5.今じゃない

 そう言う場所は繁華街の一角に乱立するか人家の少ない外れた通りにある。

 車を停めた場所は一部屋が独立した建物になっていて、一階は駐車場で二階が利用スペースになっている。

 マチは固まって車から降りれなくなっていたので、彼がドアを開けて手を差し出した。

 マチが取った手は指先まで冷たく、掌がわずかに暖かいだけで全体が薄く汗ばんでいた。

 それで彼も緊張しているのだと知った。

 とんでもない頼みをされて、本当に色々考えたんだろうと彼女は思った。


「ごめん」


 声を出さず小さくマチは言った。


 そのまま手を引かれて階段を使って二階のスペースへ上がる。

 何度かマチが段に足を引っかけた。その度に強く握る彼女の手が、ずっと震えているのが彼に伝わった。


 ここまで震えてまで何で思いつめたんだろう?そこまで価値がある事か?


 理解出来ない思考をグルグル想像ていると、ふと自惚れた考えが浮かんだが直ぐに流した。

 女性に好かれやすい方では無かったが、彼女が自分に対して恋愛感情が無いと言う確信はある。

 気を紛らわす目的もあって色々想像するが、どの想像もこれまでの彼女像と一致せず、最後は「よくわからん」で片付け、最後はここまでの外見の女を抱けることに対しての期待が頭をもたげてその想像に思考が傾いて行った。


 室内は1KRの中央にクイーンサイズのベッドと、3Pのソファに大きなモニターが壁に取り付けられていた。

 バストイレは別。簡易キッチンがあり空になったポットやカップ類がシンプルなトレイの上に並べられていた。

 一人暮らしの部屋の様で『いかにも』感が全く無かった。

 中に入りドアを閉めると自動施錠された。

 彼が先に中に入り、脱いだジャケットをソファの背もたれにかけて端に座った。

 ドアの前で動けなくなっている彼女に手招きして、ソファの座面を叩いて座るように促す。

 日頃の悪態や饒舌さからは想像が出来ない彼女の反応が一々初々しくて、からかいたくなるのをぐっとこらえ、持ってきたカップのコーヒーを飲み干して、


「どっち先?」


 頭をバスルームのドアへ傾けて聞いた。


「…私」

「一緒でも良いけど」


 少し余裕が出て来たので冗談を言うと、


「心の準備出来たらドアノックするから」


 固い声で答えると彼女は表情を見せず、足早にバスルームに消えて行った。

 少しの間の後、シャワーの音が聞こえ始める。

 タイジはこらえきれず噴出した。


「心の準備って」


 本当に全く慣れていない彼女の様子が可愛くなって来た。


「本当。何考えてんだかわからん」


 性欲を満たせる期待が大きくなると共に、彼女に対する感情が少しずつ暖かく緩くなって来る。


 聞こう。

 これから先も会い続ける事が出来るか?これまでみたいに話せるか?

 俺は会いたい。これまでの様に話したい。

 

 バスルームのドアが小さく二回ノックされた。




――――――――――――――――――――――――――――


 本音を言えば、かなりがっかりした。

 マチは浴室全体にミストを充満させて、視界を利かなくしていた。

 出入口の位置からでは湯を出しっ放ししているシャワーヘッドや、、その前に立つ人のシルエットがぼんやりと見えるだけだった。

 彼は内心、まぁ想定内、と平常心を維持した。

 彼が入って来た事に反応して、彼女がこちらを見ているのは分かる。

 彼が一歩踏み出すと、マチはタオルで体を隠した状態で彼の脇を通り過ぎて出て行った。

 ミストが忙しなく渦巻いた。 


 彼が体を洗って部屋に戻ると、足元の照明以外全部消されていて、ここまで来ると呆れるし可笑しくなって来た。

 彼女はこちらに背中を向けてベッドに入っていた。

 彼はその反対側に腰を下ろすと、マットレスの傾きに反応して背中が一度だけ震えたのが分かった。


「…あのさ…引き返したいんじゃない?」本当はしたい。


 ただ、今じゃない。


「こう言うのってやっぱりさ、降って湧いたみたいにするもんじゃないと思うんだよ。…そう言う事をする奴も居るだろうけど…俺は…体は反応するけど、こういうのは正直空しくなる」


 彼の話を聞き、マチはゆっくりとそちらへ体の向きを変え、片手で口元を覆い彼を見た。

 彼は着て来た服を着ていた。

 

