8.これはとても小さな事
彼が目を覚ますと彼女は隣に居なかった。
首や側頭部にあった痛みは無くなっていて、発熱も感じなかった。
体温計で計ってみたら平熱に戻っていた。
帰った?
夜明け前、目を覚ました時には隣に居た事を覚えている。
彼女が眠っていた場所の寝具を触ると、まだ暖かさが残っていた。
ベッドから出てそんなに時間は経っていないと思った。
サイドボードにある眼鏡に手を伸ばすと眼鏡の隣に昨日彼女が読んでいた本があった。
居間へのドアを開けると、白米を温めた匂いと味噌汁の臭いが鼻腔に届く。
居間の座卓に二人分の食器が並んでいた。
台所で物音がするのでそちらを覗くと、彼女が朝食を作っていた。
手元を動かしたまま彼の姿に気付いて、顔だけ向け彼に挨拶をした。
「おはよ」
「うん。おはよ」
「体どう?」
「すっかり」
「良かった。まだ出来ないから顔洗って来たら?」
「うん」
昨晩も見たが、彼女が台所で料理をしている姿が新鮮過ぎて驚く。
洗濯室にある洗面台で顔を洗って歯を磨き、台所に戻ると彼女はまだそこで朝食を作っていた。
焼ける匂いで分かる甘い卵焼き。昨日の残りのの白菜と玉ねぎの生姜味噌汁。鶏モモ肉のピカタ。
自分の分は各自自分で器によそいなからピカタを見た彼が聞く。
「竜田揚げにしなかったの?」
「朝から揚げ物は片付けが面倒だし重い」
「じゃ昼は竜田揚げ。俺作るし昼前に買い出しに行こうぜ」
「…料理するの?」
「そりゃあ。毎食外食だったら財布が死ぬ」
「確かに。外で食べた方が簡単にバランス良いもの食べれるけど高いもんね」
「それな」
「料理してるにしてはシンクとか結構綺麗」
「ほぼ丼ものだし。鍋かフライパンに食材入れて火を通して終わり」
「私も丼もの多いわ。洗い物少なく済むし。洗い物苦手なんだよね」
「俺は洗い物好き。器の表面がツルっとすると達成感」
「それなら分からなくもない」
居間に移動して朝食を終え片付け後、それぞれ着替えシーツを洗い、夜の内に洗濯乾燥の終わった洗濯物を手分けして畳んだ。
マチは、今この場でこうやっていることが当たり前の様になっている現状を奇妙に感じながらも何だかおかしくてワクワクしていた。
こういう時間があるんだ、と。
そうしている内に乾燥の終わったシーツを片付け、昨日マチが買い出しをした店に行った。
彼の住む地区は比較的緑化の進んだ地域で、建造物には樹木との共生を考えた設計がされている。
壁一面が蔦植物に覆われている建物ばかりで、樹高がそれほど高くない成長しきった木々が舗装された道路沿いに並ぶ。
「俺もこの店よく使う」
「大きいとこじゃないけど手堅く揃ってていいね。ここ」
「そうそう」
精肉コーナーに来ると彼は鶏モモ肉と鶏むね肉を手に取った。
2人分の昼にしては多い。
「多くない?」
「今日の晩飯の分。むね肉嫌い?俺の地元の料理にするつもりだったんだけど」
マチは今日の昼を食べたら帰るつもりだったが、夕食まで食べるのは彼には確定している様だった。
それが分ってマチは口元が少し緩んだ。
「地元料理って?」
「うどん。野菜沢山と鶏肉とうどんを地元の味噌で煮込む」
「寒い時とか絶対美味しい奴だ」
「味噌が普通の味噌じゃなくて色々な香料が入ってる。凄い昔からずっと作り続けてるやつで小学校の給食にも出てたな」
「へぇ。野菜何入れるの?」
言われた野菜は白菜、人参、長ネギ、ジャガイモで、その調味料味噌はこの店にも陳列されていた。
マチは2人分のうどんと付け合わせに使うキャベツを手に持った。
「この味噌、うちの近くの店にはないわ」
「この店の店主が俺と地元が同じなんだって。あんまり見かけ無いから、美味しかったらここで買ってけばいいんじゃない?」
「うん。まずは食べてみてから」
「俺は人にも勧めれるくらい美味しいと思ってる」
「お昼楽しみにしてます」
飲み物を買って終わりかと思ったら、彼は化粧品の陳列棚の方へ向かった。
「加湿してるけど乾燥してない?泊り急に決まったからこの辺のものないでしょ?」
「…配慮が凄い」
「俺、姉ちゃんと妹居るからその辺は分かる。よく買いに走らされたし」
「きょうだい居たの?意外…似てる?」
「どうだろ?どっちも背低かったな。こっち来てから会ってないから分からないな。マチはきょうだいは?」
タイジはこの国の男性の平均身長より少しだけ高い。
「上に兄。私もこっちに出て来てから会ってない」
「何かお互いにきょうだいとも縁ないな」
やや自嘲気味に軽く笑った。
彼の顔を見たが昨日話した時のような陰りは無かった。
マチがいつも使っているスキンケア用品の一日分を手に取ると、同じものをもう一つ彼が手に取った。
