第7話 わかへん
月曜の出社の気分が軽い。好きな人がいるなんていつぶりだろう。
始業して、一人目のお客様が帰られたころ、部署の入り口でドタバタと人が集まっている音が聞こえた。
「わかへん、どうしたんですか?」
「ああ、いや。第三文芸の嫌な噂をちょっと耳にしてね。休憩がてら歩いてきた」
「嫌だなぁ、副社長になるの来年度からでしょ。まだ十一月ですよぉ。社内研修は来年からにしてくださいよぉ」
副編集長にわかへんと呼ばれた方の声がけんごさんに似ていて、どんな顔をされているのだろうと衝立の裏からそっと盗み見た。
――けんごさんだ! どういうことだろう。
とにかく、出したお茶を片付けないと叱られるハメになる。
押し問答をしていたようだが、気づいたころにはいなかった。
気のせい? 似ているだけ? わかへんと副社長が結びつかない。第一、と考え始めて、僕はけんごさんの苗字を知らないことに気づいた。けんごさん、けんごさんだったら、僕は……。
「すみません、休憩行ってきます」
「おっ、行ってきな」
なにかと僕を気にかけてくれる副編集長に声をかけて、トイレの個室へ入った。
いつもと違う場所でけんごさんを見かけたからといって、いつもと知らない表情をまた見つけたことに興奮が止まらなかった。
それでも、けんごさんで頭がいっぱいになって元気になってくれただけでも大きな変化だ。
けんごさん、わかへん、副社長。これらの単語の結びつきは理解できないが、スッキリしたおかげでスムーズに仕事をこなした。
仕事が一段落して、副編集長から休憩に誘われた。といっても、自販機が置いてある立ち飲みできるぐらいの高さのテーブルがあるちょっとした休憩スペースだ。昔は喫煙室だったらしいが、今はその面影は感じられない。壁も塗り替えてしまったようだ。
「あのー、昨日なんか揉めてました?」
「そんなことあった?」
「なんか、わかへんとか副社長とか聞こえてきたんですが」
「ああ
「そうですね、僕も編集長が一番偉いぐらいに思ってました」
「まぁ出版社ってそういうノリあるよな。でも、若編は編集の仕事を知ってから経営をやりたいと言って」
「すごいっすね、そういう人。尊敬します」
「誰の話をしてらっしゃるんですか?」
声をかけられて振り向いた先にけんごさんの顔があった。
「あれ、若編。地獄耳でいらっしゃいます? 今ちょうど」
間違いなく、けんごさんは若編なんだ。
「そうなんですか。ありがとうございます。ところで第三文芸の編集長のパワハラの話なんですが――」
「あっ、ちょっとその話はここじゃなんなので。友永、お前一人で編集部戻ってもらえるか? 俺のことは腹痛でトイレに駆け込んだとでも言っておいて」
「は、はぁ。わかりました」
副編集長を連れて、けんごさんは会社の廊下をスタスタと歩いていってしまった。
色眼鏡で見られたくないから苗字を教えない、バーで寂しさを埋めるときも無理をしている、一人で住むには少し大きな部屋を借りれるだけの給料。
けんごさんらしいと思いつつ、僕が所属する第三文芸編集長のパワハラってなんだ!?
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