最後の方舟
影守 燈
プロローグ:沈黙の朝
夜の帳が降り、激しい雨音が家の窓を叩き続けていた。ガラスに打ちつけられる水の粒は、まるで無数の指先が外側から窓をこじ開けようとしているかのように、無慈悲に響く。
主人公は布団の中に身を潜めながら、まどろむこともできずにただ耳を澄ませていた。
「……うるさいな……」
かすかに呟いた声も、雷鳴にかき消される。
その雷は、まるで空の裂け目から怒りが噴き出すような轟きだった。風も狂ったように吹き荒れ、屋根が軋み、どこか遠くで何かが倒れる音がした。自然がまるで怒り、叫び、何かを警告しているような、異様な夜だった。
そして、いつしかその恐怖すら薄れていく。疲れた意識は、嵐の騒音すらも遠く感じながら、闇の中に沈んでいった——。
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翌朝、ふと目を覚ました瞬間、主人公は思わず耳を澄ませた。あれほど激しかった嵐の音は、すっかり消え去っている。
代わりにあったのは、不自然な静けさだった。
鳥のさえずりもなければ、近所の車のエンジン音もない。ただ、自分自身の呼吸音だけが、部屋の中にぽつり、ぽつりと響く。
「……あれ?」
胸の奥がざわつく。異変の気配を感じながら、主人公は重い体を起こし、部屋のカーテンをゆっくりと開けた。
その瞬間——
息を呑んだ。
目の前に広がっていたのは、街ではなかった。
一面の水。
建物も道路も、車も街路樹も、すべてが水の底に沈んでいた。
昨日までそこにあった世界が、まるで幻だったかのように、静かな海へと変わり果てていた。
主人公の住む家は二階建てだった。今、自分がいるこの部屋のすぐ下まで、澄んだ青がゆっくりと揺らいでいるのが見えた。
しかし、奇妙なことに——家の中には一滴の水も入ってきていない。
床は乾いており、昨夜眠る前と変わらない光景が広がっていた。
「なんで……?」
戸惑いながら階段を下り、玄関へと向かう。ドアノブを握る手に、わずかに震えが走った。
そして、そっと扉を開ける——。
目の前には、まるで湖の中央に取り残されたかのような、水面の世界が広がっていた。
波は穏やかに揺れている。風が吹き、水面に反射する光がゆらゆらと揺らめいていた。
遠くの方には、頭だけを出した電柱が一本。その上に一羽のカラスが止まり、ひと声、哀しげに鳴いた。
だが、それ以外には何もない。車の音も、人の声も、まったく聞こえてこない。
世界がまるごと**「水に消えた」**ようだった。
これは——夢なのか、それとも現実なのか?
しばらく言葉を失ったまま、その異様な景色を眺め続けた主人公は、やがて小さく息を吸い込んだ。
「……生きなきゃ」
恐怖を振り払うように、足元を見据えた。
それが、終わりの始まりだった。
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