「…呆れた?」

「まぁ少しは」

「…実は、一つ嘘ついてた…」

「どんなの?」

「ブランクじゃなくて、したことが無い…」


 彼が一瞬固まる。


「尚更…こういうのでは絶対するなよ…」呆れと少しの怒りのため息をつく。

「…」

「俺がおっさんだから説教するわけじゃないけど……おっさんでも何でも良い。とにかく、一生記憶に残るんだぞ?自分で自分を雑に扱うとか絶対すんな」

 言われて彼女は上体を起こした。胸はシーツで隠していたが首から肩にかけての白さにぎょっとした彼は、

「とりあえず一旦何か着ろ。やっぱりその辺の話するぞ」

「…分かった」


 バスルームで服を着たマチが戻ると、彼はソファに座っていた。

 最初の時の様に座面を叩いて彼女にも座るように促し、マチは座った。


「まずは、俺も欲に負けてここまで来てしまった。それは謝る」

「いや…私だって…そう言うの分ってて…利用しようとしたわけだし…」

「確かにあれは卑怯だ」切り返す。「前も言ったけど、こういう事は好きな相手とすべきだと俺は思う。他の奴はどうかは知らんけどさ」

「私も前に言ったけど……この見た目に抵抗の無い人が良かったから…」

「見た目ねぇ…」

「…あと、ずっと働くか勉強だけで、この先もこのままなのかなって」

「それはさっきに言ってたな」

「かといって、人を好きになるとか正直よく分からない…初恋とかはあったけど、見た目のコンプレックスが強すぎて…」

「そこまでか…」


 何が人のコンプレックスになるのか他人には分からない。

 

「うーん…」


 彼は腕組みをして宙を見つめた。

 何が一番彼女にとって良いのか。一番分かるのは今はするべきじゃないと言う事。


「俺の正直な気持ち聞く?」

「…うん」

「したいはしたい」

「…だろうね」

「ただ、これでこれまでの関係が壊れるのは全く望まない。お前はどうかは分からないけど、俺は楽しかった。今日会ったのは、モニター越しだとこの煮詰まり方がどうにもならないだろうな、と思ったから、直接会って話す為に会った」

「…うん…」

「今でもグラングランに揺れてはいる」

 

 ずっと反応し続けているのは足を組んで隠していた。


「…正直言うとさ、私も考えはしてた。モニター越しで事足りてた間柄だったのを、何壊そうとしてるんだろ、って。…でも変わりたかった。だから自分が動かないと何も変わらないから、動こうって」

「それで俺に矛先が向いた、と」


 バツが悪そうに頷くマチ。


「夜の仕事辞めてからこっち、ずっと在宅勤務で会社には年に1回行くくらいで、外に出るのは時々ルームシェアしてる女友達と飲みに行くか、買い出しくらい。…夜の仕事してたから変な偏見着いてて。……出会いは求めてないと言うか、怖い」


 消耗品の様にリサイクル品の様に、目まぐるしく変わる人間関係。若い彼女を取り込もうとする人は居なかったわけではなく、彼女はただ体を強張らせて止まらず避け続る事で身を守った。

 あの世界は優しい部分や暖かい部分もあるが、気を抜けばぬるりと別の方向に引っ張られてしまう。

 強かにそれを渡り歩けるほどマチは器用では無かった。


「怖いねぇ…男怖いの?」

「…父親の影響で本当は怖い…大きい声とか特に」

「…なるほど」 少し考えた。 


「お前はまた俺と顔つき合わせて会う気ある?」

「会うって?」

「ご飯食べにとか、遊びにとか。俺は怖くないんだろ?リハビリ」

「…リハビリ…」

「するかしないかとかは、まぁ置いといて。一年以上の付き合いだし、こういう行動力は正直心配になる」

「…時間合わなくない?こっちは基本日中仕事だし」


 タイジは3交代制でこれまでのやりとりはそう言う合間で行って来た。


「今まで通信してた時間帯でいけるでしょ」

「そか」


 沈黙。


「大人しいな。珍し」 

「…ああいう事あった後だし…そっちは何とも思わないの?」

「んー…まぁ…ちょっと惜しかったとは思ってるけど、それ以上に色々話せる人間が一人減るのは嬉しくない。社会人になると話の合う人間と知り合う率はぐんと下がるからな」

「そういうもん?発散の方が優先されるもんじゃない?」

「そういう奴も居るだろうけど、俺はそっちじゃない」

「そっか」

「そう。じゃあ腹減ったしここ出て何か食べて帰るか」


 ソファに掛けてあった上着を掴み彼は立ち上がった。


 マチの住んでいるマンションの前のエントランス前に車を停めると彼女は降り、フロント側を通りエントランス前で止まると振り返って彼に向って片手を上げた。

 彼も片手をあげて答え、彼女がエントランスのドアを閉めるまで見送った。

 完全に彼女の姿が見えなくなってから、彼はハンドルに突っ伏した。


 彼は家に帰りつくと、通信で恋人に別れの短いメッセージを送った。

 次の日、出勤前に通信を起動すると、感謝と別れを了承した返事が返って来ていた。

 そのメッセージと元恋人の登録を削除し、彼はいつも通りに会社へ向かった。

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