15.そして少しだけ動き出す -2-
彼女は資料館コミュニティサイトから退出した。
指先がかすかに震えていた。
嗜好アバターで入室した事を心底安心していた。
モニターに表示されているコミュニティルームの入室ボタンをマチはじっと見つめた。
「タイ…」
資料の中のコル・ヒドラエの手書き文字で予感があった。
特徴のあるやや筆圧の高い左あがりの文字。
試しにトーレメースの資料を渡してみた。
予感が的中した時、寒気がした。
実に10年ぶりだった。まさかここで彼と再会するとは思わなかった。
フリーの天候デザイナーになって、今回式典の演出を請け負っていた。
そこがタイジの勤めている会社と言うのは知っていた。
帰国しているとは全く思っていなかった。
連絡を断って4年経ったある日。
彼女名義のアカウントの見直しが必要になった為、4年前に凍結させていた通信アカウントを起動させると、彼からの2つの未読メッセージが届いていた。
発信日は連絡を断った日から約半年後と、その2年後。
前者のメッセージはこうだった。
当時の恋人の事。
マチと関係を持ったその日に別れていた事。
そして、今思っている事。
『何も話さなかった。
大事な事は何も。
マチから好かれていると思ってずっと浮かれていたんだ。
マチが不安を感じている素振りをしてたのに全然気づけなかった。
マチは大丈夫なのか、本当はずっと知りたかった。
俺は、正直大丈夫じゃないよ。
時間が経ったら忘れられると思ってて、それを信じて来た。
それも当てにならなかった。
どうしたら良いのかずっと分からない。』
そして後者の内容は、海外赴任になって最短で10年は帰国しない、と言う連絡だった。
彼がずっと彼女を待っていた予感はあった。
いずれ彼への思いは薄れていくだろうと思っていたけれど、何故かぶり返しの風邪の様にずっと消えなかった。
けれど、前者の時期は彼女も混乱していた。
戻る事は簡単だったけれど、どうして戻れば良いのか分からなかった。
むき出しになったコンプレックスや、友人を許せなかった自分に疲れてしまっていて、彼への恋しさを埋火にした。
そして、後者メッセージが届いた時には彼女は結婚をしていた。
夫は優しい男性で家族と仲が良かった。
家族との縁が薄かった彼女は両親との関係が良好な彼の環境に憧れて、家族を持てる事や親を大事にして生活をしたい願望が満たせると思い、結婚に踏み切った。
そういう理由で結婚を決めてしまったから、元配偶者はそれを見透かし上手くいかなかったんだと、彼女はどこかで思っていた。
元夫自身にも問題はあった。けれど自分にも問題はあった。
死産して離婚して、自分は誰とも結婚しては駄目だったんだと彼女は思った。
引き取った親族の子を育てて、ずっと一人で生きていくのだと思って来た。
埋火にはずっとタイジが居たけれど、それをどうにかしようと思える程、自分はもう若くなかった。
結婚をして、妊娠をして子どもを亡くして、離婚して年老いて。
引き返しようがなかった。
こうやって色々な思いがない交ぜになって毎回最後は混乱した状態になるだけだった。
その内そうなる事に疲れてしまい、彼の事は思い出さないように生きて来た。
そう思って、やっと最近静かに過ごせるようになった矢先だった。
彼の会社の仕事を請けた事でふと天体を見ることが懐かしくなって、ほぼライフワークとしていたうみへび座周辺の調査資料集めに、余り人のいない市営コミュニティに行った。
珍しく後から人が来たので、つい話しかけてしまった。
それが彼とは思わなかった。
アバターの登録IDを見たが以前の彼とは全く別だったので油断してしまった。
元気そうだった。
ただ、コル・ヒルドラエの名前でひっかかった時の様子で、自分との事が少なくとも傷になってしまっている事は分かった。
本当は逃げ出したかった。
けれど、ずっと彼に渡したかった物があった。
うみへび座周辺の調査資料集めをライフワークにしたのもそのためだった。
逃げ出した自分を許せなくて、そういう自分を許すには何をしたら良いのか分からなかった。
一度は蓋をした記憶を掘り起こして、彼との事を一つ一つ思い出した。
時間の経過や彼女の経験から、当時感じた物とは違う解釈で記憶を巡る事が出来た。
そこで行きついたのはトーレメースの調査だった。
彼女自身の仕事にも無関係では無かったし、10年前に出版中止になった書籍を再度出版しそれが彼に届くかもしれない、とマチは思いついた。
会社勤めの傍らフリーでも仕事を請け、以前は必要最小限にしていた業界関係者や研究者と情報交換をするようになった。
そのおかげで倒産した出版社の違法廃棄されたサーバーからトーレメースの資料を見つける事が出来た。
それは1年前で、今度は資料使った出版を請け負う企業を探していたが、その分野の専門家でもない彼女の企画を受けてくれるところは見つからなかった。
海外の企業も当たろうかと思っていた矢先、こういう形で彼の手に渡す事が出来た。
これで全部終わったんだ。
彼女は安堵と寂しさを感じ、少し長い時間のかかった色々な意味での贖罪が終わった様な気がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます