第1話 再会と命乞い

午後20時半。最寄駅から徒歩15分。コンビニからの帰宅途中。


数メートル間隔の街灯が途切れると、マンションが闇に浮かび上がる。


「ぜぇ……はぁ……」


息を切らしてエレベーターに乗り込む。手に提げたビニール袋の中には、約2週間分のエナジードリンク。ずっしりとした重みが、きりきりと手指に食い込んでくる。


こんなに辛い思いをするなら、通販の定期便を頼めばいいのに。冷蔵庫の備蓄が尽きるたび、同じ後悔を繰り返している。


「はぁ……」


扉の前にたどり着き、重荷を地べたに置く。スウェットのポケットに手を伸ばし、ざらりとした金属の感触を確かめた。


鍵を差し込み、回したそのとき——。


「あれ?」


開錠の手応えが、ない。


瞬間、冷たい風が首筋を撫でる。


20歳、東京、女の一人暮らし。人並みの防犯意識は備えてきたつもりだ。


「……」


ごくり、と唾を飲み込む。


いや、まあ。鍵をかけ忘れるなんてよくあることだし。


まさか今日に限って、泥棒に入られることもないよね?


そう自分に言い聞かせた後、おそるおそるドアノブを回した。


「……え?」


三和土を隔てた先、目の前に現れたのは——ツインテールの小柄な美少女。


タンクトップから覗く柔肌。煌びやかな黒髪。鋭利な瞳。


その黒い目に、ギョロリと睨み付けられて——。


「ぎゃゃぁっ!」


反射的に飛び退いて、尻餅を突いてしまう。


空き巣? 強盗? 脱走犯?


パニック状態の脳内で、悪い妄想が加速していく。


もしかして、最近話題の"闇のバイト"的な何か!?


だとしたら、殺されるかもしれない。


「い、命だけは見逃してくださいっ!」


その場に土下座して懇願する。


嫌だ。まだ死にたくない!


「東山純夏さん、ですよね?」


「ひぇっ!?」


不意に名前を呼ばれ、心拍数が跳ね上がる。


小動物のように体を縮こめる私。


おそるおそる顔を上げると——。


「……ぷぷっ」


ニタニタと笑う口元。ゆるくカーブした眉尻。


鈍色の瞳が、その場に伏した家主を嘲笑う。


どこか見覚えのある、その顔。


もしかして——。


「み、深雪?」


困惑しながら問いかけると、その少女はニコリと微笑む。


山城深雪、17歳。現役最年少の女流棋士。


中学生時代にデビューして以来、無敗の連戦連勝。その実力もさることながら、美しく研ぎ澄まされた顔面が、SNSにアップされるたび話題を呼ぶ。


いつしか呼ばれ始めた二つ名キャッチフレーズは——剛腕の小悪魔。


「ほ、本当に深雪なの?」


「うん。今来たところ」


「ひさしぶり……じゃなくて!」


ほっと胸を撫で下ろした直後、頬に熱が込み上げてくる。


まさか、深雪に土下座姿を見られるとは。


「もう、驚かせないでよ!」


「ぷぷっ。お姉、怖がりすぎでしょ」


「うぅ、恥ずかしすぎる……」


4歳差の私たちは、いわゆる“幼馴染”の関係だ。


実家の一軒家は隣同士。深雪の父親は家を空けることが多く、私たちの家族がよく面倒を見ていた。


「でも、どうして私の家にいるの?」


当然の疑問をぶつけると、深雪はきょとんと目を丸めた。


「お姉は何も聞いてないの?」


私が首を振ると、深雪はポケットから何かを取り出した。


さっき私がポケットから取り出したのと、同じ形のもの。


「合鍵」


「なんで?」


「おばさんにもらった」


「いや、なんで!?」


あまりに平然と言いのけられ、思わず大声を出してしまう。


去年、この部屋の様子を見にきた母親に、合鍵を渡した記憶はある。


どうして、それが目の前に?


「と、東京に住みたかったの」


こちらの疑問を察したのか、深雪は先回りして答える。


「そうなの?」


「う、うん! 東京には将棋会館もあるしね」


私たちの地元は、関東近郊の外れにある。


山手線の圏内まで出てくるには、電車を乗り継いで1時間半ほど。


東京を“仕事場”にするには、やや不便な場所かもしれない。


「それで、おばさんに相談したら……」


「……」


なんとなく話が見えてきた気がする。


「とりあえず、電話してもいい?」


「あ……うん、大丈夫」


ため息を吐き、スマホを取り出してLIMEを開く。


通話ボタンを押すと、母親の声が聞こえた。


『純夏? どうしたの?』


「あのね、今、深雪が家にいて……」


『深雪ちゃん? ああ、今日からよね?』


「……え?」


『あなたの家に住んでもらうことにしたのよ』


瞬間、脳がフリーズする。


『大変よねえ。仕事の都合とはいえ、上京なんて』


「いや、あの。聞いてないんだけど」


『いろいろ面倒見てあげるのよ? それじゃ、切るわね』


「ちょっと、お母さん?!」


慌てて呼びかけたが、返答はない。


どうやら電話を切られたらしい。


「はぁ……」


「どうだった?」


「えっと……おおむね予想通り」


スマホの電源を切り、大きくため息を吐く。


どうしよう。今日から一緒に生活するってこと?


そんな、いきなり言われても——。


「……ごめんね」


小さく、消え入りそうな声。


深雪は手を前に組んで、申し訳なさそうに俯いていた。


「そんな、深雪は悪くないよ」


「でも、迷惑だよね」


どう考えても悪いのはお母さんなのに。


深雪は俯いたまま、今にも泣き出しそうな雰囲気だ。


その姿が、どこか小さい頃の彼女に重なる。


——どうにかしてあげなくちゃ。


玄関の中に進んで、そっと体を抱きしめた。


「大丈夫だよ」


胸元に伝わる、温かい感触。


しばらく見ないうちに、少しだけ背丈が伸びた気がする。


「ちょっと驚いただけだから」


「……本当?」


「うん。全然、嫌じゃないよ」


優しく語りかけながら、ぽんぽんと背中を叩いてあげる。


不安じゃないと聞かれたら、嘘になる。


けれど、今は安心させなくちゃ。


「……ありがと」


ぽつりと呟いた後、深雪が自分から離れていく。


ちょっとは、お姉さんらしいところを見せられたかな。


なんとか落ち着いた様子の深雪を見て、自然と笑顔が浮かんだ。


サンダルを脱いで、リビングに向かう。


そして、電気を点けた瞬間——。


「げっ!」


目の前の光景に、呻き声が自然と漏れる。


机の上に並べられたエナドリの空き缶。


床に脱ぎ捨てられた衣類。


部屋の隅に寄せられた、捨て忘れのゴミ袋。


「「……」」


深雪とふたり、凄惨たる光景を眺める。


……事前に知らせてくれれば、片付けたのに!

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