6.少し過ぎたある雨の日

 それからの2人は、以前の様に通信でも他愛のない話をしたり、彼女が作業中は互いに好きな音楽を共有視聴したり相変わらずだった。

 ただ違ったのは、彼が彼女に確認を取ってから、家まで迎えに来る事が追加された。

 彼女の業務時間が終わり彼の勤務時間が始まる短い時間や、彼の夜勤明け時間と彼女の始業時間の合間に。

 休みが合う時は車で都区外へドライブをしたり、互いの仕事の資料探しや買い出しを一緒行った。

 彼女は学生時代の同級生とルームシェアをしていて、彼が部屋に入る事を許さなかった。

 また、彼の部屋に行く事は最初は彼女が強く拒んだが、タイジが体調を崩した時にだけ、見舞いに訪れたがそれ以外は頑として立ち入らなかった。


 そういう過ごし方が始まってから、半年が過ぎた今日もそうだった。

 タイジは季節の変わり目に必ず体調を崩した。

 彼が「体調が悪い」と通信で彼女に話したのは昨夜の夜勤前で、夜勤明けからは熱が上がりそのまま寝込んでいた。

 夕方。

 雨で路面状況が悪く、タクシーで来た彼女が玄関で来訪を知らせるベルを鳴らすと、重い足取りで彼が出迎えた。

 背中を丸めて毛布を肩から掛けている。

 マチはたたきでブーツを脱いで上がり框に登った。


「どう?」

「…熱がちょっとと…頭痛い…」


 鼻声で彼が答える。

 無精髭が伸び眼鏡は外していて、頬と鼻先が熱で赤い。

 頭痛の為にいつもある眉間の皺が今日は深い。


「言われたの買って来たけど、何かする事ある?」

「…ん~…」熱と頭痛で思考がまとまらない。

「洗濯とか台所触って良いならやるよ」

「…助かる…寝る…」


 タイジは毛布と足を引きずるように寝室に引っ込んで行った。

 居間の隅のカゴに入っている洗濯物を持ち洗濯室に入ると、少しだけ溜まっていた洗濯物をまとめて全自動洗濯機に入れて洗濯スタートした。

 続いて玄関に置いた買い出しを持って台所入った。

 洗い物は無く、生理食塩水の空のボトルがいくつかシンクに転がっていた。

 おそらく夜勤から帰ってから、水分補給しかしていないのだろう。

 買い出し品の入ったバッグから頼まれていた物とは別に買って来た補水飲料のパックを取り出し、シンク横のカゴに入っていたストローを持って寝室へ行った。

 彼は天井の照明をつけたまま、ロータイプのベッドに仰向けで寝ていた。

 サイドテーブルにはレンズを下にした眼鏡が置かれている。


「タイ。起きれる?」

 

 レンズを上にして眼鏡を置き直し、ベッドの脇に座って覗き込むと少し間を置いて彼が目を開けた。


「生理食塩じゃ足りないからこれ飲んで」


 補水飲料のパックにストローを差して見せた。

 彼は身じろぎして彼女に寄ると、首を巡らせストローを咥え、彼女が持っているパックを飲んだ。

 飲んでいる間、彼女は寝室の中を見回す。

 洗濯物はない。空調が稼働していて枕元の時計が適度な湿度と室温を表示していた。

 先程飲んだばかりの薬の空きケースがその横に転がっている。

 いつも飲んでいる解熱と抗炎症の処方薬だ。

 彼が飲み終わると、空のパックと空のケースをまとめて立ち上がった。

 タイジは再び寝具の中に潜る。

 彼女はそれを見届け台所に戻り、買い出し品を保存棚に入れ代わりに白米のフリーズパックと卵を出した。

 薄く塩を入れた卵粥を作ると、適当な器に移してスプーンを持ち再度寝室へ行く。

 タイジに声をかけると彼はゆっくりと上体を起こした。


「食べれる様だったら」

「…ん…」


 彼は器を受け取り、ゆっくりゆっくり食べ始めたが、ふと手を止め、


「…こういう時って食べさせてくれるもんじゃない…?」


 ボソボソと言う。


「薬効いて来たみたいね」


 彼女はホッと笑った。

 食べ終わるまで側で座って待ち、空になった器を受け取った彼女に、


「…帰る?」

 

 少し心細そうな表情で彼は聞いた。


「洗濯まだ終わってないし居るよ。後でまた食べるなら同じの作っておくけど」

「…次起きるまで…居て…部屋にある物見てていいから…」

「…わかったよ」


 寝具の中に潜った彼の額に手を置いた。

 まだ熱が高い。

 彼は目を閉じたまま手を伸ばし、額の上の彼女の指先を一度掴み、手を引っ込めた。

 少し速い彼の寝息が聞こえ始めた頃、彼女は立ち上がってサイドテーブルの照明を着け天井の照明を消して台所に戻った。

 

