第232話

「最高の夜だったよね、」




俯いたままアスファルトに向かって呟かれた言葉が、消えかけていた渚の感触を呼び戻す。


目の前にある肩を強く引き寄せたかったのに、数十秒後には手の温もりさえ断ち切られていた。




衝動的に行かせまいと渚の手を掴もうとする。

だけど渚はそれをサラリとかわし、背を向けて歩き出した。





「―――っ…なぎさ!」





切なる呼びかけは華奢な背中に届き、躊躇いを見せずに歩んでいた渚の足を引き止めた。




でもそれはほんの一瞬で、渚は振り返ることなくまた歩き出す。

定められた道を一歩ずつ確実に。




「……どうなってんだよ―――…」




明るい未来しか描いてなかったから。

二人してやっと新しい一歩を踏み出したんだって思ってたから。



そんな儚げな後ろ姿は受け入れられない。





離れていく渚を引き止めたい一心で声を上げていた。



だって意味分かんねぇよ。




冷静ぶって色々考えてみたけれど、この状況で浮かんだ数々の疑問を言葉にすることさえ許されない気がして言葉もまともに出てこない。





渚がこっちを見たのは車の前で待っていた刑事の元へ戻った時。

刑事に浅く頭を下げた後、ゆっくりと俺に目を向けた。



渚の表情には不安も哀しみも一切無かった。

それが不思議で、納得いかなくて。




「な…んだよ―――…」




何なんだよ。何だっつーんだよ。


これ以上にないくらい穏やかな表情を見せつけやがる。



海のように深い瞳と、菩薩のように穏やかな表情。

初めて目にするその顔は、この状況に似合わず見惚れてるほど綺麗で。



その時ふと思ったんだ。

今までの渚は心から笑えてなかったのかもしれないって。

俺が本物だと信じていた笑顔さえも影が伴っていたような気がした。

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