無糖なる夜とバレンタイン
「芝居はどうすんだよ」
渉くんが斬り込むと私も頷いた。渉くんて意外と頼りになる男なんだ。知ってた。でも答えはあんまり聞きたくない。
「―――――――――趣味で続けられるかもしんないし」
いっちゃんは重たい口を開いた、そういう表現がよく似合う口調だった。
「・・・・・うん」
「なんか探してみるよ」
「・・・うん」
「そっか」
重いカップを顔の前で遊ばせていた。それが紅茶ではなくアップルティーなのだということを私は忘れていて、
渉くんが「バイトあるから」とスマホの画面を見るまで、三人でくだらない話をした。いつもみたいに超しょうもなかったのは確かなんだけど、何を話したかは全く記憶に残っていない。あんなに笑ったのに。
帰り際、いつものことなんだけど渉くんが不機嫌そうだった。これからバイトだからという理由もあるのだろう。そういうことにしておこう。私はくだらない話をしていたかった。いつまででもしていたかったよ。いっちゃんが「引っ越すなんて嘘」とか言い出すまで。
「辞めるわけないじゃん」とかね。
********************
「いっちゃん」
駅までの道で「明日は千秋楽だね」と切り出しそうになって慌てて口を閉じた。お酒を飲んでいなくてよかった。酔っていたら、うっかりやらかしていただろう。
最後になるであろう舞台の最後日だなんて、口に出してしまったら本当のことになりそうで怖い。嫌なことは起こってしまうまで起こらないと信じていたいんだ。現実になってしまうまでは。
「・・・前にスタバ行ったじゃん、バレンタインの時」
「うん。蕗がマフラー落とした時だな」
まったく嫌なことを思い出させるぜ。このクソ野郎が言うように、私は買って間もないお気に入りのストールを何処かで落としてしまった。気が付いてすぐに、いっちゃんはランチで入った焼肉屋さんに電話をしてくれた。あの日は少し暖かかったからストールを首には巻かずトートバッグに乗せて歩いていたんだ。結局手元には戻って来なかった。いつも落し物はだいたい回収できるのに。しかも3万円くらいしたのに。
「俺も蕗にマフラー返さないと」
「いいよ、いつでも」
引っ越す前に、なんて言われたら堪らないから私は食い気味で答える。
暇だったので作ったチョコをあげたことをいっちゃんは憶えていると言ってくれた。私は言われたから思い出した。
「あん時ね、指ほんとは折れてたよ」
「知ってるよ」
あの時いっちゃんは、私のひん曲がった指を見て眉間に皺を寄せた。とても悲しそうな顔をさせてしまったから、笑えるようになったら話したいと思っていた。そんなことも忘れていたのだけれど思い出した。
「どっから見ても折れてたよ、あれは」
注文の仕方がわからなくてスタバにはほとんど行ったことが無かった。それをわざわざバレンタインに、いっちゃんと二人で。意味わかんない。
「あの後で三回くらいはスタバ行ったよ」
「すげえじゃん、成長したんだな」
「したんだぞ」
「えらいぞ」
パンが美味しかったよ。と私は言った。私と同じ理由でスタバに行ったことの無い年上の女性が今の職場にいて、二人で金曜日の帰りに行った。それから彼女と少しだけ行くようになった。
「スコーンとかクッキーとか食えよ」いっちゃんが笑う。
吐く息が白くて楽しい。四国も少しは寒いんだろうか。いっちゃんが活躍できるような場所はあるんだろうか。あって欲しい、お願いだから。いっちゃんの決めた前途が温かいものでありますように。そう願う以外にできることはなさそうだ。
今の仕事のやり方では満足にお母さんを看てあげられない。そこへ援助者が現れたのだ。これは願ってもない救いで栄転じゃないか。いっちゃんにとっては自分を悩ませる嵐の終わりなのだ。色んな苦しみや葛藤から抜け出すんだから。祝ってあげたい、笑って送り出してやろう。そう思うのに。
落ち着いたらまたやり直せばいいじゃん、なんて言えなかった。だめだ。涙が出てくる。
もうあの意味のわからない楽しい時間がやってくることはないんだ。あの頃に戻れなくても、ああやって過ごすことならできると思っていた。渉くんと三人でバカみたいに笑うだけの時間も、もう。
何よりも、いっちゃんがお芝居を辞めなければならないことが辛い。
―――――――いっちゃんがそう明言したわけではないけれど、明言しないことがそう思わせる。状況も物語っている。
やっと仕事にまでなったのに今ここでか。どうして。
劇場の神様ごめんなさい。罰なら私が受けますから。反省するし、これからは真面目に生きます。もう悪いことはあんまりしませんから、いっちゃんに舞台とお母さんを返してあげてください。
カーテンコール 茅花 @chibana-s
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