 彼は喉の渇きで目を覚ました。

 薬が効いて熱と頭痛は成りを潜め楽になっていた。

 天井の照明が消えていた。代わりにサイドテーブルの照明がついていて新しい補水パックが置かれ、その横に卓上時計と彼の眼鏡が置かれている。

 マチが着た時間から一時間程過ぎていた。

 パックに手を伸ばして飲みながら部屋をゆっくり見まわすと、ベッドの足元の方の床に座っている彼女の背中が見えた。

 マットレスに背中を預け、うなだれてヘッドフォンを着けていた。


「…マチ?」


 寝具からゆっくり出て彼女に近づくと、マットレスの動きに彼女が反応して、ヘッドフォンを外しながら振り返った。


「起きた?」


 低く響く声で彼に聞いた。彼は彼女のこの声質を気に入っていた。喉の底で低く響いている落ち着いた声。

 彼女は彼の枕元に移動して来た。手には自宅から持ってきた本を持っている。


「ヘッドフォン借りてた」

「使えた?」

「うん。知らないのも入ってて面白かった」

 

 ハウジング部分に内蔵されてる通信チップが、作業部屋の中にある彼のサーバーから保管してある音源を落とし込んで再生する。

 ヘッドフォンと本をサイドテーブルに置き、彼が飲み干したパックを引き取って近くのゴミ箱に入れた。

 その彼女にタイジは手を差し出した。


「手」


 熱で心細くなったのだろうと、マチはその手を握った。明らかに自分のそれより高い熱を感じる。じっとりと汗もかいている。


「だいぶ慣れた?」

「?…あ。まぁ…そこそこ」

「そか」

「…あのね。…何でここまで合わせてくれるの?」

「…何でだろうな。心配……気になる……お前の顔に騙されてるとこもあるのかなぁ…」

「騙すってなにそれ」

「そりゃ顔が好みだもん…その上、話が合うだろ…。…そう言う女にだったら、色々やってやりたくなるもんだよ」

「そういうもん?」

「単純だろ?」


 マチは繋いでいる彼の手を引き寄せて、自分の頬に着けた。


「…それは何?」

「…なんだろね…タイのそういうとこに騙されてるのかも」


 タイジは何かを言いかけたが止めて、彼女の手を引き寄せ1度問う様に視線を合わせた。

マチは迷い、浅く目を伏せたが身を彼の方へ乗り出しキスをした。

彼女の顎先や口の端に伸びた髭が当たる。

 やはり彼の方が体温が高い。

 直ぐにタイジが少し離れた。


「寝たきりで歯磨いてないんだけど」

「特には気にならないけど…?」耳まで真っ赤になって彼女は答えた。

「そ?」


 続けた。

 自分のものと違う彼女のシャンプーの香りが立つ度に、欲が大きくなっていく。

つなぐ手の熱を互いに感じ合う。

彼は微かに震えるマチの手をゆっくり握り直した。


「…ちょっと待って」堪えきれず息を漏らしてマチが顔を背けた。

「何?」

「…先進もうとしてる?」

「…半年も待った30男にそれ言うか?」

「30って何の関係あるの?」

「毎日出来るような体力はない。回数も出来ん。その上での一回一回は大事なんだぞ」

「意味分らん」

「…嫌ならやめる」

「………いや…じゃない…けど…」


 彼女の腕を引き寝具の中に引き入れた。

 寝具の中の温度と湿度が思った以上に高く、マチは内心驚いた。

 服越しからでも明らかに彼の体温は高く、重なる胸骨越しに、心臓の強い拍動が伝わってくる。

 やや急く手がマチの腹に触れた時、流石に彼女は止めようとしたと同時に、彼は疲れた様な大きいため息を吐いた。


「…やっぱりだめだ…熱あり過ぎる…風呂入ってないし…」


 落胆の声を上げた。


「…熱上がって来てるんでしょ?」

「……でもなぁ……いけない事もない気がするんだけど……不発で終わるかもしれん…でもなぁ…洗ってないし……」


 気持ちとは別に鈍い反応の自分の体にしばらく苦悶していたが、その間にも熱が上がって来たので彼は断念し、呆れたマチが台所から持って来た補水パックで解熱剤を飲んで一息ついた。


「…明日仕事?」

 彼が聞く。

 今日は金曜。

 彼女は先月から都区中央の天候プログラムの改修プロジェクトに参加していて、休みにしている土日も午前か午後のどちらかは必ず作業になる、と彼は聞いていて彼女は通信中も作業しているか調べ物をしている事が多い。


「土曜の午後は作業用の時間枠で報告上げてるけど、進捗的には休める」

「泊ってく?」

「…」


 少しの間考えた。

 頭の端のタイジの恋人の影。それを思う度にある言葉を伝えなければと喉が詰まる。

 自分の中で彼の比重がどんどん重くなっていっている自覚はある。確認が必要なんだと。

 流されている自分。でも、まだ側に居たかった。


「来客の予定って無いの?」

「無いよ。ここ一年、お前以外誰も来た事無い」


 また少しの間彼女が黙る。


「どうした?」

「…客用寝具ってある?」

「ない」

「……泊って、いっていい?」

「泊ってって」


 安心したように嬉しそうに彼が目を細めた。

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