第4話 猫の笑顔と裏の意味
放課後、俺は行きたくもない部室に向かっている。あの不幸な出来事からまだ3日ほどしか経っていない。休日の関係で部室に行っていないから、彼女からのお願いとやらもない。このまま俺が引退するまでは、それが続くことをありえないと理解しつつも考えてしまうのは無力な者の定めなのかもしれない。そう思いながら、目の前の扉を開け部室に入る。
「ねこざね つむぎです」
窓際の椅子に腰掛け、こちらではなく文庫本に視線を落としていた彼女が突然そう口にした。もちろん俺がその言葉の意味を理解できるわけはない。
「私の名前ですよ」
「そういえば自己紹介も何もしていなかったですから」
彼女はこちらを向いて、黙って眉をひそめる俺の心境を察したのか、できることなら前もって言ってほしいことを言った。
「そんなもの必要ないだろう」
「何言ってるんですか?必要ですよ」
しかし、信じられない。化粧以外でも女は化けられるものなのだな。今、目の前で呆れ返っている表情の彼女が、3日前に凶悪犯かの如き周到さで俺を脅してきた人間だとは誰も気付けないだろう。俺も気付けなかった。しかし、俺はすでにその本性を知っている。だから、今日は凶悪犯のような彼女を警戒していたため違和感がある。
「意外だな」
「なにがですか?」
「普通の後輩みたいだ」
「私のことなんだと思っているんですか?」
「脅迫をしてくる2面性の激しい猫かぶり女」
つい正直に答えてしまった。正直に答えて得をするのはテストの回答だけなことを知っているのに。その失言を耳にすると彼女の表情が少しこわばった。そして、もっていた文庫本を閉じて体をこちらに向けた。
「面白い冗談ですね、ほんとに」
「次聞いたら、間違って例のやつ職員室に持ってちゃうかもです」
「ついでに、先輩の学生生活を終わらせちゃうかもです」
笑顔とはバリエーションが豊かなのだな。あんなに恐ろしい笑顔は見たことがない、見たいとも思わないが。とにかくこの失言を言う勇気はもう湧いてこないだろう。未来の俺の学校生活と精神安定をまもるために。だが、こんなときでも軽口が出てしまうのが俺という男なのだ。どうしようもなくひねくれているのだ俺かこの世界が。
「いや、すまなかった」
「実に反省している、申し訳ない」
「ほんとにそう思ってるんですか?」
どうやら生き延びたらしい。すごいジト目ってやつで俺を見てくるが、怒りは一瞬のものだったらしい。彼女からはその気が感じられなくなった。いやー助かった。
「思っているさ、ただ優等生のふりをしているように見えただけさ」
「あのですね、私はふりではなくしっかりとした、歴とした、ちゃんとした優等生なんです」
「だが、優等生でいるのが疲れたと言っていなかったか?」
「言いましたね、3日前に」
「だから、今の私は比較的素の私ですよ」
「先輩のような人に敬語を使うのは、尊敬しているわけではなく、この部活を作ってくれた少しのお礼です」
「でも、申し訳ないんですが、社長と呼ぶほど感謝はしていないので、先輩で我慢してください」
前言撤回だ。彼女は素だった。同仕様もないほどの本性をさらけ出していたのだ。
なるほど、優等生なのは言葉遣いだけだったようだ。態度は俺を小馬鹿にした皮肉たっぷりのものであった。また騙された。
彼女の発言にいらだちを覚えてみたりもするが、まぁ、人様に胸を張ることができる行動をした覚えもなく、何かに打ち込んだこともない俺の人生が尊敬に値しないのは当然だ。そもそも尊敬に値する人生を高校生の段階で送っている人間なんてどれほどいるのだろう。たいていの人間は、くだらなくて、なんの生産性もない日々を過ごしているのではないか?つまり、現時点で彼女から感謝で尊敬語を使われ、少々舐めた態度を取られているのは俺が大したことのない人間なのではなく、彼女の基準が高望みなのだ。つまり、彼女が悪いのだ。きっとそうなのだ。だが、彼女が悪かろうが年下に対して大人げない態度を取る俺ではないのだ。みのがしてやる。
「話を戻すんですが、小判を持つ猫に実ると書いて猫実、紡ぐ偽物と書いて紡偽」
「猫実 紡偽 それが私の名前です」
「どうです?素敵な名前だと思いませんか?」
「あぁ」
猫かぶりで、偽者の彼女にはよく似合う名前だ。
それに、突然の自己紹介の理由が理解できた。彼女は単に、おまえや君と呼ばれたくないのだろう。彼女が自分の名前を本当に素敵だと思っているのなら名前で呼ばれたいのかもしれない。それにしても、人の自己紹介を聞く前に、閉じていた文庫本を開いて目を落としているのはいかがなものなのだろう。
「おい」
「なんですか?」
「俺は名乗らなくていいのか?」
「いいですよ、知ってますし」
そうか、確かに考えてみれば部活の勧誘はしていないが、部活紹介の栞かなんかに名前は記載されていたような気がする。嬉しい誤算だ。俺は自己紹介というものが嫌いだったからだ。するのもされるのも嫌いだ。するのは面倒くさいし、されるのは鬱陶しいからだ。
「それに、先輩のことは先輩って呼びますから」
「なぜだ?」
「私、名前を覚えるのが面倒で嫌いなんです」
「奇遇だな、俺もそうだ」
「そうですか、奇遇ですね」
「あぁ、だから君のことは後輩と呼びたいんだが」
「だめです」
「先輩は私を名前で呼ばなくては、だめなんです」
「どうしてだ?」
「どうしてでしょうね」
そう言ってこちらを向いた彼女の表情は笑顔に包まれていた。実に猫かぶりの彼女らしい裏になにか意味があるような、そんな笑顔であった。そして彼女はすぐに文庫本に目を落とした。
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ここまで読んでくれて蟻が十。
キャラクターの性格を固めるのがマジで大変でとほほ。
pとs X(Twitter)やるかもです。
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