「帰るの月曜の朝にしない?俺月曜は夜勤だし」
「…うん」
マチはまた口許が緩んでしまったので、自然な仕草で口元を片手で隠した。
それを目ざとく見つけた彼は、黙って彼女の手を握って会計に向かった。
うどんは煮込むので、昼食と同時進行で進めた。
竜田揚げは全面的に彼が作る事になったので、マチは彼の指示で味噌煮込みの下ごしらえをした。
下ごしらえと言ってもた.水を入れた鍋に味噌を溶かし、その中に一口大に切った野菜と鶏もも肉を入れるだけだった。
「簡単」
「航海船しかなかった時代に、船上で食が進む様に作られた味噌なんだって。だから簡単で美味しい」
調味料味噌は味噌汁に使う物とは違って、醸造調味料、砂糖、鶏油、魚介エキス、チキンエキス、香辛料、酒精等が入っていて、水に溶かして温めた匂いだけでも唾液腺が刺激された。
「これ、残った汁でおじやしたら美味しくない?」
「それな。熱出た時はいつもそれ食べてた」
「…帰りにあの店で買ってく」
「食べる前からもうかよ」
嬉しそうに彼が笑った。
味噌煮込みを弱火でじっくり煮込んでいる間に、タイジは二口サイズにそぎ切りした鶏むね肉に、マヨネーズ、日本酒、醤油、顆粒だし、ニンニク、水を入れてしっかり揉み込む。
「マヨネーズ?」
「柔らかくなる」
「えー」
「文句は食べてから」
水気が無くなるまで揉み込むと片栗粉を入れて更に混ぜ、全体に水分を吸った片栗粉が行きわたると更に少しだけ片栗粉を入れて粉っぽさをだした。
それから彼は油を使わないフライヤーではなく、植物油を使って柴犬色になるまで二度揚げした。
「…お店に出せるわ」
揚げあがりのニンニクと醤油の香りに混ざる揚げ物の香りに、思わず妙な感想を漏らすマチ。
その言葉に満更でもない笑いを浮かべて、
「料理店の洗い場のバイトしてた時に料理長から教わった」
竜田揚げの香りに交じって味噌煮込みの野菜と味噌のえも言えぬ匂いが加わって来た。
耐えられずマチは彼に聞く。
「…汁物。この味噌煮込みの汁使ったらだめ?」
「いい。美味しい奴だ」
マチは大急ぎで大根とキャベツと人参を千切りにして竜田揚げの付け合わせを作り、その間にタイジは米のフリーズパックを温め、大皿に竜田揚げを盛って味噌煮込みの火を落とした。
「一回冷ますと味がしみ込むし、肉が固くなりすぎない」
と彼女に説明した。
2人はいそいそと盛りつけた料理と汁物と白飯を盛った器と箸を持って居間に移動する。
食べ終わるまで終始無言のマチ。
「ご感想は?」
「…絶対ご飯の消費が増える…後、絶対食べ過ぎて太る」
彼女は顔を緩ませて応えた。
「率直に」
「本当に美味しかったです」
「はい。お粗末様でした」
綺麗に空になった器を台所に引き上げて片付ける二人。
タイジは近所の散歩かドライブを提案したがマチから却下され、今日一日は買い出し以外は在宅を約束された。
最初2人はカードゲームをしていたがそれも飽きて、マチはトイレに立ったついでに寝室のサイドボードに置きっぱなしにしていた本を居間に持って来て、読み始めたのでタイジも寝室からタブレット端末を持って来ると、彼女の膝に頭を乗せて昨晩見ていた探索船の情報サイトの更新履歴を見始めた。
しばらくして彼女は足がしびれたと訴えたので、今度は彼女が彼の横に並んで寝転がり本を読んでいた。
2人とも時々体勢を変える。
これまでの通信でのやりとりでも何か作業をしていて1時間近く無言、という事がよくあったので互いが互いの無言が全く苦痛では無くっていて、この関係になって直接顔を合わせる様になっても、それは全く変わらなかった。
ただ、2人とも静かな環境下での作業と言うのが好まず、その内彼が二人とも良く聞く音楽を居間のスピーカーから流し始めた。
情報サイトの更新情報を読み終わったタイジは退屈を感じ始めて、こちらに背中を向けて本を読み続けている彼女を後ろから抱き寄せて、肩越しにその本を覗き込みながら聞いた。
「何の本?」
「…SF小説。おとめ座の移住コロニーに住んでる人達が地球に戻ってくるまでの転生もの」
「…転生ってあると思う?」
「んー…私は懐疑的。ただ、移住して向こうの星の住人と協同生活をしてる人達の中では肉体と意識を切り離す技術が実装されてて、寿命が無くなったって話しだからなぁ…。魂の循環と言うのはあるだろうけど、産まれる前の記憶とかはなぁ…。地球人は一生を送るだけでもしんどいって人多いし、私もこの後は分からないけど色々あったからそれをまた人生初めた時に覚えてるってしんどい」
マチは本から視線を少し上の宙に向けて行った。
時々こうやって陰る彼女の姿を見ていると、彼は正体の見えない不安を感じる。
