第9話 キスの先は

「ろい、俺の秘書にならない?」

「へっ!? あ、あの僕は無理です」

「編集長になりたいとか?」

「それもありますけど、けんごさんの魅力で頭がいっぱいになって仕事にならなさそうです」

「んー、今のは実体験ベースの失敗談?」

「……はい。うちの編集長のパワハラがどうのって聞きまくってたじゃないですか。あの頃の話です」

「仕事にならないってどんな感じ?」

 ソファに座っていたけんごさんが身を乗り出した。

「あ、あの……トイレにこもって、し、しました。だ、だから無理、です」

「したって何を?」

「いやあのだからその、えーっと」

 純粋にまっすぐに目を見つめられて両手で顔を隠した。

「ろいの首、真っ赤になってる。かわいすぎ」

 そういって頭を撫でられた。

「恥ずかしくなるようなことをしたんだね」

「……は、はい。そうです」

「ろい、キスの先に進みたい?」

 脳内にエクストラメンションマークが複数浮かんだ。

「俺は、来年度に入る前にろいと一緒に住む部屋を探したい。一緒に住みたい。でも知り合いに相談したら、先にパートナーシップ宣誓書が必要かもしれないんだ」

「あ、公的に同性同士の婚姻関係を証明するっていう」

「なんだ! 詳しいじゃん!」

「いや、あの、そういう知識をアップデートしていかないと作家さんとの意思疎通が難しくなるので」

「ろいは仕事が出来るなぁ。だからさ、やってみない? 例えばさ、秘書検定受かってから考えるとか、ね?」

「まぁ、やってやれないことはないですから」

 なんだかうまく乗せられた気がする。

「じゃあ、一緒に住んだらキスだけじゃなくて……」

「うん、今も充分うまくいってると思うし。何よりろいは口がかたくて助かってるよ」

 唇にけんごさんの指が当たって、視線が合ったら唇を求めた。


 三月末に転居が済んだ。四月一日付けでけんごさんが副社長に就任する。

「そういえば、役所の手続きは終わったけど、会社への提出書類書いてないだろ。持ってきたんだけど、今のうちに書いちゃおうよ。明日提出できないと俺は副社長になってから総務課に提出することになる」

 ボールペンと印鑑を用意する。手汗が出てくる。

 けんごさんはゲーム部屋と僕の趣味の部屋と寝室とゲストルームを絶対に確保したかったので、僕が今まで住んでたワンルームと違ってとても広い部屋にいる。

「書けた!」

「早い!」

「けんごさんは綺麗な字で書こうとしてるからだよ」

 敬称はやめようと提案されているが、今までどおりにしている。

「まず就任セレモニーがあって、そのあとは就任パーティーに出席予定だから、遅くなるようだったら、ろいは早く寝ていいからね」

「うん、わかった」

 それでもかなり砕けた言い方に慣れてきた。

 突貫的に受験した秘書検定は受かった。周囲が学生ばかりで面食らったけれど。目まぐるしい日々を送りそうなけんごさんのスケジュールを家庭でもいくらか管理すると考えると、秘書検定で自信をつけるのは良い選択だった。

 

 土日の朝食はいつも食パンで、そのうち焼いたパンの真ん中を無理やり削ってからバターを載せた。味のしみこみが違って格段に美味しかった。

 けんごさんによるとジャムは邪道らしく、美味しいバターの研究に余念がない。新たな一面を知るごとに好きが増した。キスの先を焦って求めることも少なくなった。


 翌日、時間は指定してないのに結局朝一番に総務課へ提出した。

 誰にも言ってなかったからか、一瞬ざわついたが年配の上司が出てくると静かになった。申請できる休暇の説明が書いた書類をいただいた。その後は特になにもいうことなく、お互いの部署へ戻って普通に仕事をした。

 けんごさんのことで頭がいっぱいだ、なんて不安になることもなくなった。

 自宅に戻れば安心感が得られた。

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