには口をつけずに、シュボッ、二本目の煙草に火を点けた。


 ふう、煙を上に吹き上げると、高い天井へと霧散する。


「女が他の男に浮気した。しかしこれは仕方のない事かも知れぬ。こちらの世界では俺は無能だからな⋯⋯愛想も尽くと言うものだろう」


「⋯⋯」


「だがしかし、それならば俺の事を見捨てればよいものを⋯⋯解せぬな、人間の女と言うものは。やはり相容れぬと言うことなのか」


「一言、宜しいでしょうか?」


「⋯⋯?」


「こちらの世界は、その⋯⋯女性だけではありませんよ?」


「どう言う事だ?」


「つまり、この世界の恋愛は性別を超えて自由だ、と言うことでございます。例えばですが、私から見てみれば、あなた様はとても魅力的な男性に視える、と言う事でございます」


 マスターが男を見る視線に熱が宿る。


「ほう?」


「まあ、あなた様が彼女しか視えないと言うのであれば、今の言葉は聴かなかった事にしてくださいませ⋯⋯」


「つまり⋯⋯お前は男でありながら男を愛せる、そう言うのだな?」


「左様で⋯⋯」


「⋯⋯その、何だ。肉体的な⋯⋯そう、伽などはどうするのだ?」


「男同士でございますれば、子を成すことは叶いません。なれど、身を重ねる事は可能でございましょう?」


「そ、そうか⋯⋯ところでこの店、すこし暑くないか?」


「⋯⋯上着をお脱ぎになられては如何でしょう?」


 男が上着を脱ぐと如何にも筋肉質な体躯が浮き彫りになるほどに、メリハリのついたシャツのシワがマスターの目に入る。


 こくり、マスターの喉が鳴る。


 男が睫毛に垂れた長い髪を掻き上げて、おもむろに耳にかけた。隠れていた頬が顕になり、少し赤らんでいいるのが窺える。

 それがアルコールによるものなのか、別の要因によるものなのかは定かではない。


 いつの間にか店の音楽もしっとりとしたバラッドが流れている。


「⋯⋯店主よ」


「⋯⋯はい」


「店は何時までだ?」


「もう⋯⋯看板の電気は消しております」


「そうか⋯⋯」


「はい⋯⋯」


 ガタン⋯⋯

 







       ─了─

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深海零米 かごのぼっち @dark-unknown

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