第3話 とらうまの日

新生活がスタートして、数日ほどが経過した頃。


カバンの中身を取り出して、もう一度確認する。


翌日分の着替え、化粧品のポーチ、スマホの充電器。


大丈夫、問題ない。


明日は、学科の同級生たちと初顔合わせの日。


大学に集合して、そのまま1泊2日のリクリエーション合宿だ。


『よ、よし』


地元から出てきて、ゼロからの東京生活。


高校の友だちは、もう連絡帳の中にしかいない。


たくさん友達を作って、いいスタートを切るんだ。


『……』


ダメだ。緊張して眠れない。


明日、うまく話せるかな。


いや、大丈夫。


話題に困った時のために、トランプマジックを練習してきた。


それで人気者になれるって、大学生のMeTuberも言ってたし。


——よし。


もう一度、イメージトレーニングだ。


まずは“タネも仕掛けもない”ことをアピール。


手のひらに、トランプ一組を用意して……。


『……』


そういえば、トランプは入れたっけ?


布団を抜け出して、カバンの中身をもう一度確認する。


——ちゃんとあった。小さい方のポケットに。


これがないと、私の計画は総崩れだ。


ほっと胸を撫で下ろして、また布団に潜り込む。


『……』


もくもくと不安が膨らんでいく。


歯磨きは? 筆記用具は?


ハンカチとティッシュは? スマホの充電ケーブルは?


たしか小物入れの中にあるはず。多分、間違いない。


でも、一応、確認しておこう。


『……』


よかった。全部あった。


ふと時計を見上げると、時刻は夜の12時半。


早く眠らないと、寝坊しちゃうかも。


そう思うと、余計に心臓が高鳴り始める。


どうしよう。早く眠らなきゃ。


一刻も、早く、眠らなきゃ——。


「あのさ」


深雪に話を中断される。


「な、なに?」


「前置きが長くない?」


テーブル越しに苦言を呈される。


「そうだよね、ごめん……」


「もう、早くしてよね」


たしかに、本題までが長過ぎたかもしれない。


深雪の指が、テーブルの上面をトントンと叩く。


いかにも苛立たしげな様子だ。


……そんなに怒らなくてよくない?


「すぅぅぅぅぅ……はぁぁぁぁぁ……」


「深雪?」


「しんこきゅう、しんこきゅう……」


ボソボソと何かを呟きながら、肩を上下させる深雪。


やっぱり、様子がおかしい気がする。


「ごめん。お姉、続けて?」


「うん」


深雪から促され、また記憶を手繰り寄せる。


そうだ。


あの後、夜遅くに眠りについて、それから——。


『う、嘘だ……』


目覚まし時計を手に、情けない声が漏れる。


時計の針は、深夜2時を指したまま。窓の外からは陽光が降り注いでいる。


導き出される結論を、絶望感が追いかけていく。頭の中がじわじわと痛む。


枕元のスマートフォンを手に取る。


画面に表示された四桁の数字。急速に心拍数が跳ね上がる。


『遅刻だ!』


お布団から跳ね起きて、部屋の中をぐるぐると歩き回る。


失敗した。失敗した。失敗した!


どうしよう。今から取り返す方法は——。


いや。まだ慌てるような時間じゃない。


急行電車に乗れれば、まだ間に合うはず。


洗面台に向かい、最低限のメイクとヘアセット。


素早く服を着替えて、家を飛び出した。


腕時計をチラリと見る。


よし。まだ間に合う。数年ぶりの全力疾走。脇腹がズキズキと痛む。


そして、ようやく駅に辿り着いて——。


『そ、そんな?!』


改札口の前には、人、人、人。


入場待ちの人だかりができていた。


電光掲示板の文字を追い、大幅な遅延が生じていると知る。


これが、東京の交通網——!


