第2話 わるあがき

「急いでたの?」


「……まあね」


無邪気な問いかけに、目を逸らしてはぐらかす。


本当は、いつもの光景だけど。


たまたま今日は、ということにさせてほしい。


「じぃーっ」


深雪は怪訝そうな顔を浮かべている。


「な、なに?」


「別に。手伝おっか?」


「……大丈夫です」


ありがたい申し出だけれど、謹んでお断りする。


テレビ台の前で膝を折り、床を右往左往する。


落ち着こう。まだ、バレるわけにはいかない。


「……よし」


深雪の前では“あの頃の私”を演じなければ。


ぐちゃぐちゃの服を畳みながら、ひそかに決意を胸にした。


しばらくして、キッチンの方から声が聞こえる。


「これ、冷蔵庫に入れとくね?」


そういえば、エナドリがそのままだった。


「ごめん、助かる!」


わちゃわちゃと手を動かしながら、声だけで返事をする。


えっと、缶ゴミは別分けにしてまとめて……。


キッチンの方からガタゴトと音が聞こえる。


「……これ、賞味期限切れじゃない?」


「えっ?」


「このバター、捨てておくね」


「まって!」


慌てて立ち上がり、キッチンに駆け寄る。


「それ、まだ食べられるから!」


「でも」


「もったいないじゃん!!!」


そう叫んで、深雪の手からバターの箱を掴み取る。


「これ一つで、ただの白米が高級品に変わるの!」


「そうなの?」


「ちょっとずつ使わないとダメなの!」


バターの箱を片手に力説する。


冷凍のご飯をチンして、バターの欠片と醤油をたらり。


それだけで何度、ひもじい夜をやり過ごせたことか——。


「……」


深雪は驚いて、目をぱちくりさせている。


「ご、ごめん」


「いいけど……」


しばらく間を置いて、バターの箱をゴミ箱に捨てる。


じわりと、胸に広がる罪悪感。


ごめん。でも、深雪の前では“あの頃の私”でいたいから……。


「……」


深雪から、無言の圧力を感じる。


「な、なに?」


「お姉、なんか雰囲気変わったよね」


「そ……そんなことないよ!」


そろりと後ずさりながら、ぷいと視線を逸らす。


そんな私を見て、深雪はますます不信感を高めたようだ。


ぬるりとこちらに近づいて——首筋のあたりを嗅ぎ始める。


黒髪のツインテールが、目の前でゆらゆらと揺れる。


「くさい」


「え?」


「貧乏くさい!」


なんだ、そういうことか。


一瞬、心臓が止まりかけたよ……。


「お姉、バイトしてる?」


深雪は追及の手を緩めない。


「し、してるよ!」


「本当? 何のバイト?」


「それは……コンビニとか?」


「シフトは何曜日の何時から?」


「それは、えっとぉ……」


矢継ぎ早に質問を浴びせられ、じわじわと追い詰められていく。


でも、深雪にバレるわけにはいかない。


もう一度、心を奮い立たせる。


「ごめん。本当はバイトしてない」


「そうなんだ。なんで?」


「サークルが忙しくて」


「ダウト」


「え?」


ピシリ、と人差し指を突きつけられる。


「その割には、私服がダサすぎる!」


「ぐっ」


「サークルの友達がいるなら、もう少しマシな服を着るはずよ!」


そ、そういうものなのかな?


サークルによる気もするけど、よく知らないから反論できない。


でも、まだ諦めるわけにはいかない。


「勉強が忙しいの」


「ダウト」


「また?」


人差し指がグイと近寄せられる。


「部屋の中に教科書が見当たらないわ!」


「うぐっ!」


「どこを見ても漫画ばかりじゃない!」


今度は急所を突かれて、呻き声が漏れる。


散乱した部屋の中には、教科書やノートは一冊もない。


当然だ。去年、ブックオンに売ってしまったのだから。


「ぐ、ぐぬぬ……」


まずい。かなり旗色が悪そうだ。


このままでは“あの頃の私”が崩壊してしまう。


よし。ここは一旦、退却だ。


「ごめん。私、嘘ついてた」


素直に自分の否を認めて、手を合わせた。


そうすれば、一番の“嘘”はバレずに済むから。


「ようやく観念したのね」


「でも、大学に行っているのは本当なの」


そう言いながら、心臓がドクドクと高鳴る。


ここを突破されたら、一巻の終わり。


背中にむわりと、湿気が漂うのを感じる。


深雪は相変わらず、怪訝そうな顔を浮かべたままだ。


「本当だって!」


「……ダウト」


「えっ」


瞬時に看破されて、言葉を失う。


パリン、と結晶が割れるような音が聞こえた。


「お姉は嘘をつくとき、眉間に皺が寄るの」


「……」


「それに、まだ疑われてもいないことを、わざわざ宣言する必要がないわ」


完膚なきまでに詰め切られ、もはや反論する余地は残されていない。


「ねえ、どうして嘘をついたの?」


「それは……」


この期に及んで、私は言葉を濁そうとしている。


俯いた視界が、埃の目立つフローリングを映し出す。


もしかしたら、最初からバレていたのかもしれない。


私が、バイトをしていないということ。


私が、サークルに所属していないということ。


私が、勉強をしていないということ。


そして私が——。


「どうして大学に行かなくなったの?」


「……」


「責めてるわけじゃなくて。ただ、知りたいの」


真剣なまなざしで、深雪が私を見つめている。


友達や両親も知らない、東京での私の秘密。


失望されるのが怖くて、今まで秘密にしてきた。


それを、打ち明ける時が来たのかもしれない。


恥ずかしくて、恐ろしくて、心の奥にしまい込んだ記憶。


でも、深雪は馬鹿にしないで聞いてくれるかもしれない。


「……わかった」


ぽつりと呟くと、どこか気持ちが軽くなった感覚がした。


“あの頃の私”を演じるのは、もう終わりにしよう。

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