第1話 沈黙の町と壊れた希望
朝日が水平線の彼方から昇り始めると、海面は金色に染まり、静かな波がかすかに家の外壁に打ち寄せていた。
主人公はその光景を、窓からじっと見つめていた。世界は変わってしまった。それでも、昨日までと変わらぬ日常を取り戻すかのように、主人公はゆっくりと立ち上がる。
玄関先に係留してあった小さなボートに乗り込む。数日前に雨が続いた際、念のために準備していたものだった。思いがけず、それが今、自分の世界と繋がる唯一の足になっていた。
手にしたロープを解き、エンジンのスターターを引く。
ぶおん、と小さな音が静寂を破る。水面に波紋が広がり、朝日に照らされて銀の鱗のようにきらめく。
家を背にして、主人公はボートを進める。
街は、まるで幻のように姿を変えていた。
建物は二階部分だけが水面から覗き、かつて賑わっていた交差点も、その姿を青の下に沈めている。
電柱の先端には、羽を休める鳥たちがぽつりぽつりと佇み、何かを待つかのように空を見上げている。
道路標識はかろうじて水面から顔を出していたが、その文字は波に洗われ、もはや読めないものも多い。
信号機は沈黙したまま、赤でも青でもなく、ただ濁った水を映していた。
看板はちぎれ、風に流され、もしくはどこか遠くへ漂っていったのだろう。
視界の果てまで広がる海。あまりの変わり様に、ここが本当に自分の住んでいた街なのかすら、疑わしくなってくる。
目指すのは、かつて農業に従事していた職場——田畑とビニールハウスが並んでいた広大な土地。
ボートを慎重に進めながら、主人公は水没した街を静かに横切っていく。
ようやく到着したその場所で、主人公は息をのんだ。
そこに広がっていたのは、かつて見慣れた農地とはまるで違う、荒廃と破壊の風景だった。
ビニールハウスは、無惨にも引き裂かれていた。ビニールはすでに風にちぎれ、フレームは水に沈んでぐにゃりと歪んでいる。
畝の痕跡すら見えない。海水をかぶった作物たちは変色し、浮かんでは沈み、根こそぎ流されていた。
かつて、仲間たちと汗を流して育てていた生命の痕跡は、何一つ残されていなかった。
主人公は、濡れたデッキの上で立ち尽くした。
喉の奥に何かが詰まったような感覚。言葉にならない叫びが、胸の内側で何度もこだまする。
そのとき、不意に背後から鋭い声が飛んだ。
「なんだこれは……! お前、対策はしていなかったのか!」
驚いて振り返ると、ボートで後を追ってきていた上司が、水飛沫を上げて船を寄せながら叫んでいた。
顔は真っ赤に染まり、怒りに震えている。
主人公は言葉を失った。
対策? どうすれば防げたというのか? 想定外、という言葉ですら足りない規模の災害だ。
それでも、誰かに責任を問わずにはいられないのだろう。そうしなければ、この理不尽な現実と向き合えないのだ。
「そもそも、こんなこと……俺たちにどうしようもないじゃないですか」
主人公は絞り出すように言葉を返すが、上司の表情はさらに険しさを増した。
周囲には、他の従業員たちが沈んだ顔で遠巻きにそのやり取りを見ていた。
皆、心の中に不安と焦燥を抱えていた。怒りをぶつけることも、慰めの言葉をかけることもできず、ただただ立ちすくむだけだった。
海に沈んだ街。
壊滅した農地。
そして、行き場のない怒りと、底知れぬ絶望。
それでも、主人公は知っていた。
生きるためには、この変わり果てた世界を受け入れるしかない。
逃げられないなら、歯を食いしばって、前を向くしかないのだ。
その決意が、わずかにだが、沈んだ目に光を戻した。
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