と、感心している時間はない。


これなら、タクシーの方が早いかも。


よし。


回れ右をして、タクシー乗り場の列に並ぶ。


先ほどの改札口よりは列が短そうだ。


『池袋までお願いします!』


運転手さんに告げて、車が走り出す。


背もたれに身を預けた途端、じわりと汗が吹き出すのを感じた。


ようし。とりあえず、到着するまでは休めそうだ。


環状線沿いのビル群を眺めながら、ほっと一息つく。


『……え?』


『どうかされました?』


『い、いや。大丈夫です!』


瞬間、急速に違和感が広がる。


嘘だ。昨日、あんなに確認したのに。


頭の中に浮かんだ不安要素を拭おうと、カバンの小ポケットを開く。


『!』


ない。財布がない。


小物入れの中にも、大ポケットの中にも。


ジャケットのポケットにも、どこにもない。


『お客さん』


『はいっ?!』


『池袋の東ですか、西ですか?』


『えーっとぉ……』


そんなこと言われても、何かを考えられる余裕なんてない。


『どっちでも大丈夫です』


『……は?』


パニック状態の中、よくわからない返答をしてしまう。


バックミラー越しに、運転手さんと目が合う。


ああ。ダメだ。涙が出てきた。


もう地元に帰りたい。実家に帰りたい。


本当は、こんなはずじゃなかったのに。


キラキラの大学生活を送るはずだったのに——。


「ストップ!」


深雪の声がして、現実世界に意識が戻る。


「お姉、涙拭いて」


「へ?」


「今すぐ!」


目の前にハンカチを突き出される。


そこで、ようやく自覚した。


頬を伝う、温かな熱の存在に。


「あ、ありがとう」


「うん、大丈夫……大丈夫だから……」


目元を拭いながら、呼吸を落ち着けようとする。


ただ思い出しただけなのに、自然と涙が流れていたようだ。


「えへへ、まだ私も消化しきれてないみたい……」


動揺を悟られたのが恥ずかしくて、誤魔化すように笑う。


ずっと思い出さないようにしていた、人生最大のトラウマ。


その古傷は、まだ深く刻まれたままだった。


「最初のうちは、それでも頑張ろうとしてたの」


「……うん」


「でも、やっぱり上手くいかなくて……ぐすん」


「大丈夫だから。あっち向いて」


「う、うん……?」


深雪に言われるがまま、少しだけ顔を背けた。


視界の端、両肩が小刻みに震えている。


「……ぐすん」


「!」


あ。また、びくんってなった。


なぜか唇を噛み締めて、何かを我慢するような表情だ。


それが、どこかおかしくて。


「ふふっ」


ふと、笑いが漏れてしまう。


胸の内に広がる、小さな安堵感。


けれど、すぐに劣等感が追いかけてくる。


「……」


心がズタズタに引き裂かれるような感覚。


今まで、あえて向き合わないようにしてきた。


自分の弱さを自覚したくないから。


けれど——。


「ごめん。失望したよね」


「……お姉?」


「私、ダメ人間だよね」


「!」


ぽつぽつと、絞り出すように呟く。


ああ。せっかく、深雪と再会できたのに。


こんな姿、見せたくなかった。


深雪に尊敬される、最高の“お姉”でいたかったのに……。


「深雪」


もう一度、深雪を真正面から見据える。


視線を交わし合う。


その心配そうな表情が、また、心に波紋を落として——。


「こんなお姉ちゃんで、ごめんね?」


言葉にすると同時に、また決壊してしまう。


ボロボロと溢れ出す涙。


自分が情けなくてしょうがない。


「やめて……」


消え入りそうな声の深雪。


そうだよね。こんな私、見たくないよね。


でも、涙はとめどなく流れていく。


もう、あの頃の私には戻れない——。


「……もう限界だわ」


ボソボソと、深雪が呟く。


涙を拭いながら、もういちど顔を上げると——。


「え?」


頬杖を突いて、こちらを見つめる深雪。


柔らかに細められた瞳。


その奥から、鈍色の煌めきを感じる。


こちらの視線に気付いて、ニヤリと口元が笑う。


「やっぱり、大好き……♡」


「み、深雪?」


「その顔♡ 負け犬みたいな、なっさけない顔……♡」


「え?」


信じられない言動に、言葉を失う。


い、いったい何が起きているの?


そこには、間違いなく——私の知らない深雪がいた。

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