第309話

旅立ちの日の朝は、夢でも見ているかのように穏やかだった。




大きな窓から差し込む日差しは視界が霞むほど眩しくて。

私を迎えるように両親と兄は先に起きて待っていて、なんだがむず痒かった。



家族揃っての朝食。


オレンジ色のケイトウが存在感を放っているテーブルには、私が子供の頃お気に入りだった朝食メニューが並べられた。






生クリームたっぷりのスクランブルエッグにカリカリに仕上げたベーコン。

父のレストランのシェフが焼いたバケット。

お取り寄せされたマンゴーとシャインマスカット。


そして、母特製のグリーンスムージー。




懐かしいそれらに優しい気持ちになりつつも、今日は特別な日なんだと痛感する。




寂しいとは少し違うと思う。


期待も不安も抱かないままに、新しい生活が待っているというのは奇妙な感覚だった。






少し長めの食事の後、たっぷりと時間を使って身支度と最後のパッキングを完了させたのは2時過ぎだった。





ライブに行く前には渡瀬さんとの打ち合わせ。

これが最後になるかと思うと、これもまた感慨深い。





出掛ける直前、玄関の姿見に映る自分を見て数秒ほど思考が止まった。



ショートパンツにボーイフレンドシャツをインして、黒のロングブーツを履いて、チェーンウォレットを斜めがけ。

そこにいたのは、今夜日本を発つなんて思えないほど身軽な装いをした人間だった。



大きな荷物は後から持ってきてもらうことになっているからなんだけど。

想像と現実のギャップというものが妙に際立っていて、でもやっぱり現実感がない。





ドアの前に立ち、一呼吸置いて家の中にゆっくりと視線を巡らせる。



この家で過ごした時間の多くは独りだった。

後ろ髪が引かれる理由があるはずもなく、名残惜しさのような感情は湧かない。





だからこそだと思う。


戻った時にはきっと希望が詰まってると期待している自分がいて。

今はそれで充分だと思う。

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