その彼女の頬に彼はキスをした。
「こういうのもしんどい?」
「…いつも応えるのが難しい事聞くよね」
よく見る少し困ったような顔ではにかんだ。
「じゃあ嬉しい?」
聞かれ、彼女は一瞬躊躇したが彼の頬にキスした。
「言わないとわからんよ」
「…嬉しい」
「そか」
彼女の唇にキスをした。
結局、金曜日土曜日日曜日と連続で泊った。
月曜の早朝。この二日と同様、一緒に朝食を食べて片付けが終わるとマチは帰り支度を始めた。
その後ろ姿を居間で見ながら、ふと彼は彼女の正面に回ると腰回りに両手を回して抱き上げた。
マチは突然視界が高くなった事と、体重が軽い方ではないので慌てて彼の肩を掴み大きな声を出した。
「危ないって!」
「大丈夫。落とさないから」
「そうじゃなくて、重いから!腰痛めるよ!」
「重くないけど?」
そう言うと彼女を抱き上げた状態で回転した。
たまらず笑いだすマチ。
彼は彼女の子どものような無邪気な笑い顔を見上げる。
回転が止まって少し笑い疲れた彼女は、不思議な顔でこちらを見上げている彼に首を傾げた。
「…何?」
「何でも無い」
彼女を下ろすとそのまま包み込むように抱きしめると、深く息を吐いた。
玄関でブーツを履いたところでマチはバイクのキーを取り出してバイクを呼び寄せようとした。
「送る」
「え?」
「上着持って来るから待ってて」
タイジを待って車に乗り込んだ。香水の香り。エンジンが動く。
「手」
言われて彼の手を握った。彼の手を下にして二人の間の収納ボックスの上に落ち着いた。
暖かく指先が少しカサついている。
彼は片手でハンドルを握りながら車を出した。
マチは、シート越しの振動で痛むと足を組み替えたりして重心を移動させた。
彼女のその様子を見て、普段使わない防振システムを起動させた。
「オフ車だから揺れるんだよ」
「充分伝わってる」
「まだ痛い?」
「デリカシー」
「今更」
せせら笑う。もっと下品な事も話して来てる。
「…あんたさ…今まで美人とかそう言う奴じゃなかったでしょ」
「俺はそう言う相手にはそう言いうのを言う奴なの」
彼女は返す言葉が見つからなかった。
「…俺はさ」
「…うん」
「会う度にしたい奴なのよ」
「あー…」
タイジは彼女の横顔を視界の端でとらえると、顔が赤くなっていた。
「勿論毎回確認するけど」
「…うん…」
「ただ勘違いして欲しくないことが一つ。そう言う奴だからって、ただしたいから、ってわけじゃないって事」
「………うん」
「今更感だけど、俺は抑制タイプのインプラント使ってるんだけど、マチのインプラントって女性用?」
「うん。生理周期管理と避妊とか諸々」
体内インプラントには避妊や受精制御の成分を体内排出するものもあり、定期的に卵子排出や子宮内膜発生の抑制に効果のある薬剤が体内排出されるものがあり彼女はそれを使っていた。
また、タイジの場合は精子の運動抑制成分を体内排出するものを使っていた。
勿論性病にも対応もしていてインプラントとしては極一般的なタイプである。
「そか。後で周期教えて。何か薬必要だったら連絡して。持って行くし」
「…うん。…ありがとう…。…そう言うのって女きょうだいの影響?」
「さぁ?当たり前だと思うけど」
「そっか」
マチは守られている様な不思議な感覚を覚えた。
これまでずっとタイジは彼女に強いると言う事をしなかつた。
この関係になる前から。モニター越しの時から。
夜の街で知った男達のような事は、何も無かった。
ただ当たり前の様に、こちらに問いかけ対話をする。
それを理解した時、マチは自分に何が出来るんだろうと考え始めた。
タイジは彼女を自宅前まで送った。
彼女は車を降り、いつもの様に玄関に入る前に手を振った。
彼もそれに手を振って応える。
その日は珍しく、マチは彼が車を出すまで見送った。
見送ってからマチは玄関奥のエレベーターの前で、上の階からの到着を待った。
彼女の待つ地階に到着すると、ルームシェアしている友人二人が降りて来た。
服装から今から出勤だった。
「あ。マチおはよう」
「おはよ。朝帰り?」
「おはよ。さっき着いたとこ」
「彼氏?」
「…そんなもんかな…体調崩した看病しに行ってた」
マチの言い澱んだ様子に、二人はちらりと視線を交わした。
マチは何か言われるかも、と少しだけ身を固くしたが言及はなく、
「そっか。うちら早出だから。行って来ます」
「じゃあねー」
「行ってらっしゃい」
軽く手を振った二人を見送って、エレベーターに乗り込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます